少し前から、
人の言うことに身を委ねると決めた。
読みもの、レッスン、髪型、買い物、、、
とにかく何でも。
「若いお前にどんな判断ができるんだ?
間違いだと思っていることに手も出したこと無いのに、
何故お前に“違う”と判断できるんだ?
お前なんか、むしろ間違っていると思うことだけに手を出せ。
自分の判断なんか信用するな。」
こんなことを社長に言われたことがあります。
ちょうど去年の春でした。
禅の言葉に
“落花流水太だ茫々”
という言葉があります。
散り始めた無数の花びらが、流水に載って
果てしなく広がっていく姿を謳っているそうです。
花びら達は“無心”
流水もまた“無心”
無心であるものは、
偶然な出会いにも、稀な出会いにも、
ただただ無心に従い、、流れに逆らうことなく、、
果てしなくご縁を広げていくというのです。
「宿命」という言葉
僕達を動かしている大きなエネルギーそのものを
「命」と呼ぶようです。
その命を享けて、僕達は生きていくといいます。
自分の努力に関係なく
命が決まっているものだというのが「宿命観」だそうです。
しかし「命」は、
僕達の在り方や努力の影響を
微妙にうけつつ、変化し続けるもの。
そう考えるのが、
「動く」という意味で「運」を使い「運命」
先ほどの花びらも、
風向き次第では、どこに落ちるか分からない。
流水に落ちたことを「宿命」だと思い、
どうしようもないと思う人は多く存在する。
第一希望に落ちて第二希望に入ったように。
けれど、だからといって
その後に努力しても成り行きが変わらないわけではない。
禅の中で「宿命」は、諦めた見方として認めないようです。
動き続ける命を受け止め、
それを幸運とも不運とも思わず、
ただひたすら無心に従う。
その上で自由な自分を創造するのだそうです。
気に入らない流れは、
避けて通ってきた僕の心を見抜き、
避けようと考えている“命”には、
お前の勝手な思惑に染められて、捏造されている。
そんなこと考えずに、とりあえず取り組め。
社長はこう言ったのだと思っています。
下手な思惑を持って流れを捻じ曲げるのではなく、
思惑を持たず、無心であり続けろということですかね、、、
なんだか難しくも感じますが、
それに逆らわず取り組み続けるのも、
流水に載っていることになるのでしょうか、、、
と、思っているうちはまだまだですね。
もっと、ピラティスします。