ムムム。
むむむむ。
今週私はムムムな1週間でした。
なんだろなぁー。霊的ダウーン。
あがらない。ぜんぜーんあがらない。
祈っても、頭の上の方で言葉がひびいてるってかんじ。自分の口が祈る時は、ご聖霊様が祈ってくれてるのがよくわかる。口が勝手に喋ってて、言葉と思いが溢れてくるんだけど。
聖書を読んでても、文字が目の周りをうろちょろ通り過ぎるだけで、
「はい!今なんて書いてあったでしょーか!」
「すみません、読んでませんでした!」
ってな感じです。
イエス様の香りを放つものにしてください。
私を通して、世の人々が神様を見るようにしてください。
って祈ったので、神様の改造計画が始まったんだなぁと感じていますが。
すんげーしんどいのね。笑
自分で変な風に作り上げてしまった何かを、神様が今ぶち壊しにかかってる感じ。
あれ?私は今まで何を信じてたんだっけ?
天の御国で、なにがあるんだっけ?
神様から義の栄冠をもらう。。。
義の栄冠ってなんだろう?それって、そんなに欲しいものだっけ?
てなぐあいです。
やだよー。神様大好きなのにー。
私神様大好きで、神様も私大好きで
それに満たされてる時すごく幸せなのにー。
今も満たされてる時の感覚はあるんだけど、
でも違うのー。なんか違うのー。
それがすごく悲しいし辛い。
苦難によって持久力が生まれる。この持久力は健全なことへの証拠である。しかも証拠は希望へと発展する。私たちの希望は試みの日に私たちに恥をかかせるようなことはしない。なぜなら、私たちにすでに与えられている聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからである。
ローマ5:3~5(コニベアー訳)
苦難の時は終わってるんです。
それはねー、わかるんだ。
もう何があっても、苦難って感じじゃないとおもう。(とか言いつつ、すぐ苦しくなるけど)
今は忍耐の時ですね。
この忍耐を通して、練られた品性が与えられるわけで。忍耐を通してでなければ、品性は練られないわけで。ということは、神様の前に本当の意味での希望を見いだせないわけで。
この希望がなければ、試みの日に私たちは恥をかくんだそうで。試みにあっても、恥をかかず、まったき人でありたい私は、今勝負所なんですね。
きっとね。
ソウル・オンヌリ教会ソビンゴ担当牧師のパク.ジョンギルさんの「待つこと」というタイトルのメッセージに
私たちの人生に隠された宝は、第一に「待つこと」です。…待つことには、三つの益があります。第一に、神様に信頼する心を成長させます。…第二に、待つことは、本当に必要なものを見分けることができるように備えさせます。私たちが待っている期間、何が重要で必要なものであるかを区別できるようになります。…第三に、待つことは、機会を与え、天の御国の望みを与えます。…頼りどころのない孤独な瞬間も神様に信頼し、天の御国に望みを置き、その時間を通過するならば、確かにそれは私たちの人生に隠されている宝となるでしょう。皆さんがその宝を見いだされますよう願います!
とありました。
うおおお。。。まさしく。。。
私たちの人生に隠されている宝!
隠されている!!宝っ!!
これは神様に望みを置き、待ったものだけが見出せる宝!待った者だけが見いだせる!!宝っ!!うおおおお✨ほしいっ

忍耐が与えられてることに感謝せずにはおれないです!アーメン!
あれ?むむむな1週間じゃなかったね。笑
神様からの愛をもらってた1週間だったね。笑