この目の細い、あごひげを伸ばしたおじさん、いったいだれでしょう?

このおじさんの言葉

「我が身を治めるなら、我が心から修めよ」

ヒント

*彼は、モンゴル帝国の創始者で、初代皇帝(在位:1206年 - 1227年)。

大小様々な集団に分かれてお互いに抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を一代で統一し、中国・中央アジア・イラン・東ヨーロッパなどを次々に征服し、最終的には当時の世界人口の半数以上を統治するに到る人類史上最大規模の世界帝国であるモンゴル帝国の基盤を築き上げた。

現在のモンゴル国において国家創建の英雄として称えられている。

 

 

*彼は、1162年頃、モンゴル高原を北東に流れるオノン川のほとりのデリウン丘で生まれる。

 

 

*生まれた年については、中国の古い書物に、1154年、1162年、1167年の三つの説があり、また、今のイランとイラクのあたりで書かれたペルシャ語の古い書物には、1155年とある。現在では、1162年が正しいという意見が多数を占める。

 

 

*下は、彼の生まれたオノン川のデリウン丘。

 
 
*彼の父、イェスゲイは、12世紀中頃にモンゴル高原の北東部で活動したモンゴル部のうちボルジギン氏系キヤト氏の首長のひとりで、彼の母、ホエルンは、、ボルジギン部族のキヤト氏族と婚姻関係が強かったモンゴル部族の一派コンギラト部族のオルクヌウト氏族の娘であった。
 
 
*彼は、生まれたとき、テムジンという名前を付けられる。当時、父、イェスゲイの率いるモンゴル族は、同じ遊牧民のタタル族と争い、戦っていた。その敵であるタタル族の首長の名が、テムジンだったのであるが、敵ながらあっぱれという思いがあり、自分の息子に、テムジンと名付けたのである。
 
 
*また、テムジンには、鉄の道具を作る「鍛冶屋」という意味がある。当時のモンゴル族にとって、鉄はとても貴重でであり、鉄の道具を作る技術はすごく難しかったこともあり、「鍛冶屋」は、皆から尊敬されていたというのも、名前を付けた理由の一つである。
 
 
*やがて、父、イェスゲイと、母、ホエルンの間には、カサル、カウチン、オッチギンという、3人の男の子と、テムルンという女の子が生まれる。彼は、弟や妹と、すくすく育っていった。
 
 
*彼は、9歳のときに、父、イェスゲイに伴われて、母方の一族であるコンギラト部族のオルクヌウト氏族に嫁探しに出かけた。
 
 
*この時、途中で立ち寄ったコンギラト部族の本家筋の人物だったらしいデイ・セチェンの家でその娘ボルテと出逢い、許嫁の関係を結んだ。ボルテは、彼より一つ年上の10歳だった。
 
 
*下は、彼と許嫁の関係を結んだ娘、ボルテ。

 

 

*彼とボルテの仲をよくするため、しばらくの間、彼は、デイ・セチェンの家にあずけられることになる。

 

 

*父、イェスゲイは、彼を置いて、オノン川に帰っていく。ところが、その帰り道、敵であるタタル族がキャンプをしているのに出会ってしまう。

 

 

*敵といえども、戦場以外で会ったなら、あいさつするのが、草原に暮らす人々のマナーだったので、父、イェスゲイは「運が悪いな」と思ったが、馬をおりて、彼らの食事に加わった。

 

 

*父、イェスゲイは、タタル族がすすめる酒を残らず飲みほした。すると、その帰り道、気分が悪くなり、ようやく家にたどり着いた直後、他界してしまう。酒の中に毒が入っていたのであった。

 

 

*彼は、父が他界したという知らせを受けて、直ちに家族のもとに戻された。

 

 

*母、ホエルンは、幼い子供たちを抱えて、配下の遊牧民がほとんど去った苦しい状況の中で、子供たちをよく育てた。

 

 

*彼が、成人してくると、モンゴル族のライバルだった様々な部族の人々は、イェスゲイの子が成長して脅威となることを怖れ、攻撃をしかけてくる。

 

 

*彼は、父の同盟者でもあったケレイト国の王、トグリル・カンなどに助けられ、力をつけていく。

 

 

*やがて、「四駿四狗」と呼ばれる遊牧騎士たちが、彼の重臣となる。これは、「4頭の駿馬・4匹の狗(いぬ)」と讃えられた、優秀な8人の最側近のことである。

 

 

*「四駿」は、ボオルチュ、チラウン、ボロクル、ムカリの4名で、彼の傍から片時も離れず護衛する役目を持つ。「四狗」は、ジェルメ、ジェベ、クビライ、スブタイの4名で、は戦で必ず先頭に立ち、敵を震え上がらせる役目を持つ。

 

 

*下は、「四駿」の一人、ムカリ。


 

*下は、「四狗」の一人、スブタイ。

 

 

 

*彼は、次第にモンゴル部の中で一目置かれる有力者となっていった。彼は、振る舞いが寛大で、遊牧民にとって優れた指導者と目されるようになり、かつて父に仕えていた戦士や、遊牧民が、次々に彼のもとに投ずるようになった。彼は、こうした人々を僚友や隷民に加え勢力を拡大する。

 

 

*38歳で、タタル族を打ち破り、43歳で、メルキト族を破ると、44歳のとき、彼は、フフ・ノールに近いオノン川上流の河源地において功臣や諸部族の指導者たちを集めてクリルタイを開き、諸部族全体の統治者たる大ハーン(遊牧民の君主や有力者が名乗る称号)に即位してモンゴル帝国を開いた。

 

 

*クリルタイとは、中世から近世にかけて開催されたモンゴルの最高意志決定機関である。有力者が集まってハーンの位の決定、戦争、法令などを議題にした。

 

 

 

*彼が、大ハーンに即位した場面。

 
 
*下は、彼が、即位したときの、モンゴル帝国の領域。

 

 

*クリルタイが開かれたときには既に、彼は、彼の最初の征服戦である西夏との戦争を起こしていた。堅固に護られた西夏の都市の攻略に苦戦していたが、じわじわと西夏の支配力を減退させ、彼が、47歳のときに、西夏の皇帝にモンゴルの宗主権を認めさせていた。

 

 

*下は、当時の騎馬軍同士の会戦。

 

 

*着々と帝国の建設を進めた彼は、次に、中国に対する遠征の準備をすすめ、49歳のときに、金と開戦した。三軍に分かたれたモンゴル軍は、長城を越えて長城と黄河の間の金の領土奥深くへと進軍し、金の軍隊を破って北中国を荒らした。

 

 

*下は、金の従来の首都、燕京(現在の北京)を包囲しているところ。

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*下は、金朝皇帝宣宗との講話によって、彼のもとに嫁いで来た岐国公主。

 

 

*ちなみに、岐国公主は、彼の、第4皇后であり、第一の皇后は、ボルテ、第二の皇后は、クラン(メルキト族の娘)、第三の皇后は、イェスイ(タタル族の娘)、第五の皇后は、イェスゲン(イェスイの妹)など、多数の皇后がいた。

 

 

*この後、彼が、56歳になるまでには、モンゴル国家は西はバルハシ湖まで拡大して、南にペルシア湾、西にカスピ海に達するイスラム王朝、ホラズム・シャー朝に接することとなった。

 

 

*彼が、64歳のとき、モンゴル軍は西夏に侵攻し、西夏の諸城を次々に攻略、冬には凍結した黄河を越えて首都興慶(現在の銀川)より南の都市霊州までも包囲した。西夏は霊州救援のため軍を送り、黄河の岸辺でモンゴル軍を迎え撃ったが、西夏軍は30万以上を擁していたにもかかわらず敗れ、ここに西夏は事実上壊滅した。

 

 

*結局、彼は、西はイランから黒海の方まで大遠征、南ロシアも征服して、東西アジアに渡るモンゴルの大帝国を築きあげた。これによって、東西の文化の交流が盛んになる。

 

 

*また彼は、ウイグル文字を取り入れた今日のモンゴル文字の基礎を作った。しかし、モンゴル帝国の領土は広大であったので、彼は、各占領地に諸子を分封した。

 

 

*65歳のとき、彼は、陣中(いくさのさなか)で、他界してしまう。

 

 

*その後、分封されていた各占領地は独立する。ロシア方面で、キプチャク・ハン国、中央アジアに、チャガタイ・ハン国、モンゴル高原の西北にオゴタイ・ハン国、イラン・イラク方面に、イル・ハン国が成立した。

 

 

*下は、広大になりすぎたモンゴル帝国。やがて、各地は、独立する。

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*すると、彼の孫で、モンゴル帝国の第5代皇帝に即位したフビライが、都を北京に移し、モンゴル帝国の国号を元と改めた。

 

 

*国号が元朝となってから、彼は廟号を「太祖」と贈られた。

 

 

*現在の「モンゴル」の名は、1911年に、外モンゴリアが清朝から独立し、さらに、1924年にモンゴル人民共和国となって、残っている。

 

2004年にオクスフォード大学の遺伝学研究チームは、DNA解析の結果、彼が、世界中でもっとも子孫を多く残した人物であるという結論を発表した。

ウランバートル生化研究所との協力によるサンプル採取と解析の結果、彼の染色体を引き継いでいる人物は、中東から中央アジアまでの地域に、広く分布し、男系の子孫は1600万人にのぼるとされる。

ちなみに、モンゴル出身の朝青龍や白鵬は、彼を、敬愛しており、あがめている。

下は、朝青龍。

下は、白鵬。

「白鵬」の画像検索結果

どちらも、目元が、彼に似ている。