昨日のブログからの続きで、河津桜まつりです。

 

歌碑がありました。

 

 
いづくまでゆく鴨ならむ 夕波の高まる沖に一羽なやめる
 

中河幹子(1897~1980)は歌人。

 

次第に高まる夕波の中を漂う一羽の鴨に心をよせて「どこまで旅をしようとしているのだろう」と詠んだ歌だそうです。

 

確かに、桜まつりでごった返す人の群れの中で、

 

 

ふと川を眺めると、鴨が悠々と水面を進んでおりました。

 

 

詠にピッタリでした。

 

 

桜を見ながら、さっきは桜もちを食べたので、今度は桜大福を食べます。

ラブ

 

 

橋の上を電車が走って行きます。

 

 

良い眺め。

 

 

しばらく歩くと足湯を発見。

 

 

意外にも空いていたので、ちゃっかり浸かります。

 

 
ふう〜癒される。

 

近くに白い犬がいた。

 

 

伊豆の踊り子さんも歩いていらっしゃいました。

 

 

出店の数が想像以上に盛大でびっくりしました。

 

 

食べてばっかりですが、「猪まん」と「鹿まん」を発見したので、

 

 

いただきます。

 

 
美味しいです。
両方美味しかったけど、鹿の方が好きかな〜。

 

ミモザの花が売られていました。

 

 

綺麗ですね。

ミモザはドライフラワーでも綺麗ですよね〜。

 

 

どこまで歩こうか?

家に帰るまでの電車時間に片道3時間かかるので、この辺でUターンしようか。

 

 

雑踏の中、托鉢僧がじっと佇んでいらっしゃいました。

 

 

托鉢(たくはつ)を修行とは:

 

托鉢とは、修行僧が街を無心に歩き、布施(ふせ)をしたい人が現れれば、ただそれを受け取る修行です。街頭募金ではありません。托鉢は決して、道行く人に「布施」をお願いすることはありません。また、布施してくださった人に感謝はしても、お礼は言いません。もし「お願い」をしたり「お礼」を言ってしまったら、それは募金活動になってしまい托鉢ではなくなるからです。

 

また、托鉢と言うと僧侶の修行と思われがちですが、実は一般の方にとっても修行なのです。財施をする人にとっては、執着を断つ修行です。「喜捨」すると言い、文字通り見返りを求めずに「喜んで捨てる」修行であり、功徳を積むことになります。

 

その昔、お釈迦様が托鉢をしていたとき、農夫から「人に恵んでもらわずに、自分で耕して食べろ」と言われ、お釈迦様は、「信仰が種であり、修行は雨、智慧が人々の心を耕し、全ての苦悩からの解放を実らせます。私は、托鉢をすることで、信仰の種をまき耕しているのです」と答えたといいます。
つまり托鉢が、執着を越え、衣食住に「少欲知足」を旨とし、人々が僧侶に金銭や食物を施す善根(布施・財施)を積ませる尊い行為であることを教えています。

人々が喜捨した浄財は、人々のために役立つ使い方がされているそうです。

 

・・・ということで、少しですが「喜捨」いたしました。

 

河津駅に到着したのが10時55分だったので、およそ4時間くらい桜を楽しんだ後、14時56分の電車に乗って帰ることにしました。

 

 

河津駅のホームは人、人、人で溢れかえっていました。

 

 
ギリギリで行ったので、私の前には4、50人くらいの人たちが並んでいた。
びっくり
 
アナウンスで、
「本日は大変混雑しているため、全員が乗れない可能がありますので、ご了承ください」
と流れた。
 
が〜ん!
 
うっそ〜。
乗れない場合、電車は1時間に1本なので、次は1時間後になってしまう。
 

 

アナウンスに耳を塞ぐ私・・・。

 

ドキドキしながら、電車を待っていたが、なんとか乗り込むことができた。

 

ちなみに、その電車は展望席がある電車でした。

私は電車の一番後ろの車両から乗り込んだので、展望席に行けるドアだったのです。

でも、皆なぜか展望席側に行かず、逆方向に乗り込んでいました。

最後に乗り込んだにも関わらず、私は堂々と展望席へと入って行き、ちょうど死角になっていた空いてる席に、ちゃっかり座れちゃいました。

 

 

びっくり!

 

数分前の喜捨の効果がもう出た?

 

電車に乗れないことや、1時間立って帰ることを覚悟していたが、なぜかゆったりと座れて帰ることができました。

 

平日でこれだから、土日祝で行ったら、厳しいかと思います。

河津桜は非常に美しいですが、それ以上に人が多いので、行かれる方は、ご注意くださいませ。