潜在数秘術アドバイザー、奥山のぶですニコニコ


先日会った歳下のかわいい友人がね、

「のぶさーん!「シアワセ」だってことをね、そのまま言えるようになったんですー!
前までは、旦那のこともそんなに悪く思ってないのに、みんなが集まって旦那のグチを言ってる場とか、ついつい合わせてグチ言ってみたりしてたんだけど、合わせなくなれて♪」

と。。音譜


あるある、ですよね。


私がこういうことを初めて経験したのが、5年前ぐらいに長男が幼稚園に入る頃。

子どもを通して母たちがたちが集まる場。

いつものようにメインの人が夫の愚痴を言って、
それに合わせるようにみんながいろんな愚痴を言っている状況。

毎度毎度、同じような話。

うんと、おしゃべりで笑いながらグチを出すことはおもしろいし必要なことだと思うよ。


でも、その、「愚痴を言うこと」そのものではなくて、

「合わせて同調しないといけないような空気感、そこまで思ってないのに自分も愚痴を言うことで群れの中に所属していられる安心感」
で、みんなが同調しているような空気感がとても違和感で、

当時の私はかなりウンザリしてたのね。

で、ウンザリするべくトンガっていたから笑、1人しらけて過ごしてました。

その場に集まるひとりひとりのことは好きだったからこそね、

あ〜あ、、、、マタハジマッタ、て。

その「不幸じまん」てきなものが、まるで大人の処世術みたいに思えてね。
なんなのこの感じ、きもちわるいー!!て。

私はわりと躊躇なく嬉しいことや楽しい話をするから、みんなが集まると旦那のグチを言っていたような人も、

私と1対1のときは、夫と2人きりでデートした話とか、夫のかわいさとか話してくれたり。

で、

「のぶちゃんみたいに、自分は自分!てなれたらいいんだけど。うらやましい」

と言われることもよくあった。


でもまぁそうはいっても、私だって、

「自分は自分、人は人!」て、100%思いきれてなかったからこそ、

ウンザリしてトンガってたんだけどねニヤニヤ

100%、「自分は自分、人は人〜♪」と思えていたら、ただただ微笑ましく聞き流せていたことでしょう。


自分にウソをついて人に合わせることは昔からしなかったけど、

そうすることで同時に寂しさや憤りも感じて過ごしてきた私は、

このブログでも何度もかいているように、その自分の中にある「寂しさや憤り」を見てみぬふりしないで、思いっきり感じて見つめて潜り込むことを徹底してやりました。

「自分を見る」ということを。


そうしていくうちに、気づいたら、
「人は人〜♪自分は自分照れ」が軽やかに板についていた。

それは、
「自己受容」。

どんな自分もOKは、
とびきりの安心だから。


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先週末の、生姜焼き定食。



まぁ、とにもかくにも、

世間に合わせた「不幸」とか「幸せ」の基準とかね、

どんどん疑ってみること。

「不幸じまん」もしてられなくなるからねウインク



自分のいろんな思いを紙に書き出すとか、

感情の味わい方だとか、

「幸せだと決める」ことだとか、

五感を満たすことだとか、

キライな人は自分の内側にあるものだと気づけるワークだとか、

「事実」と「解釈」のクセを見つけたりだとか、


セッションでは、その方に合わせてお伝えしたりもします。

でも、覚えなきゃいけないことなんて、何もないの。



私自身が常識にとらわれない系の人だからか、その方の「自然体」のスイッチも、入りやすいですウインク



「あれ!?私、幸せじゃん!爆笑爆笑爆笑

て、なるからねラブラブ