こんにちは。ご訪問ありがとうございます。

前の記事の続きです。

 

全盲の子どもの言語世界のことで、その女性が言い淀んでいたのは、前記事のようなことを言うと、親の責任を問うているように聞こえるということを気にしてのことでした。

 

子どもが生まれて、目が見えないとわかって、慌てたり落ち込んだり心配したりしない親はいません。

 

しかも、標準的な子どもでも、小さな子どもを育てるのは重労働。

 

私には経験がないけれど、目が見えない子に、一つ一つ生活の術を身につけさせるのは、容易なことではないに違いありません。

 

お母さんが見える人なら、見えない世界がわからないだろうし、見えない人なら、見えないことには慣れていても、子育てはそれとは別なのではと想像します。

 

さらに、育児をしながら、見えない子がこれから生きていくのに必要ないろいろの情報を集めなければいけない。

 

言葉というのは、生きていく上ではぜいたく品です。

 

だから、子の言語世界を豊かにしよう、ということは後回しになっても不思議ではない。

 

でも見えないでも上手に暮らせるようになったころに、もっとあればよかったと思う力が言葉の力ではないでしょうか。

 

言葉はひととひとが繋がるツールです。

 

親以外に子ども関われる人がたくさんいたとか、家庭の経済に心配がなくて障害を前向きにとらえることができたとか、親が言語教育に心得があったとか、そういう家庭でそだつ子どものみが、言語世界を豊かにできるというのではなくて、

 

全盲の子どもの言語世界を豊かにする方法が、誰もが知っているくらいに当たり前に共有されていて、自分の子どもがそうであった時、ああ、あのメソッドを使おうと思えること。

 

そして周りもそれに協力できること。

 

私の思うノーマライゼーションって例えばそんなことです。

 

長くなってしまったので、(というか力を込めて書いていて、体力がないので一気に書けないというか())印象に残った最後の一つについては、次の記事にまとめます。

 

本日もお読みくださってありがとうございましたー!!