このおにいさんのことを評した言葉
「薔薇にはなぜかがない。咲くから咲く。みずからわずらうことなく、人に見られることも求めない。」
(彼は、まるで、一輪の薔薇のように、一個の自然現象のように、一種の必然性の顕現のように、驚くべき画家なのだ)
ヒント
*彼は、17世紀に活躍したオランダの画家で、バロック期を代表する画家の1人である。映像のような写実的な手法と綿密な空間構成そして光による巧みな質感表現を特徴とする。
*彼は、1632年10月31日、オランダの小さな町デルフトで、第二子として生まれる。上に、姉、ヘールトライトがいる。
*彼の父は、レイニール、彼の母は、ダイムフナという。
*下は、彼の生まれたデルフトの位置。
*当時、デルフトは、アムステルダムと並んで、貿易の中心地として栄え、また織物、絨毯、陶器、ビールなど、様々な産業も盛んで活気にあふれた町だった。
*彼の父、レイニールは、このデルフトで、「空飛ぶキツネ」という名の宿屋と居酒屋を営みながら、美術品の売買も仕事にしていたので、幼い彼は、そこに集まる人々や、父に、絵を買ってもらおうと訪ねてくる画家たちの姿を目にしながら成長した。
*そんな環境に育った彼は、やがて自分も画家になりたいと思うようになる。そして、父の周りにいた画家たちの影響を受け、15歳のころから、絵の修行を始める。
*やがて、修行が実り、20歳のときには、聖ルカ組合(近代初期のヨーロッパ、特にオランダで画家などの芸術家の組合)に親方画家として登録される。
*下は、聖ルカ組合。
*彼は、20歳の春、1歳年上のカタリーナ・ボルネスという女性と結婚した。カタリーナ・ボルネスは、ホウダ出身の富裕な良家の娘で、一家はカトリック教徒であった。
*カタリーナとの間には、次々に子どもが生まれた。15人のうち、残念ながら、4人は他界してしまうが、11人の子どもたちは、成長した。
*彼は、画業では、家族を養うことができなかったため、当初は、裕福な義母に頼っていた。
*下は、21歳の作品『ディアナとニンフたち』。
*彼が、22歳のとき、デルフトの火薬工場で、大爆発事故が起こり、200戸以上の家が破壊される。このとき、彼の住む家も被害を被り、彼は、作品の大半を焼失させた。
*彼が、23歳のとき、彼の父、レイニールが他界してしまう。彼は、家業の宿屋と居酒屋、そして美術商を引き継いだ。
*彼は、宿屋と居酒屋の経営、絵画の売買にたずさわりながら、みずからも画家として、創作に励む生活が始まった。
*彼は、青色の画材として、当時純金と同じほど高価だったラピスラズリを原料とするウルトラマリンを惜しげもなく絵に使用した。
*これができたのは、家業の収入の他、パトロンや大変裕福だった義母などのおかげであった。
*彼のパトロンは、デルフトの醸造業者で投資家でもあるライフェンであった。ライフェンは、彼を支え続け、彼の作品を20点所持していた。ライフェンの援助があったからこそ、彼は、仕事をじっくり丁寧にこなすことができ、年間2、3作という寡作でも問題なかったと考えられる。
*下は、24歳の作品『取り持ち女』。
*下は、25歳の作品『手紙を読む若い女』。
*下は、25歳の作品『士官と笑う娘』。
*下は、26歳の作品『牛乳を注ぐ女』。
*下は、28歳の作品『紳士とぶどう酒を飲む婦人』。
*下は、31歳の作品『真珠を秤る女』。
*下は、32歳の作品『手紙を読む青衣の女』。
*下は、33歳の作品『真珠の耳飾りの少女』。
*彼は、30歳のころには、画家として、また画商としても高く評価されるようになって、聖ルカ組合の副会長に選出される。31歳では、会長に選出される。
*彼が、31歳のとき、フランスの宮廷参事官であるリヨンの貴族バルタザール・ド・モンコニーが、オランダを旅行中に、デルフトの彼を訪れた。
*錬金術師、美術愛好家であったモンコニーは、この訪問について「彼のアトリエには、一点の作品もなかったが、パン屋で一点見ることができた。」と日記に記している。
*このとき、彼の絵は、全部売れてしまっていて、手持ちがなかったのであった。
*彼が、33歳のとき、妻、カタリーナが、実家の親戚より土地を相続する。この頃、彼の一家の生活は、わりあいに豊かであった。
*下は、35歳の作品『ギターを弾く女』。
*下は、38歳の作品『レースを編む女』。
*38歳のとき、彼の母、ダイムフナが他界する。
*39歳で、彼の姉、ヘールトライトが他界する。
*彼が、40歳のとき、画家兼美術商である彼にとって冬の時代が始まった。
*第3次英蘭戦争が勃発したことで、オランダの国土は荒れ、経済が低迷していったことや、彼とは違った画風をとる若手画家の台頭によって彼自身の人気が低迷していったことが原因である。
*追い打ちをかけるように、この頃に、パトロンであったライフェンも他界する。
*さらに、戦争によって、彼の義母は、かつてほど裕福でなくなり、オランダの絵画市場も大打撃を受けた。
*戦争勃発以降、彼の作品は1点も売れなくなり、市民社会の流行の移り変わりの激しさにも見舞われることになった。
*彼は、生活を立て直そうと駆け回るが、過労のため、43歳の若さで、他界してしまう。
彼の絵は、現在、36点しか、残されていない。
これは、22年間の画家生活の中では、あまりに少ないといえる。
その理由としては、彼の家業が忙しすぎたことと、また、彼が、好んで使った青い絵具(ラピスラズリ)が金と同じ価格といわれるほど高価なものだったことが考えられる。
彼が、他界したあと、家に残っていた彼の絵は、借金の返済として、すぐに処分された。
しかし、『画家のアトリエ』という絵だけは、妻、カテリーナが、どうしても手放そうとせず、長く、彼女の手元に残されていた。
おだやかな光に包まれ、不思議な静けさを秘めた彼の絵を、カテリーナは愛していたのである。
下は、彼の35歳の作品『画家のアトリエ』。
![]() |
『フェルメール展』公式ガイドブック (AERAムック)
1,512円
Amazon |
![]() |
フェルメールへの招待
1,296円
Amazon |
![]() |
フェルメール全点踏破の旅 (集英社新書ヴィジュアル版)
1,080円
Amazon |

















