世の中が高齢化していく時代、この中でも、介護、痴呆の話が多くなってきています。

主人は、一度、結婚に失敗しています。

大事な一人息子が取られたのですから、嫉妬がすごかったようです。その後、私と付き合いだした時は、まだ、前妻への憎しみが強かったので、私は、大事にしてもらいました。

義父さんが全てやってくれる人だったこともあり、トラブルもなく、この人となら、やっていけると思いました。

結婚して、義父が亡くなると、その依存が息子に変わりました。

幼くして、両親を亡くし、田舎で祖父母に育てられたが、東京に住む、顔も知らない叔父を頼って、上京しました。(大正時代の話です)

運良く、商売が上手くいっていた叔父は、女学校に行かせ、働くこともさせず、20年近く面倒を見ました。しかし、実の娘ではないので、花嫁修行をさせるわけでもなく、結婚相手を探すでもなくいたようです。「手を出すと、お小遣いをくれた」と、本人も言っていた。

しかし、叔父の訃報が届いた時、「私、嫌いだから行かない」そう言ってしまえる性格のまま、ずっと生きてこられた。

義父が、全てやって来たせいで、家事もできず、親戚付き合いや、一般常識に欠ける人だった。

喪服にエナメルの靴を履くような人だった。

義父が、食べることなどには、こだわりがあったので、その辺は、夫も味のわかる人でしたが、家庭料理を話では、食べたことがないので、食べたことのないものは、食べられないという状態だった。

義父が亡くなった時、財産の整理をして、義母に、2000万円を渡した。夫が管理するよういったが、大丈夫と言うので、黙っていたが、1年で、使い切って、無くなったから、同居しろと言って来た。

広いところを探して、引き取ったが、今度は、私が憎い。息子とだけいたい。孫だって可愛くない。3才の子の前で、1人、お菓子を食べる人である。ありとあらゆる意地悪をされた。

ある時、私は、早朝から、東京で用があり出かけた。毎朝、熱いお湯をポットに入れて、部屋に置いてあげる。そこに毒を入れられたから、これから、警察に行くと、マンション中に騒ぎたてた。

まだ、夫がいたので、なんとか抑え、後から、その話を聞いた。後日「私は、バカですが、あなたに殺すなら、もっとバレないようにします」と、いってやった。もっとありますが、キリがないので、この辺で。

しかし、ボケが出て来た。それまでは逃げていた運転免許を取らなければならないと、思い、学校に通い、仮免が取れた時、ぽっくりと亡くなった。口の悪い友人が通夜の席で「嫁の車にはなりたくなかったのよ」皆に言われた。

それが、後々、職業となったのだから、皮肉なものである。信じられない人だったが、介護しなかったのが、1番の嫁孝行である。

この頃の人は、親の面倒は、夫婦でも、各々でみる、義父母の面倒は見ないと、公言しているようである。

たしかに、友人の中には、70過ぎても、まだ、親の面倒を見ている人もいる。

何が、幸せなのか、考えてしまう。