一昨日、5月30日。すっかり忘れていたが、父の祥月命日だった。29年経つのだ。

変なことで思い出した。今日は6月1日。

5月30日死去。31日通夜。6月1日葬儀。気づきましたか?通夜は、冬物の喪服。葬儀は夏物の喪服。一報を受けた方は、5月なので、とんと考えなかった。

前に書いているが、ある日突然4代続いた家を内緒で売り払い、東京に出ていた。私は知らなかった。父の後妻の借金で身動きが取れなくなり、又、家を持たなかった姉が糸を引いて、実家を売り、借金を返し、姉も、マンションを買った。

そのマンションの頭金を払い、月々の家賃を払うと言う腹づもりだった。父にはどうすることもできなかったのだろう。

生まれ育った広い家から、狭いマンションで庭いじりもできない。

どこも悪くなかった父が、突然意識不明になったと連絡が来た。越して、一月ほどである。越したことも知らなかったが、次の日、駆けつけたが、病室には誰もいなかった。家に行ったら、皆集まって楽しそうに、談笑していた。白けて、早々に帰ってきた。生きる希望を無くしたのだろう。


父を貶す人はいなかった。みんないい人だと言った。私は気づいていた。

自分が悪者にならないよう、決定はしない。人に話を振る。反対意見は言わない。そんな人だった。私が、東京に出ると言った時も、「なんでも、事後報告だな」そう言った。一度でも、お前はどうすると聞いたこともなく。都会に憧れて出ると思っていた。何も、言わなかった。とにかく、この家から出たかった。なんて言っても、気づかない人だから。


意識不明になったと聞いて駆けつけた時、わからないはずなのに、私の声に反応した。涙を流し、必死で手を動かそうとした。

今更私に助けを求めるな❗️私より、妻と、姉と妹を選んだのはあなた。私は、眼中になかったはず。


2週間ほどで亡くなり、前の晩から何度も電話が来た。私は、あの時私と、息子と2人だけでお別れをした。そう思っている。


亡くなっても、宮城から、東京に、犬を置いて出かけると言うことは、すんなり動けるものではない。ご近所に頼み、荷物を作り、車で出発した。

到着して言われた言葉が、「あなただけでも、先に来てくれればよかった」

肝心なことは、私を外し、蚊帳の外に置かれた。そして、通夜。私1人。何億という金を全て飲み込んだ女も、「赤いスカート穿いちゃった」と現れず。夫と息子は、ほかのお客様の送迎をさせられていた。


もう、その頃は、はらわた煮えくりかえり、涙も出ない。

全て終わり、会計などの計算をしたり、家を売った顛末を聞こうとしたが、義兄にさっさと帰れと、追い出された。

次の朝、弁護士に連絡をとった。そして、半年にわたる調停が始まった。


それまた、皆が口をそろえていい人だと言っていたのが、一晩で評価を下げてしまった。

父も、後悔したから、私に助けを求めたのだろう。自業自得である。


戦争にも行った、ジャワの本部詰めのため、戦闘は経験しなかったようで、無事帰還した。

72才の誕生日を迎えて、あっというまに、人生が終わった。

その時、親がそれくらいの歳で亡くなることに、なんの違和感もなかった。

しかし、今私がその年に近づいてきた時、早かったなぁ。と思う。仙台の育った家で晩年を過ごせたら、もう少し、幸せな老後になったのではないかと、ふっと思うことがある。