空海、鑑真、最澄、親鸞
1000年続くような
お寺に我はあまり存在しない気がします
お叱りを頂戴したところでも
しばし他の話になりましたが
そのときの私の重さを感じていただけますか?
良いことおっしゃられるのに
もったいないんです
お坊さんって幽霊みえるんでしょ?
とか、思ってません
言いませんが
こういう人もいるのだと
私より思ってほしいなぁ 、ワガママかな
何も言わず業、カルマなのかな?
私じゃない…ほんとに辛い、クラクラする
すごく重い、具合いまいち
すごいんだけど…キツイ…ほんとに
という
時があります
だから自分的には88札所はどうかな…という
結界が張れる
お坊様ばかりではないんじゃないか?
っていうのがありました
神社仏閣、私的にですけど
そこは我を言う場所ではないし
理にまかせるしか本来ないから
お坊様の我は自分が良いと思っても
他に言うべきではないかも
そういう場所でもある
だから
こちらも持ち込まない気持ちが働く
だからこそ
ものすごい重さだったりします
いろんな考えがあり
いろんな人が来る
それは一般と同じです
任せるしかない理が存在していますよね
それぞれの役割
自分では捨てるしかないことも
それは辛いことでもあるけど
捨てることは
目の前に立った人を守る方法でもある
1000年続く方達は
まず何を捨てたんでしょうかね?
だからこそ
どんな自分であろうと
そこにお座りになるのでしょう?
私達が捨ててるものなんて
目に見えないくらい小さなモノでしょうけど
捨てないより…身軽になれるかもしれない(^_-)