ズレているものを、自分の芯へ戻す。 | 凛として生きる「女性らしく今を大切に」

凛として生きる「女性らしく今を大切に」

子宮内膜症、子宮筋腫、卵巣嚢腫、卵巣腫瘍、子宮腺筋症、ポリープなどの婦人病を抱える病と向き合いながら体調管理や、女性として凛として生きて行く日々を綴った50代女性起業家のブログです。

東洋の学問に出会い

自らの宿命を開いて向き合い

帝王学を徹底して勉強して

いよいよ分かってきたことがある。

 

人の心や精神というものは

目に見えないものだからこそ

自分自身で律しながら

コントロールすることが

とっても大切なのだという事。

 

日々、自分の外側には

様々な出来事が起こるし

たくさんの刺激がありますね。

 

物を販売するにも

人の心理を巧みについて

人の欲に働きかけるような

マーケティングが溢れています。

 

目に映るものはどれも

自分の様々な欲を掻き立てられ

揺さぶられるものが多いものです。

 

販売する側が人の欲をターゲットに

物を販売しているからですね。

 

そのために心理学を学び

皆さんの自己重要観や

承認欲求をターゲットに

商品やサービスを売ることが

この世界の構造だからです。

 

経済というものは

そうした構造の中で回る・・

 

仏教ではこうした

経済的な世界観のことを

『娑婆(しゃば)』と呼びます。

 

そしてその娑婆に

私たち人間は生まれて来たし

その中で生きて行かねばなりません。

 

これが誠に大変なこと・・

 

生きる事は『一切皆苦』である、

と釈迦が教えを残していますが

全く、この世界はカオスであり

混とんとしているものだと

つくづく思うようになりました。

 

また、仏教では

二足のわらじを履くことを

教えてくれるんですね。

 

この二足のわらじとは

どういうものなのか?

 

娑婆の世界の中で

現実的に生きる事に頑張ることが、

ひとつの草鞋とするならば…

 

もうひとつの草鞋は

娑婆を離れて心を清浄に保つ

善き世界観を保つことです。

 

娑婆の中を生きていれば

日々の暮らしの中で

失いかける心が出てきます。

 

毎日、無数の刺激が

蔓延る日常の中にいると

目から入る刺激にしても

耳から入る刺激にしても

口や鼻からも刺激が入って

人の持つ五感という感覚は

常に刺激され続けていきます。

 

そこを刺激する世界を

創っているのが娑婆なのだから

当然なんですよね。

 

だからこそ・・

 

その世界を離れて

過ごせる場を持つことや

そこから離れて心を洗って

清浄に保つ時間を持つことが必要だと

釈迦は教えてくれるんですね。

 

そのためには

心を清浄に保つ仲間が

必要なのだと。

 

心のブレや人生のズレを

整えてくれる善き縁をもつこと。

 

善き友と出会い、繋がり

互いにブレる心やズレていく人生を

注意し合ったり気づかせてくれる

そんな仲間が必要である、と。

 

仏教には

『悪魔との闘い』というような

そんな教示もあります。

 

これを

 

“魔が差す”

 

“邪魔が入る”

 

という“魔”という言葉を

使って表す独特な表現があります。

 

これは英語では

直訳できない独特な表現。

 

魔が差すというのは

普段の自分であればしないような

誤った判断や悪い行いですね。

 

ついうっかりしてしまった時に

こうした表現を使ったりしますが

この“魔”という表現は

一切経の中では実に六千巻もの

経典に認められる仏教用語です。

 

“本来の清らかな心を惑わすもの”

 

人の人生を生きる上で

大切な修行を妨げるものを

意味しています。

 

“魔”がなぜそこまで

多くの経典に記載されているか?

 

それは仏教がつまるところ

「悪魔」との闘いであると

されている面があるからです。

 

釈迦が菩提樹下で悟りを開く際に

最期に打ち克ったのがこの

“悪魔”と云われています。

 

「経集(きょうしゅう)」によると・・

 

悪魔は、悟りの最後の瞑想に

入っていた釈迦に対して

優しい労わりの言葉を発しながら

近づいて耳元で囁いたとあります。

 

“あなたは痩せていて、顔色も悪い。

あなたの死が近づいた。

あなたが死なないで生きられる見込みは

千に一つの割合だ。

君よ、生きよ。

生きた方が良い。

命あってこそ、もろもろの善行を

為すこともできるのだ。”

 

本当に達成できるかどうか

分からないような悟りなどに

命を賭けるのではなくて

一国の元の皇太子に戻り

堅実に生きれば良いではないか、

命あっての物種だ、と。

 

一見、もっともらしい意見です。

 

しかし、この意見に

 

「それもそうだな。。」

 

と同調して志を翻して

悪魔のいうように瞑想を

やめてしまえば・・

 

結局はそれまでの苦労は

水の泡となりますし

たとえ一時の気の迷いであっても

取り返しのつかないことがある。

 

こうしたことを

“魔が差す”“邪魔が入る”

と云う。

 

その時に釈迦は毅然とした態度で

 

“私には信念があり、

努力があり、智慧がある。

命など惜しいものか。”

 

ですが悪魔は諦めずに

猛獣になって襲い掛かり

脅してみたり・・

 

艶めかしい美女となって

誘惑したり・・

 

厳つい軍隊となって

攻めてきたりもした。

 

ですが、釈迦は

そうした悪魔の所業には

屈することなく悉く打ち返し

最後まで瞑想を貫き通して

ついに悟りに到達しました。

 

それ以来、

悪魔が釈迦の前に

現れなかったかと言えば・・

 

決してそうではありません。

 

釈迦が悟りを開いた後も

影の形に添うように

悪魔は釈迦につきまといました。

 

膨大な量の経典に

悪魔が現れるのはそのためです。

 

『相応部経典(そうおうぶきょうてん)』

『雑阿含経(ぞうあごんきょう)』には

釈迦とラーダという弟子との

悪魔に関するやり取りが伝えられています。

 

「世尊よ、よく悪魔、悪魔と仰いますが

いったい、悪魔とは何でありましょうか」

 

“ラーダよ。

悪魔とは、こうである。

我らの肉体は、我らを妨げ、かき乱し、不安に陥れる。

これが悪魔である。

また、我らの感覚は、我らを妨げ、かき乱し、不安に陥れる。

さらに、我らの感情、意志、判断が、我らを妨げ、かき乱し、不安に陥れる。

これが悪魔である。”

 

生身の人間は身体を持ち

感覚や感情を持っている以上

食欲、性欲、睡眠欲などにも

必ず悩まされるものであり

それは釈迦でも例外ではありませんでした。

 

私たち人間が

ことあるごとに立ち返る必要があるのは

『清浄な心』

 

あれもしたい、コレもしたい

コレが気に入らない、あれが気に入らない

あれも欲しい、これも欲しいと

 

いつも欲望の炎に

心が焼かれて惑わされている状態は

心安らかな寂かな境地とは

いえない状態になります。

 

自分にとって

都合の悪いことについて

アイツのせいだ、アイツが悪いから、

となんでもかんでも他人のせい、

人の責任にして、自分は少しも

反省もせずに返って心の怒りを炎を

燃やしているのは安楽の境地でも

ないのだと云う。

 

また、

どのような方法を講じたとしても

やり直しのきかないことや

取り返しのつかないことを

あの時ああしていれば良かったのに、

こうしていれば良かったのに、

と帰らぬ過去をいつまでも引きずり

後悔のモヤモヤの中で暮らすことは

幸福な境地といえるのか・・

 

人間にはこの肉体がある限り

私たちの心に巣くい、この身心を

悩ませるものは絶えないものです。

 

人が人生を開いていくには・・

 

誠に生き辛い娑婆であり

無数の誘惑ある悪魔の巣窟に

存在している中にこの身は在り・・

 

その中で人生の道を誤らず

そんな欲望にまみれた日常の中で

取り返せぬ過去に執着せず

求めても得られないものに執着せず

思っても仕方のないことに

腹を立てずに人生を送らなければ

ならないのです。

 

誠に生き辛い現実ですね。

 

だからこそ、

道を誤るほどの欲望に

翻弄されることのないように

己の人生を生きることには

鍛錬が必要になりますね。

 

難しいように思うかもしれませんが

それができる人というのも

存在しているものです。

 

どんなに辛く苦しい事があっても

将来に前途洋々たる未来を持つ者には

どんな困難をも、明るく楽しく

感謝の心で乗り切ってしまうことが

できるものです。

 

煩悩に振り回されないが故、

己の芯を持ち進むことができる。

 

法句経(ほっくきょう)には

次のように説かれています。

 

“世のこと全て美しと観

諸根(こころ)ただおもむくにまかせ

くちにするもの節度(はかり)なく

こころはよわく はげみ少なし

誘惑者(まよわし)はかかる人を

その魔手(て)にはとらえん

まことにかのつよ風の

力よわき樹木(き)を

吹き倒すごと

 

世のことすべて美しとは見ず

諸根(こころ)はよくととのえられ

くちにするもの 定量(ほど)をこえず

心信に はげみはつよし

誘惑者(まよわし)もかかる人を

その魔手(て)にはとらうすべなし

まこと つよ風に

微動(ゆる)がぬ岩山のごと”

 

それほど私たちのこの世への

執着は強すぎるがため

ついつい『魔手』に捕らわれて

道を外してしまうことについて

教えを説いています。

 

仏教は決して

この世は夢幻だからどうでも良い、

となげやりになることを

教えているわけではありません。

 

いかにしてこの世をはつらつと

生きるかのために指し示す教えとして

自分の姿を律して人生を凛として

惑わされることなく生きるために

必要な教えを教示しています。

 

心や意識は実態が

目に見えないからこそ

人の心や意識はどんなものなのか

分からないもの。

 

それは他人のことだけでなく

自分自身のことでもあります。

 

自分の心の動きすら

自分自身で把握できずに

後から湧いてくる欲望に

ただ翻弄されてしまうばかりで

 

生きる理由を持たずに

どう生きるかもわからない中で

ただ流されて生きている人も

多いのがこの娑婆です。

 

自分自身の心を

自ら魔手に差し出すのではなく・・

 

自分の中に信念をもち

今を生きることの大切さに

気づいていくことができるよう・・

 

私自身もブレることなく

人生をズラすことなく

心して生きたいと思う。

 

いつも心の中心には

清浄な心を置きたいもの。

 

この混とんとした娑婆の中で

道を誤らずに生き抜く強さと

魔手に惑わされぬ心を清浄に保つ、

二足の草鞋を履き続ける・・

 

“日々、怠りなく精進せよ”

 

日々、精進ありき。

 

大切なことはいつだってシンプル。

どうぞ今をたいせつに。

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