切迫早産のため、夫の母、子どもにとってのおばあちゃんが、毎日一人目くんの保育園のお迎えに行ってくれています。

私自身は、核家族で育ち、祖父母は母方父方共にお正月や夏休みに会うだけの遠い存在でした。
遊びに行けば、可愛がってはもらいましたが、私が子どもの頃はベビーブーム後でたくさんの従兄弟たちがいたし、祖父母たちにはいわゆる内孫たちもそれぞれにいたため、私自身は、おじいちゃんおばあちゃんに特に甘えたという記憶はありません。

いま、我が家は核家族ですが、前述のとおり現在は毎日子どもの祖母が夕方から一緒に過ごしており、夕食も一緒にとっています。

このままこの距離感で、子どもにとっておばあちゃんが近い存在として感じられる育ち方をするのも悪くはないのかな、と最近思うようになりました。

義母は優しいひとですし、お互いに気を使いあって過ごしているのでトラブルはありませんが、本音のところ、やはり他人だなあと思うこともあるし、どんなに良い人でも姑なので私は気疲れして、顔を合わせるのが毎日だと辛いものがあります。
時々、感覚の違いがひしひしと感じられて正直イライラしてしまうことがあります。

それでも、子どもにとって、安心できる大人が親以外にもいて、愛され可愛がられる体験がたくさんできるのは大きいことかもしれません。

ワガママをして叱ったときに、おばあちゃんのところに甘え泣きしにいく息子を見て、一瞬、義母に対し、子どもを甘やかさないで欲しいと感じました。

でも次の瞬間、子どもは切迫対策で義母が来てくれるようになったこのひと月の間に、おばあちゃんを自分を守ってくれる人として認識した証拠だなと思いました。それは子どもにとっては、よいことに思えます。優しいおばあちゃんの記憶って悪くないなと。

小さな子どもにとって、親は、特に母親は絶対的な存在で、例え親に虐待されても子どもは親を好きなもの。だからこそ、親にはあらん限りの愛情を注ぐ義務がある。

子どもを授かったとき知り合いに言われた言葉です。

子どもからの無条件の信頼を感じる毎日の暮らしの中で、私はできる限り愛情を子どもに注いでいきたいと思いますし、同じように、孫に愛情を注いでくれる存在としての義母のことを受け入れていくことも、子どもにしてあげられることの一つなのかもしれません。