一夜明けました。

コーヒーを飲みながら、言葉もなくテレビを見ていました。

実家や、友人たちは、海辺には住んでいないので、その心配はありませんが、仙台の海岸から、街に向かって、遺体が並んでいる写真が出てきた。

「100人以上の死者がいると思います」「馬鹿なこと言うな、そんな数ではない」夫婦で、町並みを知っているから感じたことだ。

その後、福島からスタートした、ヘリコプターが波打ち際を飛ぶ。

見知った景色が、次々と現れる。それと同時に、ここはどこ?どの辺?と、全て変わってしまった場所もある。


ここは、震災遺構として残されたものである、屋根裏の部分に、全ての子供が寒さに震えながら、一晩過ごし、1人の死亡者も出なかった小学校である。この先に、スクールバスが飲み込まれ、死者のでた、自動車学校がある。

そして、何もなくなった中に、ぽつんと病院があり、学校があり、シーツでSOSを出していた。そして、新聞に出ている、死亡者の名前を一人一人、探した。しかし、田舎の事。苗字が同じである。年齢がわからない。息子の同級生を、数人見つけた。

PCに、避難所の情報が流れ始めた。

仕事も行かず、一日中眺めた。近所の女の子の名前を見つけた。子供だから、○○ちゃんって呼んでいたし、年が間違いなかった。避難所に手紙を書いた。その子の、母親から、返事が来た。住んでいた方も、1番中良かった人である。

TELが来て、ご近所の情報を聞いた。その地区では、64名亡くなったそうである。

その頃から、ポツポツ、連絡が取れる人が出てきた。

しかし、その頃、我が家でも、「計画停電」の影響が出てきた。