長崎原爆の日に思う(追記あり) | Agunes~☆ほのぼのブログ

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お出かけ・時折介護のことを綴ります
微笑は幸せを運び、その喜びは心を綺麗にすることを信じて
  

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毎年、この日がくる度に
胸がさらに痛むようになりました

薄れることがない
重くなっていくのは
それだけ
私にとっても忘れられない出来事がある



朝のNHKテレビ小説『エール』
主人公のモデル古関先生が作曲された
名曲【長崎の鐘】

この曲のモデルになってるのが、
永井博士


永井先生の自宅は爆心地から1kmもないところ
原爆で奥様が亡くなられました
先生は医師として、多くの被爆者を治療され、最後はご自身も白血病になりお亡くなりになられています

明日に希望を持ちながら~
悲しい気持ちと戦いながら
その思いが 長崎の鐘 で歌われている



素晴らしい曲です
短調から始まりサビの部分では長調に変わり、
それが繰り返されて、最後は長調で明るい未来を感じさせています

希望が伺えます
藤山一郎の声も、澄んだ声でぴったりです






私の父の故郷も長崎

爆心地から500m
永井博士のお宅よりも爆心地から近いところになります

9人兄弟の下の2人が原爆でなくなりました

動画の初めにでてくる
浦上天主堂の下に防空壕があって
そこが避難場所で、
入口の2重扉の外側の扉を入ったところで
発見されたそうです

間に合わなかった・・・
まだ、小学生だった

家のお茶の間でいた時に
防空壕に行くよー
と、声をかけられ向かったそうです


長崎市内で働いていた叔母は
ビカーッとなった瞬間に
会社に置いている机との隙間に身体が挟まっていたそうで、放射能から逃れられたのか
助かりました

しかし、放射能をあびていたらという不安から
結婚はせず、生涯1人を貫きました

叔母は結婚せず、子供もいませんでしたから
私も含めて甥や姪をとてもかわいがってくれました。一つ違いの従姉妹とお揃いの洋服を作ってくれて着せてくれました。お料理も洋裁もうまくて、結婚できていれば、きっと良妻賢母になっていたことでしょう~



この歌を聞くたびに
私は思い出す


父は原爆が投下されて4日後に長崎に
帰ってきました

当時父は20才
海軍に所属し横浜で訓練を受けていました


生まれ育った街の悲惨な姿に
父はどれだけ落胆したのだろう
私には計り知れない苦しみです
父の人生は大きく変わりました
長く、カトリックの信仰を持ち続けてきた家庭に生まれ育ったのに根底から崩れてしまいました

それほど
20才という多感な時期に
こんな大きなショッキングな出来事があれば、
普通にいることは難しいのかもしれません

父が私に発した苦しくて悲しい涙の声
未だに私は忘れられません


おまえにわかるかーーーーー!
あの焼け野原を見た俺の気持ちがーーーーー!


この言葉を聞いたのは
私が17才の時
父が57才の時

戦後、37年経っても
戦争の傷痕は心に刻まれていました



戦争はその時だけじゃない!
戦争後も多くの苦しみをもたらします



戦後75年も経ったのですね
風化させてはなりません

私も知っていることは
後世に伝えなくてはと思っています




今日は朝から重い話題でごめんなさい
今日にしか綴れないことのなので・・・

皆様、お身体に気をつけてお過ごしください