本日

36日は僕の誕生日です。


 

誕生日になると毎年同じ内容のブログを書いています。

 

毎年内容はほぼ同じです。



なぜ同じブログを書くのか?

 


新しく僕の事を知ってくれた人にも見て欲しいからというのはあるのですが、1番の理由は


「忘れない為」


です。



この話を知ってくれている人に忘れないでいて欲しいというのもあるのですが、何よりも僕自身が忘れないようにする為に書いているブログです。

  


人間って、どれだけ良い想い出も、歳を重ねるにつれて忘れていくんです。

 


特に、エピソードを覚えておく訓練をする芸人になる前、ブログを書く前の事は記憶が薄いです。

    


なので、当時の残り少ない、薄れていく記憶を忘れない為にも、毎年同じ内容を細かく書いています。


長文になりますが、最後まで見て頂けたら嬉しいです。


 



 

僕が20代の頃に、忘れられない人

 

 

忘れたくない人に出会いました。



それが大阪で

「ぴのっきを」

というコンビで活動されていた

「清水キョウイチ郎」さん

です。

 

 

僕は、大阪で生まれ、大阪で育ちました。

 

 


20歳の頃の僕は、本当にやりたい事も見つからずただダラダラと生きてました。



それに見かねた友達が


「やる事ないんやったらうちで働けへんか?」

と紹介してくれたのが、吉本の笑いの殿堂、吉本の大阪本社もある

「NGK(なんばグランド花月)

の駐車場係のアルバイトでした。



NGKにある駐車場で、本社や劇場に来る吉本の社員さんや、芸人さん、月極め、一般の方まで、色々な方が停めに来られる駐車場です。

 


見学に行ってみたらたまたま今田さんや東野さんが普通に歩いていて

「芸能界や!ここ芸能界ですやん!」

と感動して、アルバイトを始めることにしました。



最初はアルバイトで何となく働いていて、しばらくしたら

「やる事ないんやったら社員にならへんか?」

と勧めてくれて、何となく社員になり、20歳から30歳頃まで何となくNGKで働いていました。



大阪の人間なんで毎週新喜劇とかは普通に見てましたけども、お笑い芸人になるという考えは全くありませんでした。



何となく人前に立つ仕事がしたい、何となく有名になりたいという、小学生のような漠然とした夢はありましたが、お笑いが特に好きだった訳でもなく、やりたい事を何となく探す日々が続きました。

 


一応NGKで社員ではやっていましたが、自分が本当になりたい何かを探していました。




ある日、NGKの駐車場で働いていた人に日本拳法を教えて貰って格闘技にはまり、たまたま家の近くに極真空手の道場が出来たので

「やっぱやるなら喧嘩空手っしょ!」

と、極真空手を始めたのですが、膝に蹴りを貰い過ぎて膝が割れて空手を引退し、その後ボクシングなら蹴りが無いから出来るかもと、ボクシングに転向して、始めたらみるみる痩せてきたのでプロボクサーになりました。



NGKでもボクシング好きな方は多く

「よう、ボクサー」

「よう、チャンピオン」

という感じで、声をかけてくれる人が増え始め、ボクシングを始めてから仲良くなった方が増えました。

 

その中の1人が

清水キョウイチ郎さんでした。



清水さんは

「ぴのっきを」

というコンビで、当時大阪では結構知られた人でした。



昔は天才と言われ、爆笑オンエアバトルは、ぴのっきをを売り込む為に作られたという噂も聞いた事があります。



僕も詳しくはわかってないので間違いもあるかもですが、清水さんは最初は東京でいかりや長介さんに弟子入りしようとしたが叶わず、大阪でチャンバラトリオさんに弟子入りし、梅田花月の進行係をやり始めて、そこに木村祐一さんもいてたっぽいです。

そして、新喜劇の合間に勝手に舞台の幕を上げて1人で出て、ドッカンドッカンウケてるのを見て、タコ兄さんが

「コンビ組んでくれ」

とお願いしてコンビ結成して2年ぐらいで色々なお笑いの賞を獲りまくっていたみたいです。


ネタは今見ても、今の芸人のお笑いと比べても遜色なく、めちゃくちゃ面白かったです。



それだけ勢いがあった清水さんですが、ある時

「ストップ病」

という病気にかかってしまいました。


文字通り、普通に生活してたら突然動きが止まってしまう病気でした。


僕と一緒にいる時も止まった事があって、ノリ良く喋っている時に突然糸が切れたみたいに止まって、しばらくしてから動き出し

「俺今止まってた?」

と聞いてこられてました。



これからぴのっきをを売り出そうという時に

テレビの生放送中、ネタの最中、容赦なく何度もその病気に襲われ、相方さんも

「ごめん、もう無理やわぁ

と離れていきました。

 

 

そして、不幸は重なり結婚していた奥さんとも離婚されてしまいました。

 



娘さんは奥さんが引き取り、会いたくても会わせて貰えなかったそうです。



これからだという時に、相方に離れていかれ、奥さんにも離れていかれ、娘さんと会う事も叶わなくなりました。

 

 

清水さんはずっと、娘に会いたい、娘に会いたいと言っていました。



ピンになってからも、しばらくはテレビのレギュラーもあったみたいですが、新喜劇に入るように勧められて、心機一転新喜劇でやる事になりましたが、蓋を開けてみると清水さんは若手に混ざってちょい役でたまに出る程度のポジションでした。

 

 そして新喜劇に出るならという事で、レギュラーも失いました。


 

今でこそ新喜劇の方は色々自由に活動されてますが、当時は新喜劇に出る人は新喜劇だけという感じだったようです。





清水さんとは元々顔見知りではあったのですが、昔ボクシングをやっていた清水さんが、僕がプロボクサーをやっていると知って、僕に興味を持って話しかけてくれたのが始まりでした。



清水さんも僕と一緒で、空手からボクシングに転向したそうで、空手をやっていた時に道場によく暴走族が来ていて、道場に冷やかしに来ていたそうです。


そこの師範が、暴走族を懲らしめてやろうと思って、清水さんに

「清水、相手をしてやりなさい」

と言って、清水さんが

「はっ!

と言って、その暴走族のリーダー的な感じの人と組手をする事になりました。

 

「少し揉んであげましょう。

かかって来なさい」

と清水さんが言うやいなや

 

 

 


 

  

 



 

 











清水さんはその人にボコボコにされました

 


 



  


     
















あり得ないぐらい強かったそうです。


師範はその人の強さに惚れ込んで、道場に勧誘して、その人は清水さんと一緒に稽古をする事になり、その人と清水さんは仲良くなりました。


「師範が俺よりそいつを気に入ってもうてなぁ

芸人仲間は俺より弟の方を気に入ってまうし、俺、そういうのばっかりやわ

とお話しを聞かせて貰ったのですが、その時の暴走族の人が、新喜劇で

「いいよぉ〜」

のセリフやキャラで人気の、水玉れっぷう隊のアキさんだそうです。


「清水さん、あの頃はすみませんでした」

「いいよぉ〜」

と言ってたかどうかは知りませんが、その時の事を凄く嬉しそうに話されていて、そういう事を根に持たない、凄く人柄の良い方だなと思いました。