私にとって
「人参がキライ」
と
「学校がキライ」
は
同等です。
どっちが問題として重いとか軽いとか
どっちは良くてどっちは悪いとか
どっちは見逃せてどっちは見逃せないとか
一切なく
どちらも問題と思いません。
ただその事実があるだけです。
「国語が苦手」
と
「人付き合いが苦手」
も同様です。
ただその事実があるだけです。
大人にも苦手や嫌いがあり
言葉で明確に説明できるものから
それはもう言葉で言い表すのは難しい
生理的な無理、
前世で何かあったのでは?というような
言いようもない「苦手、嫌い」
の感覚ってあると思うのですが
子どもも当然そうなはずで
ましてや大人のように上手く言語化するのは
難しいと思います。
「人参が嫌い、国語が苦手」で
人参を食べない、国語の勉強を避けるのは
特に何も問われずに
わりと大事にならずに
持って生まれた性質として
「これが苦手なのね」
程度で済むのに
「学校がキライ、人が苦手」で
学校に行かず、人付き合いを避けるのは
大人が焦り
あれこれ理由を聞いて
矯正しようという方向に向かおうとするのは
物事を良し悪しで
判断しているから。
以前の私もそうでした。
私は今、自分の物差しで
物事を判断することをやめています。
苦手、嫌い、は
ただそうであると
認識することが大事だと思っています。
ではそれを矯正しなかったことで起こりうる問題や責任は?
大人のちっぽけな想像で
子どもの未来を問題にするなんて。
苦手を克服することに意味があるのではなく、
苦手であること、嫌いであることに
意味があると思うのです。
そこに、社会を見直すきっかけが
詰まっているのだと思います。
その子どもたちのメッセージに気付き
ではどうしていこうかと、一緒に考えていくことが
私が今出来ることかなと思っています。