ついに飼い主さんが御入院されてしまわれたそうです。。。


ご存命のうちに!


再度アップさせて頂きます❗




写真を撮ってきてもらったので改めてアップします。


岡山より行き場のない猫くんの里親募集です。


クロちゃんです。





飼い主さんは高齢の一人暮らしの方。

余命短いとのことで、本人もご承知です。

既に酸素吸入もされており、

少し動くと息苦しくなり、

猫のお世話は全くできず、

ヘルパーさんや訪問看護師さんが、

ちょっとお世話してくださる程度です。

それでも猫の行く末が気になり、

入院もされません。


訪問看護師さんから相談を受けたので代理投稿しています。




猫くんはまだ2歳ですが、

知人が殺処分するというので忍びなく

引き取ったうちの一匹です。

もう一匹は最近のある朝、突然死していたそうです。


高齢でご病気ということで、

環境は大変良くないとか。


近い未来、猫くんが残された時に、

飼い主さんの介護保険でお世話に来られている方達は

当然家には来なくなる訳ですので

ご飯をあげてくれる人も居なくなり、

そのうち家も無くなるでしょう。

残された猶予はわずかです。


どなたか、今の環境から助けてくださる方はいらっしゃらないでしょうか。


とっても人懐こい可愛い子だそうです。

可愛くて情が湧いて、

何とかしたいと思われたようです。


いくつか電話もかけたそうですが、

断られたということでした。



写真を見て、気になるという方がいらっしゃったら、

私がお繋ぎしますし、

質問なども必ず伝えます。


どうぞよろしくお願いします。







写真が逆さまのまま送られてきたのですが、
よー直さん〜(T_T)
かわいいから逆さまで見てみてくださいっ↓


慢性腎臓病からの生還

日本人の8分の1が 慢性腎臓病なのだ と云われている。
そして日本では 32万人が人工透析を受けているそうだ。その医療費、1兆6000億円。
日本は 世界最大の人工透析大国だ。

「まず、最初に話しておかないといけませんが、、、腎臓病に効く特効薬と云うものはありません。現在の医学ではそう云う薬はまだ開発されていない。世界中 どこを探しても腎臓病の特効薬は存在していません。」

神戸大学の教授室で、日本1の腎臓病の権威 だと云われている教授は、そんな風に話し始めた。

「しかし、諦める必要は ありません。いいですか?」

「人間の細胞は常に入れ替わっています。ひとつの細胞が古くなって機能しなくなると 分解される。しかし、直ぐに新しい細胞が生まれて古い細胞と入れ替わる。そうやって、人間の全ての細胞は 日々新しい細胞に更新されて行きます。」

「腎臓も同じで、腎臓と云う臓器全体が新しい細胞に生まれ変わるまでには かなり時間が掛かるが、それでも2~3年で腎臓の全ての細胞が新品に入れ替わります。」

「いいですか?腎臓が新しい細胞に生まれ変わる、と云う事は慢性腎臓病も存在しなくなる。慢性腎臓病が治る と云う事です。」

「しかし、何もしないで じっとしていれば治ると云う訳ではありません。」

「君は中3の時に急性腎炎になってからの8年間、減塩して運動を控えてきた。そうですね?
2~3年で腎臓が新品になるんだったら、もう治っていてもオカシクない、そう思うかも知れないが、そんな簡単に治る訳ではありません。」

「最近、腎臓の調子が良かったので 働き始めた。しかし、数ヶ月すると 具合が悪くなって 腎臓病が再発した。」

「病院で見てもらった所、医師に(この程度なら大丈夫。働いても問題ありません)と云われて職場に戻ったが、2日働いただけで すぐにまた具合が悪くなった。 再び病院に行くと 今度は大量の尿蛋白が検出された。その結果を見た医師は首を傾げて、(分かりませんね)と匙を投げてしまった。それで 此処に来た。そう云う事ですね?」

「いいですか、腎臓と云う臓器は身体が疲れると負担が大きくなって 機能が低下し尿蛋白が下りる様になります。」

「疲れると腎臓が弱る。しかし、人間は動かずに生きては行けない。ではどうすればいいのか?」

「身体を鍛えて、疲れない身体を作る。それしか 方法はありません。例えば、10の強度の運動をするのに10の筋肉だと100%疲れてしまう。しかし筋肉を鍛えて20の筋肉にすれば、同じ10の運動をしても疲れは50%になってダメージは半分になる。もっと筋肉を鍛えて50まで上げれば、10程度の運動では全く疲れない様になる。そう云う事です。」

「疲れない身体になれば、腎臓に負担が掛からなくなり、尿中に蛋白が出る事も無くなる。」

「そこで、身体を鍛える為のリハビリが必要になります。ただ その前に君に言って置かなくてはならないのだが、、、このリハビリは君が自分でやる必要がある。医師に相談しながらやるよりも、自分だけでやった方が良い。」

「まず、街の薬局で(アルブスティックス)と云う尿蛋白の検査薬を買いなさい。これは薄いプラスチックのスティックの先に検査紙が付いていて、それにオシッコをかけるだけで検査が出来る。素人でも簡単に出来る。」

「薬を買ったら、とりあえずは尿検査をして、完全に蛋白がゼロになる迄待って、蛋白がゼロになってから、歩く とか走るとか、ん?自転車?それは良いね、自転車ならリハビリに最適だ。」

「検査して尿蛋白がゼロになったら、運動を始める。運動した後、家に戻ったらすぐに尿検査をする。多分大量に尿蛋白が下りているだろう。その後は安静にして疲れを取る。」

「この時、完全に疲れが取れるまで休む事が
一番大事だ。完全に疲れが取れて尿検査で尿蛋白がゼロになる迄待って、ゼロになってから
また運動をする。」

「心配しなくても 大丈夫だ。どんなに尿蛋白が大量に下りても、ちゃんと休めば必ず尿蛋白はゼロになる。」

「こう云う具合にリハビリを続けて行くと次第に筋肉が鍛えられて体力がつく。体力が付くと多少の運動をしても疲れる事がなくなる。すると 腎臓にも負担が掛からなくなり、尿検査をしても蛋白が下りなくなって、日常生活を普通に送れる様になる。」

「その状態を何年か続けて行けば、その間に腎臓を構成する細胞が全て入れ替わる。上手く行けば、慢性腎臓病は完治する。」

「どうだ?やれそうか?そうか。頑張りなさい。」

俺が23歳の時の話しだ。
俺は今、70歳だから 47年前の夏 だ。
教授室の開けっ放しの窓の外で
蝉が鳴き続けていた。

俺が慢性腎臓病で途方に暮れていた時
母親が働いていた昆布屋さんの同僚が
日本1の腎臓病の権威 が知り合いにいると
云うのを聞いて 紹介をして貰って、この日、
俺と母親は最寄り駅からバスに乗って
六甲山麓の中腹にある神戸大学の
古びた校舎を訪ねたのだった。

教授室に案内されて、俺と母親が部屋で待っていると、数分後に教授が現れた。
教授は部屋に入るなり、挨拶もそこそこに、
俺の病状について尋ねて来た。
       
俺が自身の症状を 余す事無く話し終える迄
じっくりと、時々質問を交えて聞いてくれた。

教授は俺の症状を聞き取り、理解した上で
上記の説明、そして 医者に頼らず自分でリハビリをどうやれば良いかを、教えてくれた。

教授と面会して、最初に驚いたのは その まずは患者の話を聞く と云う姿勢だった。
それは、此処に来る前に診てもらった市民病院の若い医師とはまるで違うものだった。

市民病院の若い医師は、まず尿検査をさせて 次に聴診器を胸に当てて診た。それから 尿検査の結果を見て、その結果だけから診断を下した。
俺の話しは半分も聞かず、聞き流していた。

それに比べて、日本1の腎臓病の権威と云われているこの教授は、聴診器を出す事も無く、尿検査をさせる訳でも無く、ただ話しをじっくりと長い時間をかけて聞いた上で、
想像も出来なかった解決法を教えてくれた。

『日本にも、こんな凄い先生がいたんだ!』

それが 正直な感想だった。
あの若い医師はビジネスで、
この教授は医術。

この二人は、違う世界にいるようだった。

次の日、三ノ宮に出掛けて ドラッグストアでアルブスティックスを買った。
100本入りで 確か1600円だった。
1回当たり16円で尿検査が出来る。
何回でも検査し放題だ、と思った。

その足で俺はドラッグストアのすぐ近くにあるビルの  地下に続いている階段を降りてジャズ喫茶に入った。
店の扉を開けると、中は白い靄(もや)がかかった様にタバコの煙が充満していた。

席に座り、俺もタバコの火を着ける。
アニタ オディが歌う(ア ナイティンゲール 
シング イン バークレイ スクエア)を聞きながらブラックコーヒーを飲んだ。
俺は 白い靄(もや)の かかった世界の中にいた

『さて、検査薬は手に入れたが、、、これから先、、、どうなって  行くんだろう?』

『ホンマに運動なんかして大丈夫なんやろか? これから先、まともに生きて行こうと思ったら、やるしかない   か。でも、ヤバいよな。』

家に戻ると、さっそく尿検査をした。
結果は3番目の黄緑色レベル(30)だった。

検査薬は 検出量によって5つのレベルに表示されていた。
レベル(ゼロ)が薄い黄色で、検出量が増えるに連れて色が黄色、黄緑、緑、青緑と変化して行く。

薄い黄    黄色    黄緑    緑     青緑
ゼロ、    15、    30、  100、250、

の5段階になっている

夜にもう1度検査したら、2番目の黄色(15)に下がっていた。

『やっぱり、動かないで居ると検出量は下がって行くんだ。やっぱり そうだったんだ。』

次の日の朝は(ゼロ)と(15)の間、
え?もう ほとんど(ゼロ)になった?
こんなに簡単に尿蛋白が消えるんだ!

『あ!そうか。そやから病院は(朝1番のオシッコ)を持って来いと云うんや』

朝1番のオシッコは、夜に眠った事で疲れが取れているから 尿蛋白は消えている。
しかし、歩いたりして疲れると、蛋白が出て来る、、、そう云う事か。

昼食を食べる前に検査して、
昼食を食べたら どう変化するか、を調べる為に昼食後にもう1回検査した。
どっちも、(ゼロ)のような(15)のような、、、

結局、(ゼロ)がどんな感じの色になるのかを知っている訳ではないので、いくら検査紙をじっと見た所で、何とも言えないんだが、、、

多分、俺はリハビリを始める事が怖かった。
だから、いつまでも蛋白はまだ(ゼロ)になっていない、そう思う事でリハビリの開始を先伸ばしにしていた様な気がする。

あの教授は信頼出来る人だと思ったし、
教授の理論とリハビリには、正に 
目から鱗(うろこ)、そんな凄い手があったんだと、驚いたし、納得もした。

しかし、心のどこかでは正直な所  半信半疑でもあった。

『本当に運動をしても大丈夫なのか?』
8年間も減塩して、運動を控えて来たのだ。

結局、検査薬を買ってから3日目の昼過ぎに、清水の舞台から飛び降りる様な気持ちで、
リハビリに踏み切った。

ここで治さなければ、死んだも同然の生活が続くだけなんだから、、、やる しかない。

リハビリ  初日

自宅から大通りに出て南に向かい、東尻池の交差点で右折して国道2号線を西へ走る。
しかし、、、まだ1kmも走っていないのに、脚が重くなって来た。

必死になってペダルを押し込もうとするが、
ペダルが重すぎて スピードが出せない。止まってしまいそうになりながら、ふらふら 走っていると、歩道を歩いている歩行者に次々と抜かれて行った、、、

とうとう走れなくなって 自転車から降り、
自転車に寄り掛かる様にして 足を引摺りながら ゆっくりと歩く。

コンクリートで固められた 幅が10メートル程の川、新湊川をまたぐ橋 までなんとか たどり着いた。国道を渡って川沿いの公園に自転車を止めて、ブランコにへたり込む様に座った。

疲れ過ぎていて、ブランコに座っているのも難しかった。
ブランコから落ちそうになるので、ブランコの鎖にしがみつく様にしてふらつく上半身を支えた。

30分ほど休憩してから、川沿いの近道を通って、自転車を杖代わりに 足をひくつかせながら 一歩づつ足を持ち上げる様に 歩いて自宅に戻った。
全行程約2㎞。
体力の限界を超えていた。

家に戻ると、そのまま ガクガクする足で歩いてトイレに直行し、尿検査をした。

俺はオシッコをかけた検査紙をじっと見た。
検査紙を入れているプラスチックのケースに張ってある 尿蛋白量を識別する為の色見本 とオシッコをかけた検査紙を何度も見比べる。

『これは、、、どう云う 事だ?』

ケースと検査紙を持ったまま天井の電球に近付けて、見比べる。

次に明かり取りの窓に持って行き、太陽光の色合いで、見比べる。

最後に、トイレを出て台所の蛍光灯の下に行ってケースの色見本と検査紙を見比べた。

どう見てもオカシイ。どう見ても、検査紙の色は暗いレンガの様な 土留め(どどめ)色だ。
、、、、、、。苦いものが込み上げて来た。
どう考えても、最悪のレベル(250) の青緑色
を遥かに飛び抜けたレベルだとしか、考えられない。

愕然とした。ここまでぐじゃぐじゃの濃厚だと云う事は、、、レベルで云えば(1000)を遥かに超えているかも知れない。

『ヤッテしまった、、、もう、駄目かも知れない。ゲームオーバーかも、、、』

『こんな酷い状態から、本当に回復するんやろか?    いや、まだ死んだ訳じゃあ無い。』

鉛の様に重い足取りで、悄然と寝床に向かった

寝床に横になった途端、身体が水を吸った海綿の様に重たくなり、目を閉じると 宇宙の果ての果て、底の底まで、永遠に墜落し続けるように、、、、、あ、この感じ、前に 同じ事が
あった、、、

思い出した!京都だ。
あの時は、京都の室町に下宿していた、、、

当時の俺は、治る見込みの無い慢性腎臓病と云う病気に絶望していた。
幾ら長生きしたとしても、30歳までには死ぬだろう と本気で思い込んでいた。

『もう、こんな状態で生きていても仕様が無い。死んでやる。』

ある日 そんな風に思って、半分 自殺するつもりで、京都の街を走った事があった。
自転車で思いくそ 滅茶苦茶走って死んでやろうと思ったのだ。

(自転車は、高校時代の友人が神戸から京都まで自転車をこいで、俺の下宿を探しだし届けてくれた代物だ。お前 腎臓病やから自転車あった方が楽やろ、そう言って、俺に譲ってくれた。その元気だった友人は 20年前に天国に旅立った。皮肉な事に あの頃死にかけていた俺の方は70歳になった今でも元気に生きている)

室町から御所の北側を走り、河原町通を九条まで南下して九条通りを西に、西大路から北上して平野神社で東に曲がって下宿に戻った。
旧平安京を一周した事になる。

無茶苦茶 飛ばしてやる、とは思ったが 幾ら頑張っても 自転車はなかなか進まなかった。
九条通りに入った頃には、小学生の自転車にピュンピュン抜かれて、、、西大路から先は喘いで、足がぶるぶる震え出したが、、、死んでしまう事もなく、結局 平安京を一周出来てしまった。

室町の下宿にたどり着き、ウナギの寝床の様な町屋の 、奥庭に面した 天井裏の3畳の部屋に戻った。
倒れて寝てしまう前に何か腹に入れておこうと、食パン1枚と細い魚肉ソーセージ1本、キャベツの葉っぱ1枚を、無理矢理 口の中に押し込んだ。

すぐに寝ようとしたが、あまりにも疲れすぎていて、頭の中が強張ってしまっている様で眠れない。
それで、ホワイトウィスキーをキャップ半分
ほど口に含んで、 飲み込んだ       途端に 、
アルコールが身体中にあっと云う間に染み込んで、ぐらんぐらんと世界が廻り始めた。

布団に倒れ込んだ俺の身体は、鉛の様に重く、水を吸った海綿の様に 強烈な重力に押し潰されて、ビクッとも動けなくなった。
余りに重過ぎて、指1本さえ持ち上げらない。

(これが  金縛りか?) と思った瞬間、俺の意識は暗い無限の宇宙空間の果ての果てまで ぐるぐると廻りながら墜落して行った、、、

気が付くと 俺は下宿の部屋の天井の近くに浮かんでいた。
部屋の床に、布団に寝ている若い男、、、
天窓から差し込む月光が、白い四角形の光の
模様となって 男の顔を照らしている。

『俺は 幽体離脱 しているのか、、、すると、下で寝ている若い男は、 俺?か?』

俺が目覚めたのが何日後なのか?記憶に無い。
しかし、この軽い自殺未遂 と幽体離脱した日の1週間ほど後、突然 母親が下宿に現れて
俺は京都の下宿から強制退去と なった。

これは 下宿の女主人が、下宿人が何日も下に降りて来ないで、降りて来たら目の周りの隈が真っ黒な顔で ふらふらと歩いているので 心配になって、神戸の実家に電話をかけた  から 
らしい。
この女主人は、女優の高峰三枝子 似の京女らしい  はんなり としたおばあちゃんだった。

『そうか、俺は2年前に京都で 死のうと思ってやった事を、今日は生きる為に、病気を治す為にやったのか、、、まぁ、2年前に死ねなかったんだから、今度も大丈夫だろう、、、』

話は戻って

失神する様に眠りに落ちて、目を開けたら 
既に次の日の昼過ぎになっていた。

直ぐに尿検査をすると、レベル(250)だった。

微妙な所だ。あれだけ ぐじゃぐじゃの どどめ色で、レベル(1000)以上ありそうな所から
色見本の内で、最悪のレベル(250)の青緑色になった。
色見本の想定を完全に外れてしまった色から
色見本の想定内の色に入って来た。
一応、蛋白検出量は減っているが、

丸々24時間も寝たのにレベル(250)にしか下がっていないのかと云う 気持ちもある。

しかし、死にそうな気配が無いのは確かだ。

その後 昼飯を食べて、寝床に戻ると24時間寝た後だと云うのに、あっという間に再び 眠りに落ちた。

晩御飯時に起こされると、取り敢えずはトイレに行って尿検査をする。
レベル(250)と(100)の間、(150)位だろうか。
良かった。順調に回復している、、、

寝る前に もう1回尿検査をしたが、レベル(150)と ほとんど変わっていなかった。
やっぱり、眠る事が大事なようだ。

3日目の朝、レベル(100)と(30)の間、感じとしては(70)位だ。
かなり回復して来た感じで、今日も寝床で横になっていたが、さすがに寝てしまう事はなかった。もう身体が睡眠を必要としていない様だ。

4日目の朝、一気にレベル(15)まで下がっていた。

5日目の朝、とうとうレベル(ゼロ)になった。
念のため、この日も安静にして過ごす。

リハビリ  2回目

初回のリハビリから6日目、昼飯を食べてから2回目のリハビリをスタートした。

自転車をこぎ始めたが、妙にぎこちなくて 空回りしている様な感じで ふらついたり した。どうやら、5日間も安静にしていたので、身体が固くなっているみたいだった。

そんなこんなで、やっと自転車のこぎ方が安定して来た頃、気が付くと初回のリハビリで 足が動かなくなったポイント 新湊川の橋をいつの間にか超えていた。

『超えた?あれ?どうなってるんだ?』

なんで走れているのか 訳が分からないが、足はまだ動いている。時速10Km近いスピードで走っている、、、走れている自分を不思議に思いながら、国道2号線を西に何となく 走っている内に 、神戸の西の繁華街 六間道(ろっけんみち)商店街まで来てしまった。

さすがに、これ以上 先に進むと 足が止まってしまった時、歩いて帰れなくなる。
そう判断して、国道を渡って六間道を北に進み、国鉄 新長田駅の高架の下を潜って北側の道を通って家に戻る事にした。

途中、俺の出身校である神楽小学校と大橋中学校の間を通り 実家に帰り着いた。
1度も自転車を降りる事無く、初回の2倍以上の距離、5㎞ぐらいを走りきった。

なんとなく、狐につまされた様な気分だった。
自転車を降りても、初回の様に身体がガクガク
する様な事も無かった。
たった1回走っただけで、体力が付いた?
信じられない思いだった。

尿検査の結果は、レベル(250)である青緑色よりも少し暗い色だった。
初回の あの恐怖のどどめ色がレベル(1000)位なら、今回は(300)位と蛋白の検出量が半分以下になった感じだ。

とはいえ、まだ検出量の色見本の内で最悪レベルの(250)を超えている。
それでも、なんとか色見本の範囲内に近付いては来た。

寝床に潜り込むと、すぐに眠りに落ちた。
悪夢は見なかったし、金縛りもなかった。

目を覚ますと、家族が晩御飯を食べていた。
5時間ほど寝たらしい。
起き出してトイレに行って尿検査をする。

検査紙は、レベル(100)に近くなっていた。
何度も確かめたが、間違いない。

リハビリの初回は、走った後24時間眠って
レベル(1000)からレベル(250)だった。

2回目の今日は、走った後 5時間眠って、
レベル(300)からレベル(100)になった。

ちょっと 目の前が明るくなった気がした。
行ける かも知れない。

次の日の朝、尿検査はレベル(30)だった。

3日目の朝、尿検査がレベル(ゼロ)になった。

リハビリ、三回目

3回目のトライアルは 2回目の4日後になった。
この日は、少しだが疲れが残っている様な気がしたので、やり過ぎないように、急に距離を伸ばしたり しない様にしよう。

2回目と同じ六間道(ろっけんみち)商店街まで走った所で、今回は六間道を南に入って南側回りで帰る事にした。

大正筋商店街にぶつかった所で左折、大正筋にある2軒の映画館では東映の任侠映画と日活ロマンポルノをやっていた。

途中で、片想いだった彼女の家の前を通って
帰った。
残念ながら、思いがけずバッタリ再会する、なんて事はなかったが、、、

リハビリ3回目直後の尿検査は、レベル(250)とレベル(100)の間、レベル(150)位だった。

リハビリ初回から
レベル(1000)→(300)→(150)
順調に蛋白検出量は半減している。

この日も 検査した後、寝床に横になったが、
この日はそれほど疲れ無かったのか、一向に眠れなかった。
夜の尿検査では、レベル(100)に近い所まで下がっていた。

2日目の尿検査では、レベル(30)とレベル(15)の間にまで下がった。

3日目の朝の尿検査ではレベル(ゼロ)。

この時点で 俺は、あの教授が言っていた事に完全に納得していた。

検査薬を買い、自分で何時でも何回でも検査が出来れば、自分の腎臓が(今)どんな状態であるのかを手に取るように知る事が出来る。
このリハビリではそれが1番重要であって必要なのだ。
つまり、医師は必要では無いのだ。

毎回 リハビリをする度に、距離が伸びて、

運動直後の 尿蛋白検出量が少なくなって、

運動後から 、蛋白検出量が(ゼロ)になるまでにかかる時間も短くなって行った。

リハビリを始めて 3週間後、俺は須磨海水浴場でボトルに入れたコーヒーを飲んでいた。
往復で15Kmぐらいだ。

須磨、須磨浦、塩屋、舞子、垂水、朝霧、
と、走る度に距離はどんどん伸びていき、

2ヵ月後には、明石港にある明石焼きの老舗で
玉子焼き(たこ焼き)を昼飯に食べていた。
往復で40Km以上。

半年後、とうとう日帰りで姫路城まで走った。
往復で、百数十Km。

もう この頃には、平均時速30Km前後で走れる様になっていた。

この頃には、40Km以上走った直後の尿検査
でも レベル(30)からレベル(15)の間の尿蛋白の検出量にまで下がっていた。

そして、だいたい翌朝にはレベル(ゼロ)に回復する様になっていた。。

自分でも信じられない程のスピードで、みるみる内に体力が付いて、筋肉が強くなって行き、一気に 疲れない身体に変化して行った。

毎日が 楽しくなり、生きている事が楽しく なった。
走る事が、こんなに楽しくなるなんて 想像さえ した事がなかった。

走っていると、生きている充実感が 腹の底から噴き出して来るようだった。
もはや、自殺しよう なんて、頭の片隅にも無くなった。

学生時代に、ギターを弾く体力さえ無くなっていた事があったなんて、もう想像も出来なかった。

しかし、それで慢性腎臓病が完治したのか?
と云うと、現実はそれほど甘くは 無かった。

リハビリを始めてから1年後、高校時代の親友に誘われて 淡路島一周2泊3日のサイクリングに行った、、、

そのサイクリング初日、普段 自転車に乗っていない親友はすぐにバテバテになり、その日に泊まる民宿に着いた時には ヘロヘロになっていた。
毎日自転車で走っている俺の方は、特に疲れは感じてなかった。

2日目になると、親友は段々自転車に慣れて来たようで、2日目の民宿に着いた時も元気だった。
俺も疲れは感じていなかった。

3日目、親友はすっかり自転車に慣れて快調に走る。しかし、俺の方は疲れが抜けきれなかった様でキツくなってしまった。

2人とも 同じように民宿に2泊したが、
彼の方は疲れきってグースカ寝ていた。
俺の方は疲れは感じていなかったが、慣れない民宿に泊まったので充分に疲れが取れなかった様だった。

体力は 俺の方が圧倒的に強かった。  しかし、回復力は 親友の方が圧倒的に強かった。

リハビリ 1年で圧倒的に体力は付いたが、
やはり まだ慢性腎臓病が完治している訳ではない事に気づかされたのだった。

『あの教授は、腎臓の全細胞が入れ替わるのには2~3年は必要だ。と云っていた、、、』

リハビリは、やっと1年が経っただけで
まだ始まったばかり だった。

それからも、俺は走り続けた。
筋力を強化する為に、鵯越(ひよどりごえ)の
急坂を全身の筋肉をフル稼働させて登り、

自宅から六甲山の麓まで走ってから、表六甲ドライブウェイを ひと足毎に止まりそうになりながら全身でもがいて、標高900メートルを超える六甲山の天辺まで自転車で登った。

更に、須磨ー明石間の海岸沿いの国道では
全身を使いフルパワーでもがいて走るダッシュを繰り返した。
時には必死で逃げる原付を追いかけて 抜いたりもした。
限界までエンジンを吹かして逃げる原付の横に並んだ時、横を走る原付のスピードメーターを見ると、時速60Kmを超えていた。
俺がもう一度もがいて原付を抜き去ると、原付はガックリきたのか急にアクセルが緩んで一気に後ろに小さくなって行った。

そんな風に、全力を出し切って走った後でも、もはや昔のような気怠い疲労感ではなく、心地良い疲れを感じるだけだった。
直後の尿検査でも、尿蛋白はレベル(ゼロ)からレベル(15)の間で、ほぼ蛋白は検出しないと云うレベルになっていた。

走るのは楽しかった。
夢中になって走り続けた。
生きている事が楽しかった。

中学3年生の時からの8年間も、運動を控えて、足を引摺りながら歩いていたから

俺にとって、走れる と云う言葉は、
生きてる と云う言葉と  同義語だった。

自分の体力に自信がついて、
働く事が出来るようになった
3年間のアジア旅にも行けたし、
結婚もして4人の子供も授かった。
そして、70歳まで生きる事が出来た。

47年前の このリハビリ体験が、俺の人生を一変させたのだ。

あの教授との 一期一会 の出会いがあったから、今 俺は元気に生きている。

それにしても、今更ながら あの教授は凄い人だったんだなぁ と思う。

今から遡って、半世紀も前に、あの画期的な
慢性腎臓病の治療法を確立していたなんて、凄い事だし、素晴らしい。奇跡的だ。

しかし、今になって俺が思うのは、
なぜ?教授の治療法が50年後の現在に至っても 世界に普及していないのか?と云う事だ。

今、日本人の8分の1が慢性腎臓病なんだと言われている。
そして 今、彼の治療法はどこを探しても見付からない様だ。
一体、何故なんだろう?

何故?、、、、、、?
理由を考えている内に、気が付いた!

半世紀前に、
彼は(日本1の腎臓病の権威)と云われていた。
日本で1番腎臓病を知り尽くしていた。

しかし、彼は医学界では異端児として扱われていた可能性がある。
何故なら、彼の治療法は 病院側としては都合が悪い治療法だった からだ。
つまり、彼の治療法はお金が稼げないからだ。

47年前当時、すでに60歳を超えていたと思われる教授が 熱く語ってくれた 治療法 だが、

教授は 俺に、(薬局に行きアルブスティクスと云う尿検査薬を買って、自分で調べなさい。)と言った。
つまり 彼は、病院に行く必要も無ければ医師に診てもらう必要も無い、と言った事になる。

これには 俺もびっくりした。
医者が (医者に診てもらわずに、自分で検査して 自分で治せ) と言うのを、俺は生まれて初めて聞いたからだ。

しかし、これは俺自身がリハビリを始めて1ヶ月も経たない内に完全に納得した。

当たり前の事だった。

検査薬を買って自分で調べれば、
いつでも何回でも調べる事が出来る。

いつ 尿蛋白検出量が(ゼロ)になったのか即座に知る事が出来る。

運動をした直後の 尿蛋白検出量を即座に知る事が出来る。

どのように尿蛋白量が変化するのか、自分で調べれば 手に取るように理解出来る。

当然の事ながら、これは自分でやった方が絶対に有効なのであって、
同じ事を、医者に相談しながら 、
運動した直後に病院に行って調べて貰う、なんて事は問題外なのだ。あり得ない。

つまり、教授の治療法は自分でやる方が有効なのであって、病院は、必要無いのだ。

しかし、ここまでなら誰でも納得出来るが、
教授が天才たる所以はこの後だ。

自分で検査をして分かるのは、

運動をすれば、即座に腎臓が悪くなる。
安静にして寝ていれば、腎臓は良くなる。

と云う事だ。だから、普通の医師は(休息をとり、運動を控えなさい)と云う。
それは、自分で検査した人間でも 普通は同じように思うに違いない。

しかし、それは 慢性腎臓病を悪化させない様に と云う安全策ではあっても、慢性腎臓病を
治療する為のものではない。

その点、教授の場合は いかに慢性腎臓病を治療するか と云う事だけを考えていた。
教授はその同じ結果から、新しい画期的な治療法を考え出したのだ。

それが、
(筋肉を鍛えて、疲れない身体にする。)
と云う治療法だ。

これを聞いた時には俺もぶっ飛んだ。

そんな やり方があり得るのか?
本当に そんな事が出来るのか?

俺がリハビリを始める前に 最も不安で、どうしても半信半疑になってしまったのも、この点だった。
しかし、実際に実践した結果は、正に教授の
言う通り だったのだ、、、

例えば、最近のアスリートはトレーニングで
限界を超える負荷をかけて意図的に筋肉組織を断裂させる。
それから充分に疲れを取り、筋肉組織の断裂が修復されるのを待つ。
そして、その断裂が修復されると 筋肉は強化されて、同じ限界を超える負荷に対応出来る様になる。

そう云うトレーニング法が今では主流になっているようだが、あの教授は同じ事を既に50年前にやっていたのだ。

リハビリを始める時点で、俺は 8年間もの間
運動を控えていたのだ。
つまり、俺の身体の筋肉は8年間も使われていなかった訳で、完全に弱くなっていた。

だから、リハビリでほんのちょっとした運動をしただけで、俺の全身の筋肉組織は至る所で断裂を起こした。

その断裂によって膨大な疲労物質が発生したが、それは俺の腎臓の処理能力を遥かに超えていた為に、腎臓は機能を停止してしまい 大量の蛋白を尿中に放出した。

しかし、時間の経過と共に 筋肉組織の断裂が修復されて行くと、少しずつ疲労物質が減少して行き、修復が完了すると疲労物質も消える。
疲労物質が消えると、腎臓に対する負荷も消えて、腎臓は正常に機能する様になる。

そして、2回目のリハビリでは既に筋肉が強化されているので、1回目の倍以上の距離を走っても 筋肉の断裂は半分以下で済んだ。
断裂の修復も半分の時間で終る。

3回目では、もっと筋肉が強化されていたので、、、

と云う風に、教授は最新のトレーニング法を50年前に (慢性腎臓病の治療法)として実践していたのだ。

しかも、筋肉組織の断裂の修復度合いを、
尿中の蛋白検出量で測る と云う治療法を編み出すとは!    天才的と云う他ない。

しかし、、、、、、
ここまで読めば嫌でも分かる事だが、

教授の治療法は、病院も医師も 必要としない

だから、教授の治療法は普及しなかった。
病院が拒絶した。

今 現在、日本には 32万人の人工透析患者が
いるそうだ。世界最大の人工透析大国らしい
日本は、異常に人工透析患者数が多いのだそうだ。

人工透析を、一旦受け始めると 平均して年間480万円の治療費がかかるそうだ。
日本全体となると、1兆6000億円になる。
巨大な医療費、、、人工透析は儲かる医療と云う事だ。

そして、1度人工透析を始めてしまうと、
死ぬまで続けなければ ならない。
やめると、あっという間に死んでしまう のだそうだ、、、

日本人の8分の1が慢性腎臓病だと云う。
約1500万人の 人工透析予備軍 がいる事になる、、、

日本の医療は何の為にあるのか?
50年前に既に存在していた 教授の治療法 が
普及していれば、今のように1500万人もの慢性腎臓病患者がいる筈が無いのに、、、

慢性腎臓病と云う病気は、ちょっと普通の病気とは違っている。
よく、(怠け病) だと 言われたりもする。
俺も そんな事を言われた記憶が ある。
本人が気付いていないケースが多いそうだ。

つまり、大半の慢性腎臓病の患者は 基本的には なんとか日常生活を送れている可能性が高いのだと思う。

本人は気怠かったり、しんどかったり、力が入らなかったりするが、それでも何とか動いて、歩いたり、働いたり、している。

と 云う事は、ほとんどの慢性腎臓病の患者は
数日間 安静にしていれば 尿中の蛋白が消えると云う状態なのでは ないだろうか。

そして そうなのであれば、ほとんどの慢性腎臓病の患者は、教授の治療法を実践すれば
 慢性腎臓病が治ってしまう と云う事だ。

それは、47年前に教授の治療法を実践して
慢性腎臓病を完治させた体験者として、俺が
実感している事だ。

慢性腎臓病は必ず治る筈なんだ。
しかし、教授の治療法 は未だ世間に浸透していなくて、今も 日本には1500万人の慢性腎臓病の患者が存在している。

なぜ、そんな事になってしまったのか?
それは、教授の治療法は医療界に利益をもたらさない からだ。
だから、普及しなかった。

しかし、それは逆に云えば 患者にとっては良い事ずくめだ、とも云える。

🔘病院にも、医師にも診てもらう必要がないから医療費は無料だ。
🔘治療に要する費用は、薬局で購入する
尿蛋白検査薬の千数百円のみだ。
🔘安全で、副作用もなく、完治する。

全く、良い事しか無い。

そして、今はネット社会だ。

そこで、俺は考えた。

『この50年間、教授の治療法 は世界に普及しなかった。しかし、ネット社会の今なら 
(教授の治療法) をネットで公開すれば一気に世界に普及して行くかも知れない。』

そう思って、今 この投稿を書いている。

(教授の治療法) が世界に普及して(世界の常識)になれば、この世界から (慢性腎臓病) を根絶出来る筈なんだ。
俺はそう信じている。

そして、近い将来には(人工透析)と云う言葉が昔話になっていれば良い。

勿論、俺は医者でも研究者でもない。
医学に関しては全くの素人だ。
だから、もし この投稿を慢性腎臓病の患者やその疑いがある人が読んだ時、人によっては

「なんだ、こんな素人の話なんか 信じられるか!」  

そう思う人もいるだろうし、それは当然の話だ
しかし、この治療法の場合は、誰かを信じる 信じないとか云う話では無いのだ。

この治療法は自分の手で調べ、自分の目で見、自分の頭で考えて、自分が実践して、自分が自分を治療する、  そう云う治療法なのだ。

だから、慢性腎臓病を治したいと思うのであれば、この治療法をやる やらないに関係なく、
薬局に行って尿検査薬を買う事を勧める。

昔は、(アルブスティクス) と云う尿蛋白の検査薬が売られていたが、5年ほど前に薬局で探したが今は売っていない様だった。
代わりに、下の写真に写っている(新ウリエースBT) と云う検査薬が売られていた。

尿蛋白と尿糖の2種類の検査ができる。
50枚入りで、千数百円だった。
1回の検査に要する費用は約30円で、
(尿蛋白)と(尿糖)の検査が同時に出来る。

多分、最近の慢性腎臓病は糖尿病系の割合が高いので2種類をセットにしているのだろう。

俺が思っているのは、
全ての慢性腎臓病患者とその疑いがある人は、尿蛋白検査薬を常備している方が良い。

検査薬を常備していれば、いつでも好きな時に検査出来る。
慢性腎臓病の患者にとって、これは非常に大事な事だ。

検査すればいつでも自分の状態を知る事が出来る。かなり危険な状況に陥った時にも すぐに気付く事が出来て、人工透析が必要になるような事態を事前に防ぐ事が出来るからだ。

そして、こまめに検査をして 腎臓の状態がどのように変化するのかをチェックして行くと次のような事が理解出来る筈だ。

🔘運動すると腎臓が悪くなる。
     (尿中の蛋白検出量が増加する。)
🔘休んだり 睡眠をとると、腎臓は良くなる。
     (尿中の蛋白検出量が減少あるいは消える。)

ここまでは、誰でも理解出来るだろうし、納得すると思う。
しかし、問題はここから なのだ。

本当に慢性腎臓病を治したいのか どうかで
道は2つに分かれて行く。

ひとつは、
運動すると腎臓が悪くなるのだから、運動を控えて 充分に休養をとる。
と云う生き方だが、当然ながら この方法では永久に慢性腎臓病は治らない。

そして、もうひとつは、
体を鍛えて 疲れない身体にする事で
慢性腎臓病を完治する、と云う教授の治療法だ
当然、これは慢性腎臓病を治す為の治療法だ。

47年前に、俺はそれこそ(生きるか死ぬか)と云う決死の覚悟でリハビリに挑んだが、、、
実のところ、そんな大袈裟なものではない。

例えば、普段通りにコンビニで買い物をした帰りに、ちょっとジョギングをして家に帰る。
軽くジョギングをしてみる、それだけだ。
途中で足が動かなくなれば、すぐジョギングをやめて残りは歩いて帰る。

それだけで 充分だ。ちょっと 普段やらない様な運動をしてみる、それだけで良いのだ。

そして、家に帰ったら尿検査をして確かめる。
結果、尿中の蛋白検出量がぎょっとする程に増えていたら、成功だ。
それは、普段使わない筋肉を使った証拠だ。

尿中に大量の蛋白が出たら、蛋白が消える迄
休養する。休めば必ず蛋白がゼロになる。

そして、尿中の蛋白がゼロになったら、
また同じようにコンビニの帰りにジョギングをしてみる。
今度は 前回よりもジョギング出来る距離が長くなっている筈だ。

運動後の蛋白検出量も減少し、
腎臓が回復する時間も短くなっている、筈だ。

肝心なのは、運動の後 安静にして、尿蛋白が(ゼロ)になるまで待って、完全に疲れが取れてから、次の運動を始める と云う事だ。

そうやって 負荷を上げて行けば、筋肉も体力も強くなって、疲れない身体になって行く。

疲れない身体になれば、腎臓にも負担が掛からず、腎臓は正常に機能する様になる。

その状態を2~3年続ければ、腎臓組織の全ての細胞が生まれ変わる。

本当に慢性腎臓病を治したいと 思うのであれば、ほんの少しばかりの勇気を振り絞れば良い

基本的に、慢性腎臓病の患者は 無理をしたくとも出来ないのだ。

慢性腎臓病歴が5年、10年、それ以上になれば、それだけの 長年月 の間、運動を控えて生きて来た可能性が高い。
それは、完全に筋力が弱り切った状態だと云う事だ。

だから、無茶苦茶走ってやろうと思っても、走るだけの筋力が無いので、走れない。
ほんのゆっくりとジョギングをするだけで、
筋力の限界を超えてしまう。
慢性腎臓病とは、そう云う病気だ。

本当に慢性腎臓病を治したいと思うのであれば、ほんの少しばかりの勇気を振り絞れば、それだけで充分だ。

ほんの少し、普段よりも強い運動をする。
それだけでリハビリはスタートする。

肝心なのは、完全に疲れが取れるまで(尿中の蛋白検出量がゼロになるまで)休む事だ。

それさえ 守れば、リハビリは成功して、
慢性腎臓病は完治すると、俺は信じている。
全力で走る事も、マラソンを走る事も
出来るようになるだろう。

ネットを通じて、教授の治療法 が拡散して
世界に 教授の治療法 が普及して
この世界から慢性腎臓病と云う病(やまい)が
根絶される事を願っている。

生きる とは 動く 事だ
そう 思い知らされた

あらゆる意味で、動く事で 人生は充実する

当時、すでに 60歳を超えていた老教授が 熱く
慢性腎臓病から回復する為のリハビリを
教えてくれたから、俺は今 生きている
あれが、俺のターニングポイントだった

どんなに頑張っても 大丈夫だ
完全に回復するまで 休めば
必ず 強くなって行く

70歳になった今でも 俺は
そうやって生きている。

下の写真は、尿検査薬 ウリエース
値段が1700円 と、半世紀前と変わっていない事に驚いた。
ただし中身は50本入りと半分だが、
尿蛋白と尿糖の2種類の検査が出来る。



昨日の。


黒猫ではなかったんだけど、

想像よりかっこいい猫でした。

見た目はかっこいいけど、甘えてきてくれる

人懐こい子だそうです。


猫を飼ったことの無い人には

黒猫ぽい感じになっちゃうんですかね。

写真大事。

勉強になりました。


時間できたら、アップするのでよろしくお願いします。