大学の講義より

アメリカかどっかの原住民の言語には時間を表す言葉がないらしい。日本語も英語もドイツ語も(ぴもーがわかるのはこれくらいだけど)程度の差こそあれ時制というものはある。時制がないというのは不便じゃないんだろうか・・?それとも時間で区切った生活をしていなければ時制なんてものはいらないもんなのかな。とにかくそういう言語が実際にあるそうだ。

しかしこれは未開社会(というと語弊があるが・・)だから時間の概念が不必要なのではなくて、この言語でも近代科学で証明されてきた物理法則や宇宙の仕組み(相対論やビッグバン理論など)を正確に捉えることは可能だという。

ぴもー的には、「それって球を考える時に極座標で考えるか、デカルト座標で考えるかって違いなのかな」と思ったのだが、そうではないらしい。

Aということを認識する上で、言語が異なる者同士(例えば日本人の健治とスロヴェニア人のローク)がそれぞれ正しく認識したとする。そして健治とロークそれぞれにAの内容を説明してもらった場合に、Aの内容はもちろんお互いに矛盾しない。しかし健治の頭の中で想起しているものと、ロークのそれは異なるものなのだ。・・と大学の教授は言っていた。

つまり「言語が異なってもある一つの事が同様に理解できる。しかしそれは同一のものではない。」ということかな。ほんとかぁ?しかし標語的に言えば「言葉が違えば世界も違う」 ということであり、それはおもしろい考えだと思った。

例えば日本語の靴と英語のshoeは指すものが同じでありながら、それぞれが含む事柄は微妙に違う。靴は片方でも一足でもよく、shoeは片方だけだ。そして当然、語源や語感も字面も違う。これらのことが積み重なって各言語の世界が作られるのだから、そりゃ違うわなという感じがする。ぴもーのこの例えは間違ってるかもだけど・・でもなんだかおもしろい♪

ことばって奥深いね(^-^)