イエス・キリストは、私が幼い頃から
身近かな環境にいた。
私はキリスト教の幼稚園に通わされ、
わけも分からずお祈りをさせられていた。
学生時代の朝礼では
毎朝聖書のメッセージを聞かされ、
週に1回は聖書の授業を受講させられ、
年に数日は終日ぶっ通しの
聖書セミナーを受けさせられていた。
そんな洗脳されてもいいような
環境にいたにも関わらず、
洗礼を受けさせられる事はなく
クリスチャンではなかったし、
私は随分長い間、
ある重要な事を知らなかった。
イエス・キリストの
十字架の死は、
人類の罪を身代わりに
負うための死だった
という事を・・・。
それを知ったのは、
十代も終わりの頃。
聖書のプログラムも何も関係なく、
学校にいた数少ないクリスチャン
の雑談が耳に飛び込んできた時だった。
初めて知った時、
衝撃的だった。
へ!?
何それ~~!!??
雷が落ちた。
私の耳はザル耳だったのか~!!??![]()
実は私は中学生の頃から、
世の中の裏ばかり深読みする
自分に劣等感を抱いていた。
その性質は今も健在で、
このブログの端々にネチネチと
表れているからお分かりいただ
けるだろう。
素直で爽やかな人になりたいと
思うのだけれど、どうしてもなれない。
クラスメイトから
無視されていたわけでもない。
いじめられていたわけでもない。
両親だって割と自由に私を
育ててくれていた。
世間的に見たら、挫折する
材料など無いはずだ。
にもかかわらず、わたしは
自分で自分を責めて、
自分の殻に閉じこもっていた。
実際、学生時代の同級生で
今も交流のある人などいない。
キラキラした青春の思い出などない。
学校に行くのが辛く、
落第しない程度に不登校をしていた。
何故、こんな風になってしまったのか・・・。
私は小さい頃は単細胞だが
活発で、自分に根拠のない自信
をもっていた。
いわゆる天真爛漫系。
世の中を疑う事を知らず、
世の中を素直に受け取っていた。
自分の意地の悪さにも無自覚で、
私はなんて良い子なのだろう![]()
![]()
と本気で思っていた。w
まったくもっておめでたい。
しかし、思春期になり、
エ・・・私はむしろ性格が悪いのでは?
と、自分や世の中を疑うようになった。
このような事はティーンは皆通る
道なのかも知れないが、
当時はインターネットもなかったし
小説も読まないおバカだったので
醜い事を考えるのは自分だけだ
と思い込んでしまい、
真剣に悩んでいた。w
それまでがそれまでだったので、
反動が凄かった。
自信がガラガラと崩れていった。
「私の行為には、
いい人と思われたくて
やっているところはないか?」
「どうして、物事の嫌な面ばかり
注目してしまうのか?」
「どうして、こんなしょうもない
私が生きているのか?」
自分の中のちょっとの不純物も
許せず、身動きが取れない。
人に自分の心を見透かされ、
失望されるのが怖かった。
今思えば考えすぎ、
神経症だったのかも知れない。
これから先の人生、
エゴの強迫観念と孤独と闘いながら
生きていかなければならないと思うと、
思春期の私は気が遠くなり
さめざめと泣いた。
そこに、イエス・キリストの
十字架の死の意味。
罪人のために十字架に
かかったですと・・・?
しかも、自分を
バッシングした人の
ために神に許しを
祈ったですと・・・?
私には、
逆立ちしたって真似出来ない・・・!!
何だか分からないけれど、
ボロボロと溢れる熱い涙を
堪える事ができなかった。
その時に、イエス・キリスト
をとにかくスゴイ人だと
一目置くようになった。
その時は、十字架の死の
意味を認知しただけで
信じた訳ではなかった。
「私もイエスさまを信じる事が
出来たらどんなに楽だろう。」
「クリスチャンっていつも『感謝』
と言っていて羨ましい・・・。」
「でも、私は屈折した性格だから
きっと信じる事ができないだろう・・・。」
「イエスさまほどの人に、
私なんかの罪を背負ってもらう
のはおこがましい・・・。」
と思っていた。
それから数年後のある日。
宿題のために聖書を読んでいた
時の事だった。
聖書のある一節が目に留まった。
「彼らは見るには見るが見ず、
聞くには聞くが聞かず、
悔い改めて許される事が
ないためです。」
(マルコ 4:12)
遠くから潮がだんだん
近づいてくる感覚を感じた。
な、なんじゃこりゃ~!?
私の事が書いてあるやんけ~!!!![]()
潮が私にたどり着き、
波に浸かったような感じがした。 ![]()
それまでは、無機質なただの
活字だった聖句が、
まだ生あたたかい体温があり、
息をしているもののように感じた。
これには私はビビった。
そこで私は悔い改め、
イエスを信じた。
熱い涙が溢れて仕方がなかった。
世の中には、イエスが人類の罪の
身代わりに死んだと聞いても、
「弟子が後からこじつけた理屈に過ぎない。」
とか、
「イエスは十字架で死ぬ時、
なぜ神は自分を見捨てたのかと
恨めしい事を言ったから
人類の罪の犠牲になりたいと思っていた訳ではない」
と言う人がいる。
しかし、イエスは弱者の絶望、
悲しみを理解し
人々の罪を受け止めていた
と私は思ってしまう。
口先の理想論だったら、教えに力はそこまでない。
しかし、イエスは言いがかりを付けられても戦わず、
公然でズタズタに踏みにじられ、
敗者になる体験を通し、弱者の味方
である事を象徴的に示した。
2千年以上経った今でも、
負け犬の烙印を押された光景は
全世界に知れ渡っている。
正直者は救われるなんて嘘。
狡賢く立ち回った奴が得をして
正直者がバカを見る世の中。
品行方正で評判が良い人だって
強盗に入られたり、騙されたり
災害や事故に巻き込まれたり
理不尽な状況に見舞われる。
絶え間なく続く病気の痛み。
いつまで耐えれば良いのだろうか。
気が遠くなる・・・。
どんなに祈っても症状が回復する事はない。
神はいるって聞いたのに、
神もへったくれも無い世の中じゃねえか!!
と憤りが沸く・・・。
イエスが
「なぜ神は私を見捨てたのか?」
と吐いたのは
まさに人類が上記のように感じる絶望や
悲しみを背負ったからだと思う。
しかしイエスは
三日後によみがえり、
死を打ち破った。
ここに最大の奥義があるように思う。
十字架のあがないは作り話ではなく、
イエスの教えが事実であると証明する
ポイントだと思ってしまう。
「バ~カ!!
復活だって、弟子の作り話だよ!ww」
と世間はあざ笑うだろう。
しかい多くの人が3日後に
蘇えったイエスを見た。
よみがえったイエスを見た人は
信仰を再度奮い立たせ、
迫害されればされるほど
信者を増やした。
クリスチャンを迫害しまくっていた
ローマ帝国なんて
キリスト信者に降参し、
あろうことか
キリスト教を国教として制定する始末だ。
・・・???
よりによって、何で?w
この経緯は史実として、
あらゆるところに刻まれている。
もし作り話やただの理想論であれば、
迫害を乗り越える力はないと思う。
迫害されればされるほど、信仰を諦め
キリスト教は闇に消えただろう。
歴史は今とは違ったものになっていたに違いない。
とは言え、
聖書で受け入れられない所、
ゲンナリするカ所は多々ある。
教会から離脱した後、
スピリチュアルや占いや
成功哲学に触れてみたりもした。
イエスさまなしでも、
マーフィーの法則だけでも
うまく行くんじゃない?
仏教の方が寛容で良くない?
輪廻があった方がしっくりしない?
など、何度も思った。
というか、今でも思ったりもする・・・。
でも、キリストの十字架の死と
3日目のよみがえりについては
ぐうの音も出ない。
イエスの十字架を思い起こすと
どうしても
「ははぁ~!!m(_ _;)m 」と
ひれ伏してしまうのだ・・・。
世間で例えると、水戸黄門の印籠
のような感じだろうか。
全ての疑問やわだかまりを飛び越えて
ひざまずかせる十字架の力・・。
いっそのこと十字架を捨てきれたら、
いろんな宗教やスピリチュアルの
いいとこ取りができるのに。
でも、イエスは
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。
わたしを通してでなければ、
(ヨハネ14:6)
などと言っている。
イエスほど 人のために体を張って
自分の教えを証明した人はいない。
何を選択しようと私の勝手なのに、
自分の自由にやっていきたいのに、
十字架に引き戻される。
これって、一体なんなんだーーー!!!!
私は感情に振り回されるし、
支離滅裂で、フラフラしていて
矛盾している。
でも、とにかく
十字架には力があり、
そこに秘められた意味は
一貫して変わらない。
恐るべし、十字架。
