現代アートが果たすべき役割とは?~シンポジウム「加速するテクノロジー/自省するアート」を聴講して | pionpionのノンジャンル気まぐれ日記

現代アートが果たすべき役割とは?~シンポジウム「加速するテクノロジー/自省するアート」を聴講して

2013年2月13日から24日まで、11日間(19日は休館日)にわたって開催された「第16回文化庁メディア芸術祭・受賞作品展 」。
その締めくくりともいえるシンポジウム、「加速するテクノロジー/自省するアート」を聴講してきた。


当日の私は16時30分頃まで三井アウトレットパーク木更津でインストアライブを見ていたため、開始時刻を5分ほど過ぎて到着。すると、ちょうどシンポジウムが始まったところ。

定員100名。100人は入らないだろう…の予想は当たっていたが、もらった整理番号は64番。


pionpionのノンジャンル気まぐれ日記-入場証

70人近くの熱心な参加者の数。


出演者はあわせて5名。

岡部 あおみ(アート部門審査委員/美術評論家)
原 研哉(アート部門審査委員/グラフィックデザイナー)
三輪 眞弘(アート部門審査委員/作曲家/情報科学芸術大学院大学(IAMAS)教授)
建畠 晢(運営委員/京都市立芸術大学長)
※モデレーター:神谷 幸江(アート部門審査委員/チーフキュレーター/広島市現代美術館)


シンポジウムの前半は、大賞「Pendulum Choir」・優秀賞「欲望のコード」・新人賞「Species series」の3作品をそれぞれ上映し、出演者がコメントを述べていく。
後半は、審査に携わった立場からの感想や、アート部門としての今後の論点、そして「アートにおける『社会への貢献』の意義とは?」という点について、議論が進められた。


本芸術祭・アート部門の審査の過程で、
「アートとは?」
「アートの価値とは?」
「メディア芸術祭におけるアートとは?」
という議論が行われていた、ということだが、このシンポジウムにおいても

「西洋美術としてのアートの基準は無くなった。我々は若者に対して、何を目標として提示するのか。アートを見るモノサシを再定義しなければならない」(三輪氏)

「今後のアートは、テクノロジーだけがつくるものではない。何を見せるのか?(が重要)」(神谷氏)

「1950年代の作品にはアート&テクノロジーなどというものはないが、素晴らしい作品があった」(岡部氏)

「例えば、『あなたたちにはゴミと見えるかもしれないが、私の視点ではアートなのです』という認識が必要」(三輪氏)

という議論が行われた後、建畠氏が「アートにおける『社会への貢献・還元』の意義とは?」という点に触れて

「アートには時に人を不安にさせる作品があるが、それは人々を安定した生活から不安に陥れるためのものではない。
それは『均一ではない、他者がいる社会』をもたらすものである。

いつも進歩的、あるいは批評的な目で見る人がいることによって、社会を健康的・バランスのあるものにする。間違った方向への抑止力となる」
と述べた。


これは非常に重要な指摘であり、「現代アート」の本質のみならず、望むべき社会像を表しているものだと思う。


と書くと、半分くらいの人は「いや、そうではない。均一化された社会の方がいい」と答えるかもしれない。

例えば、「みんな同じ方向に向かって頑張ることに意義がある」とか。
あるいは、「敵か味方か、二者択一の方がわかりやすくて簡単で良い」とか(均一化された社会では、それに外れたものは目立つので、自分(達)以外の者としてわかりやすくなる)。


しかし、私は均一化された社会ではなく、多様な考えを持つ社会こそベストと考える。むしろ、均一化された社会はある種の危険な要素を内包する。それは歴史上においても、ナチス・ドイツの例にあげられるように、非常に危険な存在となりうる。


多様な考えを持つ社会では、いちいち反対者を説得したりとか、それでも反対する人がいるとか、面倒臭い。自分の考えを批判する人はうっとうしい。
均一化された社会の方が意思決定が早くできるし、いろいろ楽だ。皆が一丸となれる。
これは事実である。


しかし、ある考えに潜む「問題点」をあぶり出し、社会の面前に提示する。これは、批評的な目で見る者ができること。
あるいは、ある考えが良いものであれば、その延長線上の視点を提示すること。これも多様な考えを持つ社会でこそ、できること。
この2つの機能がなければ、社会は自らの力で進歩することも修正することもできない。
そしてこの2つの役割が、「現代アート」に課せられた役割だろう。私はこのように考える。


ところで、特に企業がらみのシンポジウムでありがちなパターンとして、「出演者が論点の流れに関係なく自社の主張を述べて、論点がかみあわないまま終わる」ということがよく見られた。

しかし、今回のシンポジウムでは、シンポジウム中で出てきた話題に触れつつ、自らの考えを述べる発言が多くみられた。
聴きごたえのあるシンポジウムであった。真に参加して良かったシンポジウムだったと思う。