私の祖父(写真でしか見たことがない人)が亡くなって、収入が激減。

 

でも、まだ15年位の間はそんな状態であっても、
父親と母親、息子、そして似非祖母の4人は、まだ普通に暮らせていたそうだ。

 

しかも大きくなっても、息子は一向に病気は治らず、それどころか、

むしろ喘息もリュウマチも更に悪化することもあったようで、頻繁に入退院を繰り替えしていたそうで。

 

その間、幼稚園は行けず、小学校も殆ど行けない状態だったらしい。

 

私は彼が入院していた病室での様子、1つだけを覚えている。

 

小さなTVで何か戦隊モノ?のような番組を、彼が見ていた時に、

病気で入院していたクラスメイト?の人が、入って来てチャンネルを変えた時、

何か言い合いをしていたのだけど、その時にその人が私を見て、

 

「ハロー!」

 

と言ったのだ。

 

 

 

当時、私はまだきっと4歳かそれ位だったと思うけど、その意味がわからずで、

 

「?」

 

と固まっていた記憶がある。
 

 

 

そしてクラスメイトの人?は続けて、

 

「この外人、誰?」

 

と聞いてきて、病室に戻って来た母親が、

 

「親戚の子」

 

と速攻で言ってたのだ。

 

 

 

「親戚?ってなんだろ?」

 

と言葉の意味をわからない私は、謎だった。

 

 

家に帰るように母親に言われ、1人で戻った私だったけど、

茶の間に座ってタバコを吸っていた、似非祖母に聞くことにした。

 

「ねえ、親戚ってなあに?」

 

 

すると似非祖母は、

 

「親とかの兄弟とか姉妹とかだ。

 お前の従兄弟の■■■と、▲▲▲とか、

 俺の死んだ弟の奥さん、ほら××のおばさんあの人とか、

 あの家に一緒に住んでる人達、あの人達とかも親戚だな」

 

と言うので、益々意味がわからなくて、

 

「私はここの家の親戚なの?」

 

と言うと、似非祖母はそこで話を止めてしまった。

 

 

そして、

 

「ほらお前の "弟" が泣いてるぞ、遊んでやれ」

 

と言われて、そこでそれ以上は聞けなかったっけ。

 

(この話、また話の流れで出て来るのでその時に書くことに)

 

 

 

兄は祖父が亡くなってからは、入院は近所の公立の病院になっていたそうだ。

当時の金額とか全くわからないけど、それでも年に半分以上は病院の個室で過ごしていたようなので、かなりの負担だったと思う。

 

母親も父親も、勿体ないから大部屋にすると言ったらしいけど、

似非祖母がそれをヨシ!としなかったようで、

 

「亡くなったおじいさんの遺言だから、俺は個室に入れる!」

 

と言って、今思えば当時もかなり散財していたと思う。

 

そんな暮らしが既に10年以上も続いていたけれど、それでも父親は無職だ。

 

家業を継いだ、と言えば聞こえはいいけど、

実際には、彼は何もしていないと言うのだから、
これは確かに、もう立派な?無職以外の何物でも無いだろう。

 

 

 

「何度も離婚は考えたけどね、アンタ達がいたから出来なかった」

 

と、私が思春期の頃も、大人になってからも、何度も何度もそれを言われて嫌だったな。

 

 

実際、母親の兄弟や姉妹、友人には何度も相談していたようで、

 

「子供達を連れて、こっちに帰って来たほうがいい!!!」

 

とは言われていたようだったけど、病気の長男を養えるだかの生活力が無いだろうと、もうはなから自活する勇気など無かったようだ。

 

まぁ、昭和の中盤(昭和って何年までだったか、今はわからんので適当)頃に、女が1人で子供3人抱えて生きて行くのも、これは確かに大変だっただろうけど。