次の日のニュースには、空になった棚の並ぶスーパーが映し出されています。
まるで考えていなかった。物資の不足。水と、プロパンガスは大丈夫。
まだまだ寒く、灯油も必要である。電気が困る。だいぶ前に、大型停電があった時、シンプルなストーブは買っておいた。今の暮らしは、電気が止まると全て困る。
車は、2台持っていた。赤い2シーターのサイノス。そして息子の車もあった(いずれ処分)2台いらないし、2シーターだけでは、人が来たとき困ると言う事で、一月に軽自動車に替えたばかりで、直前に、ガソリン満タンにしてあった。これは助かった。
灯油は、一回10リッターの制限付き。2人で、二台に分かれて、スタンドに行く。
しかし、電池、蝋燭など、何もない。どこに行っても何もない。
友人、知人は、皆、東京、宮城。途方に暮れた。
主人の友人で、定年後、福岡に引っ込んだ人を思い出した。申し訳ないがTELした。快く、救援物資を送ってくれた。町中、駆け巡って、買い出しをしていると、同じような人々と一緒になる。遠く離れた福岡の地で、たくさんの人たちが、品物の準備をしてくれている。お互い、黙って笑顔で挨拶したそうである。
その後、仙台の友人にも、ボツボツ連絡がつくようになったが、安否確認だけで、「必要なものは?」って聞けなかった。何も、してあげられない無力さを感じた。山形まで、買いに行っていると言う友人もいた。車を流された友人がいた。
そうしているうちに、原発の崩壊が始まる。
田舎暮らしをしていたのが、宮城と、福島の県境。海岸線。年に何度か、東京方面に来る時、国道6号線を南下して、常磐道に入る。当時は、いわきまでしかなかった。
福島の、相馬から、大熊、浪江と、ニュースに出てくる街を走っていた。全ての街を覚えている。
原発のある街だけ、突然道路が立派になる。
初め、意味がわからなかった。
その街が壊れていく。知っている街の名が出てくる。道路が封鎖される。辛いものがある。