今日は、「皇紀」について
ご紹介したいと思います。

「皇紀」とは、日本の紀元を
指す言葉です。

『古事記』『日本書紀』に登場する
神武天皇即位の年を元年として
起算したものですが、
現在は「西暦」が使われていますね。

しかし、なぜ、現代の日本は
自国の「皇紀」ではなく、
キリストの誕生年を元年として数える
「西暦」を使用するのでしょうか?

今日はこのことについて、
田中英道先生に
語っていただきました…

**********


From:
東北大学名誉教授
田中英道

ー“皇紀”を忘れるべきではないー

昭和15年に、
皇紀2600年の盛大な紀元節が
行われたことを、
戦前を知っている人々は
思い起こすことがあるだろう。

零戦飛行機のゼロは、
2600年のゼロである。

今年は皇紀2683年であるが、
戦後、西暦に比べてこの皇紀が、
完全に無視されるようになった。

皇紀元年は、西暦を660年遡る
西暦紀元前660年にあたる、
その意味も、誰も再検討しないのは
残念なことである。

西暦2023年という年代が、
日本にも行き渡ってしまい、
令和5年という元号も
二次的に使われるようになった。

しかし西暦元年とは、
キリストが生まれたと
称する年代であり、

人口の1パーセントも
キリスト教徒がいない日本で、
まるでこの西暦が、
絶対であるように
信じさせられている。

これはある意味では
国家にとって偽善的な事態であると
言わなくてはならない。

グローバリズムを支持する
学界の人たちは、
このような皇暦を探査をすることは、
ナショナリズムの動き、と言って
忌避するのだろう。

戦後の多くの歴史家は、
こういう日本の歴史を否定することが
科学的だと述べ、
ただ無視しているのである。

しかし、それは日本の歴史的事実を
忘れさせようとする戦後の左翼の
文化戦略から生まれていることを
理解していない。

また、西暦を使わせることで、
世界をキリスト教化する、
という西洋人の支配欲に従ってしまった
ことになる。

そんな状態に陥っても、
まだキリスト教徒が1パーセント以内
しかいない頑固な日本人には、
それにふさわしい皇暦があるのである。

神武天皇の即位の年を紀元節として
祖先が提起した以上、
そこには意味があり、
その意義を正すことは
歴史家としては当然のことだろう。

明治以後の日本人の偽善を
上塗りさせてはならないのである。