先日京都で、タイで修行中の日本人上座部僧・プラ・ユキ・ナラテボー師と久しぶりにお会いした。前回、インドのブッダガヤで偶然に出会ったのが2年以上前だから、随分以前のことになる。よく考えてみれば、私は師と15年ほど前にタイで出会ってから、回数で言えば数えるほどしかお会いしていないし、お話した時間を合計しても僅かなものだと思うが、タイで修行中にこの方と出会っていなかったら、私のタイ修行は単なる異文化体験で終わっていたかも知れない。
プラ・ユキ師が以前から説いておられることの一つに、読経の重要性がある。パーリ語であれ、漢文のお経であれ、その内容をよく意識しながら読経のリズムに身を委ね、心が別の所に飛びそうになったら、気をつけてお経に心を戻す、という作業は坐禅と同じく瞑想修行であり得るという考えを聞いた時は、目からうろこが落ちたものだ。
日本でも、意味のわからない中国語のお経をそのまま読んで有り難がっているのはおかしいという意見をしばしば耳にする。宗派によってはせめて書き下し文にしてみたり、場合によっては現代文に直してみたりという試みをしているところもある。だがパーリ語だってタイ人が話している言葉ではないし、韓国だって漢文のお経をそのまま読んでいる。意味を理解した上で意識的に読経すれば、むしろ外国語のお経をあげる作業は、プラ・ユキ師の言葉を借りれば、今、ここを大切に生きる瞑想なのだ。職業的にお坊さんをしている人なら誰でも、お経をあげながら考え事ができることを知っているだろう。でもその瞬間ですら、意識の持ちようによっては修行の場になり得るのだ。
日本でお坊さんをしている人、日本でお坊さんをしてからテラワーダ僧になった人、日本でお坊さんでなかったけれどテラワーダ僧になった人など、日本人僧侶もいろいろだ。プラ・ユキ師はもともと日本でお坊さんをしていた人ではないが、私が今までに出会った最高の日本人僧侶だ。