My life race | 神子島みかオフィシャルブログ「キラ盛り小悪魔ブログ」

My life race

なんか眠たいのに眠れなくて
今までみなさんに伝えられなかった事を伝えたい気分になったのでBlog更新!←?

まぁカートからになると長いから端折ってだけどあたしのレース人生でも書こうと思います。
端折っても長くなると思うし誤字だらけになると思うけど暇な時にでも…


一部不快に思う方もいると思いますがすいません。








神子島みかとレース。

確かね…
18歳FJ1600に乗ったんだよね。

15歳までレーシングカートをやってたんだけどまぁ今の時代の言葉を借りるならセクハラ?になるのかな…

嫌な思いをした。

中学に入ったくらいかな…?でもさ。レース辞めたくなかったから誰にも言わなかった。言えなかった。
それ以外にも言えない"事情"はあってあたし自身も嫌過ぎて忘れたくて無かった事にしてた。

その頃から自分に嫌な事があってもすぐ切り替えられるようになったのは。
今でもそれはあたしの"武器"になってるからあの時代は今では良しとしてるの。

でも限界があった。
それが15歳。思春期と2年間の我慢がレースを越えてしまって全日本カート選手権シーズン中にあたしは消えました。


そこから3年。
19歳になる年の18歳。
身体のウズきがピークをむかえサーキットに帰ってきた。

あの時代を知ってる人が少ないフォーミュラの世界にあたしは入った。

マニアックな方←失礼w)はご存知かもしれませんが最初は本名を隠してました。
その事はライセンスを取る時にうっかり間違えて!って事にしてましたがほんとはうっかりじゃありません。
カート界の人にバレたくなかったから。

そんな理由が"みか姫"にはありました。

まだ吹っ切れてなかったんだろうね。
18歳って今思えば全然こどもだったから怖かったんだと思う。

だから"地味に楽しもう"って思ってた。結果とかどうでも良くてただレースに参加するだけでいいって…

でも走り出したら止まらないw
そんな人間じゃないから止まらなかったから我武者羅になった。

勝ちたい勝ちたい勝ちたい勝ちたい勝ちたい勝ちたい勝ちたい勝ちたい勝ちたい…

狂った。
フォーミュラ1年目のつくばなんてクラッシュばっかでまわりのドライバーさん達に迷惑かけまくりw

富士ではチャンピオンを獲れたけどつくばで結果が出せなくてフォーミュラは1年でやめる予定が親に頭を下げる事になりもぅ1年つくばで戦った。

今思えばあの年が1番楽しかった。
速いドライバーさんがピットを出るのを待ちドライバーさんが動いた瞬間あたしもピットアウトししつこくしつこく後ろを追って勉強した。

とにかくあたしはしつこかったw
速くなりたい一心!!そのドライバーさんがあまりのしつこさにピットに入っちゃうくらいしつこかったww

いずれはその人の前を走りたかったからその人の苦手も必死で探った。
とにかく盗みたくて我武者羅だった。

そんな1年だった。
結果は忘れちゃったけどww
(気になった方はWikipediaへ…w)

その年のFJ1600日本1決定戦。
確かね…。予選でクラッシュして最後尾スタートで結構追い上げたんだよね。確か…
(気になった方はWikipediaへ…w)

そのレースであたしの運命が変わった。
決勝前服部尚貴選手←大大大先輩ドライバーさん)がピットロードをふわふわ歩いてたの。

吸い寄せられるようについてって気付いたら声をかけてたw←変態

"来年チームナオキで乗せてください"

今思えばなんてゆう図々しさw
その日は年末のクリスマス前。その時点で次の年のシートが決まっていなかったあたしは次の年も乗りたいがうえにそんな大先輩に失礼な事をしました。

服部さんは
"君ね…ww"
って感じで呆れてたw

呆れられても気にしないのが神子島。
言う事言ったぜ!決勝見てて下さいよ!くらいの調子で意気揚々と決勝を走ってた記憶があり結果は忘れちゃったからWikipediaへ…w

でもいい走りしたんだよね。
そこは覚えてる!車と自分が凄い一体化してたんだよね。
そういう時って絶対あたしは速いんだよ。

結果は忘れちゃったけど服部さんが服部尚貴賞ってゆぅ特別賞くれた。

凄い嬉しかった!
受賞の理由は服部さん曰く…

「60台っていう台数が参加したこの大会で俺に声をかけて来たのは彼女だけだった。
挨拶も無しに"乗せてくれ!"にはビックリしたがその熱意はきょうのレースで1番だった。走りも荒削りだけど光ってたので…」

当時を思うと服部さんはほんとに心が広い…w
しかし当時の神子島は

荒削りってなによ!

って思ってたw
そしてあたしは服部尚貴さん率いるチームナオキに入る事が決まった。
(言ってみるもんだなぁ~)

チームナオキのホームコースは鈴鹿だったのでキャリーバック2つにヘルメットを抱えて新幹線移動のホテル生活が始まった。

最初は言葉のイントネーションの違いや関西ノリに戸惑った!

つくばでレースをしていた時はドライバーさんとほとんど喋った事がなくて喋った記憶は怒鳴った記憶か怒鳴られた記憶しかないww

わりと嫌われ者だったからね!
ポジティブだから嫌われれば嫌われるだけ"自分が速くなってる"って思って嬉しかったけどどこか孤独だった。

でもポジティブだから"1匹狼みたいでカッコいいかも♡"なんて思ったりもしてたww

21歳の年。
チームメイトの吉田くん(吉田広樹選手)白坂くん(白坂たくや選手)レオくん(寺西れお選手)に大変お世話になり初めてドライバーさんとちゃんとコミニケーションが取れるようになった。

だから楽しかった。
お兄ちゃんができた感じ?

レースはあんまり良くなかった。
シリーズは2位だったけど自分の中でいいレースをした!って思った事はなかった。

チームが良くて獲れた年間準優勝だった。

次の年。
ステップupが決まった。

photo:02

photo:03


すっごい!嬉しかった!でもどこかで不安だった。鈴鹿での1年、自分の走りが出来ず車が良かっただけ…

自分の走りができない
車と一体化できない…

そんな不安が心にあったけどやるしかなかった!
その年からメディアのお仕事が増えテレビのお仕事が増え応援してくれる方とアンチの方が増えた。

この年のお陰であたしを知ってくれた方が多いと思います。
なので凄くいい1年でした。と言いたいです。

皆さんに知ってもらえた事は凄く嬉しかったけど知られれば知られる程怖くなった。

乗れてない自分がテレビに出る事が怖くてでもこんなあたしを取り上げてもらえてるんだし… そめそめ(当時のマネージャー)が頑張って取って来てくれたお仕事頑張らなきゃ!あ!え!?もぅ決勝?

多い時に1レースに5社以上のテレビ雑誌の取材を受け1大会2レースのレースをし当時スランプ真っ盛りのあたしはどんどん小さくなった。

心が負けた。
自分に負けた。
スタート前から涙が出た。

全てに負けた。

そんな1年だった。
だからFCJ後半戦あたしの居場所は女子トイレだった。

トイレでいつも泣いてた。
メソメソメソメソ女みたいに…

その姿をレースクィーンのお姉さん達がクスクス笑ってた。

惨めだった。
恥ずかしかった。

消えちゃいたかった。
逃げたかった。

服部さん舘さんスポンサーさんそめそめ事務所の社長応援しに来てくれた方取材に来てくれたテレビ局の方雑誌社の方… 両親に申し訳なさ過ぎて消えちゃいたかった…

今振り返っても26年で1番自分が自分を嫌いな年だった。
あんな弱い自分がいる事を知らなかったし受け入れたくなかった。

だから逃げた。
周りもそんなあたしを見て対応に困っていた。
FCJの1年で周りに迷惑をかけた上にまた困らせて…

速かったらいいよ?
速くないんだもん!乗れないんだもん!車とコミニケーション取れないんだもん!わからないんだもん!

感じないんだもん…

速くないあたしはつくばに帰った。
このまま消えるのがいいと思ったから。

ドライビング不感症になったあたしはしばらく乗るのをやめた。
3ヶ月くらい。精神的にもボロボロになって自信も完全に無くしたあたしに手を差し伸べてくれたのはFJ1600で2年間"ギアってなぁに?なんであるの?"のあたしを育ててくれたつくばオートルックガレージのエンジニア佐藤さん。

"S-FJの開発を手伝ってほしい"

悩んだ。
あたし不感症だよ?車の声がもぅ聞けないから無理だよ…

でも断れなくてまたサーキットに帰った。

最初は徐々にだった。
開発というより"神子島みかの矯正"だったw

最初は"無理!わからない!"だったのがあれ?あれ?あれ?身体が感じ出した。

感じ出したらコースレコードが出た。
でもすぐ塗り替えされた。今GTで活躍してるトヨタの中山選手に。

彼とはほとんど話す事も目を合わす事もなかったけどあたしは好きなドライバーさんだった。

彼がいたからあたしはまた車の動きを感じれるようになって彼がいたから闘争心が帰って来た。

泣くことはなくなった。
また勝ちたくて勝ちたくて勝ちたくて勝ちたくて勝ちたくてどうしようもなかったけど中山選手には予選で勝っても決勝は勝てなかった。

中山選手ありがとうね。
そう言えるドライバーさんだった。

次の年。
またS-FJの開発を頼まれた。

photo:01


乗った!もっとまた感じたくて一体化したくてまた無我夢中で乗った。

photo:04


勝った。
3年ぶりの優勝だった。

チェッカー受けた後涙で前が見えなくてヘルメットの中叫んだ!なんて叫んだかは覚えてないけど車降りたら喉が痛かったw

妹も母もメカニックの女の子もみんな泣いててなんか恥ずかしくて

親父とハグをした。
レース人生で初めて親父とハグをした。

嬉しかった。
絶対諦めちゃいけない!諦めなければこんな感動を味わえるんだ!って学んだ。

そこから優勝かリタイアかのあたしらしい1年ww
年間準優勝だったけどレースはいい年だったけど心は死んだ。

その年の夏。
レースで地方に行っている時夜の宴の席でレース関係の方にセクハラをされました。

最後まではギリギリされませんでしたが信用していた方だったので



なんだろ。書こうと思っても言葉が浮かばない…
リアルに書ける事じゃないから言葉が見つからないからごめんなさい。

これ以上は書けません。
これがあたしが20ヶ月レースを離れた理由です。

前に
"お休みしていた理由はいつかここに書きます"

とコメ返に書いたのになかなか書けなくて遅くなってしまいごめんなさい。

せっかく車とまた一体化になれて来た時。
また最高の走りができそうな予感がふつふつしていた時期でしたがショックとその事が話が二転三転して噂になってしまった事…

一応女です。
"男性を誘惑して襲わせといて襲われた!と騒ぎ同情でシートを獲得しようとした"

と噂になりショックでした。

"レイプされちゃったんだってよ!"
(されてません!)

と後ろ指を刺されて平気でいられる程あたしは強くなかった。

だから 時間 をもらいました。
20ヶ月の間に1週間目の腫れが引かない程1度だけ獣のような声を上げ数時間も泣いた日がありました。

悔しいから泣くのは"きょうだけ"と決め泣いてからあたしはあの事について1度も泣いてません。

お酒の席だし…
いつも露出した格好してるからだよ…

そう言う方もいると思いますがあたしは違うと思います。
あの年あれ以降のレースはほとんど記憶がありません。優勝もしましたが心から喜べた事はなかった。

辞めると決めていたから。




でもまた乗りたくなっちゃったw
あたし懲りない奴だからこの麻薬みたいなレースの虜だから…

戻る場所を与えて下さった方が今回の復帰にはたくさんいます!
感謝してもし切れないくらいの想いで今います。

しかし

20ヶ月は長いです。
復帰してもほぼ未経験のハコ車…
20ヶ月もレースから離れてたので感覚を掴みたくてもなかなか資金の問題などの事からテストができない状態でまだ心から車に乗れてません。

でももぅFCJの時の弱さはありません。
絶対不感症乗り越えます!!だから…

こんないきなり深夜に暴露記事書いちゃう問題ドライバーですがこれからも見守って下さい。




今夜はほんとの神子島を知って欲しかったのかも。

こんな話し聞きたくなかったって方には大変申し訳ない。

でもわかって欲しいの。
どんな事もレースの事なら頑張って乗り越えたい!ってゆぅあたしの気持ち。

何度か心折れた時期はありましたが必ず助けてくれる人があたしにはいる事!
これは自慢したかった!←w

バカで弱虫で抜けてるけどあたしなりにこの7年間か8年間寄り道はしたけど色んな人に支えられて突っ走って来た事を…





この記事で勝手に本人の許可なく名前を載せてしまった方がいますww

すいませんw

それとagehaでの神子島しか知らない方には全くチンプンカンプンですよね!涙

すいません…





こんな長ったらしい自己満記事読んでくれてありがとうございました。
後半眠くてまとまりのない感じだし文章書くの下手だから理解不可能な所や誤字脱字が多い事は許してw




Ciao






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