平成7年1月17日、僕は京都で3泊4日の旅行最終日を迎えていました。周遊型の旅行が多い僕としては珍しく滞在型の旅行で、前日までの3日間は京都の寺社仏閣を巡っていました。枕が変わると眠りが浅くなる僕は、やっと少し眠れるようになってきた時だったのですが、なぜか最終日は目が覚めるのが早く、当日の予定を頭にずっと浮かべながら、ベットの上で横になっていました。
 とすると、突然グラグラと揺れだしました。即座にテレビのスイッチを入れました。最初は地震が関西地方で起きたということで、京都駅前のホテルの窓ガラスが落ちて割れている状況を報道していました。そのうち、神戸が大変なことになっているという情報が伝わり始めました。まず、交通機関が全く動きません。JR、阪神電鉄、阪急電鉄等多くの電車は始発から全く動きませんでした。ただ、時間が少し経つと近鉄が動きだしたという情報がまず流れました。近鉄なら奈良経由で難波に向かうことができますし、場合によっては名古屋経由で脱出することも可能だな、と考えました。タクシーで関西空港まで行くことも考えましたが「幾らかかるのか?」「道路で動けるのか?」等分からない点が多々ある状態では最後の手段とすることにしました。そのうち、朝の報道番組が終わる直前に、「京阪電鉄が動き出した」と最後にキャスターが叫んでいるのが聞こえました。そこで、まず京阪電鉄で大阪淀屋橋まで行きことにしました。チェックアウトをすませ、JR京都駅まで行くと、通勤できない人たちがたくさん駅で立ち往生していました。その人たちを横目に、京阪電鉄「七条」駅まで行き、やってきた普通電車に乗り込みました。この電車は思っていたよりもすいており、快適に動いていました。その後快速電車に先に越されるという車内放送があったため、乗り換えたところ、快速電車はものすごい人でひどい目に遭いました。
 何とか淀屋橋まで来たのですが、地下鉄がまだ動いていません。そこで歩いて難波まで行くことにしました。大阪の街の中、車という車は全く走っていなく、ただたくさんの人が歩道を歩いている光景は異様でした。横にいる人とも誰も何も話をしていなく、たまに話し声が聞こえても、気が立った状態で携帯電話に向かって現在の状況を話しているような人ばかりでした。
 難波に着いた時が午前11時30分過ぎでしょうか。正午から地下鉄が動き出すというアナウンスが地下鉄の駅で盛んにされていました。しかし、地下街に入ろうともぐっていくと、こうこうと蛍光灯を照らしている脇で、ぽたぽたと水がしたたり落ちている状況を目にしました。多分どこかの給水管から漏水していたのでしょう。これを見た瞬間、僕は「ここの人たちは地震への対処の仕方を全く知らないのだな。」と確信しました。漏電による火災の危険性を全く感じていないからです。感じているならば、当然この通路付近は通行禁止としているはずですから。恐ろしさを感じながら、昼食を取ろうとしても、どこもお店は閉まっています。かろうじて開いていたサンドイッチ店も、入れ替わり立ち替わりの客で、僕みたいな地方の人間には何も口を出すことができません。やっと開いていたウナギ専門店でやっと昼食を取ることとしました。
 やっとの思いで昼食を取り、しばらく難波駅で関西空港の情報を得ようと、うろうろしていたのですが、全くつかめません。1時間以上待っていたでしょうか。全く動きが分からないため、とにかく関西空港の方に動くことにしました。南海電鉄で「泉佐野」駅に行くと、やっと関西空港まで行くことができることが分かりました。「泉佐野」駅からバスで関西空港までピストン輸送をしていることが分かったのです。これに飛び乗り、何とか関西空港に着いたのが午後3時頃だったでしょうか。すでに地下のコンビニの物はほとんどが売り切れており、残っている物は食べることのできない雑貨ばかりでした。何も売る物がない、棚ばかりが見えるコンビニというものも異常な光景でした。後は出発時刻である午後6時30分頃までずっとテレビにかじりついて、神戸の悲惨な状況を見ていました。飛行機は定刻に出発し、帰宅は無事できた次第です。
 長々と記してきました。これが僕の阪神大震災の思い出です。いろいろと思うことはありますが、今日はここまでとします。