令和6年3月27日

父が97歳の人生に幕を引きました

急性心不全と病名が付けられましたが

老衰による心停止でした

亡くなる直前までテレビで高校野球を観戦し

介護施設の職員さんと談笑していたそうです

私は臨終には間に合わなかったのですが

父の穏やかな美しい死顔を見て

これは成仏したなと確信しました

 

父の葬儀では、私が弔辞を読ませてもらいました

私しか知らない父の生き方を皆さんに知って欲しかったからです

 

弔辞

お父さん、97年の人生

本当にお疲れさまでした

お父さんに「この人生、いかがでしたか」とたずねたら

「おお、ええ人生やった、何の悔いもない

 もう十分や、大満足」

と答えることでしょう

 

父との日々を思い返し、まず浮かんでくるのは

二人で母の看病・介護にあたった1年間のことです

9年前、母は幻覚と激しい感情の起伏に悩まされる日々を送っていました

「ネズミがいる、大男が立っている」と怯える母に

「そうかあ?俺には見えんけどなあ

 大丈夫、噛みつかん」

と、おおらかに優しく接する父を見て

この人はなんと慈悲深い人なのだろうと感心したものです

 

8月15日、終戦記念の日

父と二人でテレビを見ていた時のことです

甲子園球場に黙とうのサイレンが鳴り響くのを聞いて

「俺は8月17日に特攻やった」

と話しだしました

 

当時旧制中学校の学生だった父のところに

幼馴染の大学生がたずねてきて言ったそうです

「この戦争は日本が負けるよ

 そうなるとここにもアメリカ兵が攻めて来る

 そして女子供は侵され、虐殺されるだろう

 そんなことは絶対に許せない

 だから自分は軍に志願する

 君も一緒にこないか」

それを聞いて父は「行きます」と即答したそうです

父は軍隊が嫌だった、横暴な上官が大嫌いだった

だけど行こうと決めた、と言いました

私は、血気盛んな父のことだから、喜んで志願したんだろうと思っていたので

予想外の話でした

 

その後、父は海軍飛行予科練習生、いわゆる予科練に志願し、厳しい訓練を受け

特攻隊員として出撃する日を待っていました

ですから、終戦があと2日遅れていたら

私と弟はこの世に生まれてくることはなかったでしょう

お父さん、生きていてくれてありがとう

 

戦後、父は母と家庭を築き、私と弟を愛し、守り、育ててくれました

建設会社の社員として、日本を復興してくれました

退職後は烏骨鶏や犬猫を飼い、

住民の皆さんと力を合わせて地域を盛り立ててきました

晩年は、馬手に草刈り鎌、弓手にリード

犬に引かれる姿で、朝夕公園のゴミ拾いに励んでいました

 

そんな父の人生には、若い頃に抱いた

「愛する人、大切なふるさとを守るために戦う」

という精神が貫かれていたと思います

でも、私にとっては、父の存在が安心して帰れるふるさとそのものでした

その父はもういません

これからは私が子ども、孫、大切な人々のふるさとになれるよう

人を愛し、動物を慈しみ、身近な人々を大切にする人生を送ります

 

お父さん、本当にありがとう

どうぞ安心してお休みください