今年も毎年誕生日に書かせて頂いている事を書きます。

昔を振り返りながらほとんど同じ内容の記事を毎年書き、その年の僕の気持ちを付け加えているだけの記事で

「毎回何で同じ事書くんですか?」

とよく聞かれるのですが、僕の事を新しく知ってくれた人にも見て欲しいからと、見てくれた人にも忘れないでいて欲しいなと思っているのと、何よりも自分自身が忘れない為です。

  

そして今回は特に、前までやっていたヤフーブログの記事が全部消えてしまったので、新しく書き直す事になります。

 

もう何年も前のブログのコメントに

「このブログを書かなくなったらあなたの応援をやめる」

と書かれた事があります。

 

その時に僕は、このブログを毎年書き続ける事を決めました。

「またあのくだりですか?」

と言いつつ毎回読んでくれてる人もいます。

このコメントをくれた人が、もう僕の事を応援してくれてなくてもいい…

この人がふと僕のブログを見た時に何となく思い出してくれたらいいなと思いました。

 

そんな僕が忘れたくない事…

  


忘れたくない人の話です。

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 



 

 


僕は大阪で生まれ、大阪で育ちました。

 

 


20歳になってもやりたい事も見つからず、実家でただダラダラと生きてました。


それを見かねた友達が

「やる事ないんやったらうちで働けへんか?」

と紹介してくれたのが、吉本の笑いの殿堂、吉本の大阪本社もある

「NGK(なんばグランド花月)」

の駐車場係のアルバイトでした。


NGKの中にある駐車場で、本社や劇場に来る吉本の社員さんや、芸人さんから、月極め、一般の方まで、色々な方が停めにに来られる駐車場でした。

 

見学に行ってみたら、今田さんや東野さんが普通に歩いてて 

「芸能界や!」

と感動して、始めることにしました。


最初はアルバイトで何となく働いていたんですが、しばらくしたら

「やる事ないんやったら社員にならへんか?」

と友達が勧めてくれて、何となく社員になり、20歳から30歳頃まで何となくNGKで働いていました。


そう、お笑い芸人になるつもりなんて全くなかったんです。


何となく人前に立つ仕事がしたい、何となく有名になれたらいいなぁ~という、子供の描く夢のような漠然とした気持ちはありましたが、お笑いが特に好きだった訳でもなく、やりたい事もなく、やりたい事を何となく探す日々が続きました。


NGKの駐車場で働いていた人に日本拳法を教えて貰って格闘技にはまり、そこから極真空手を始め、その後ボクシングに転向してプロボクサーになりました。


NGKでもボクシング好きな方は多く

「よう、ボクサー」

「よう、チャンピオン」

という感じで、声をかけてくれる人が増え始め、ボクシングを始めてから仲良くなった方も多かったのですが、その中の1人に

「清水キョウイチ郎」という方がいました。


清水さんは

「ぴのっきを」

というコンビで、当時大阪では結構知られた人でした。


昔は天才と言われ、爆笑オンエアバトルは、ぴのっきをを売り込む為に作られたという話も聞いた事があります。


それだけ勢いがあった清水さんですが、ある時

「ストップ病」

という病気にかかってしまいました。


文字通り、普通に生活してたら突然動きが止まってしまう病気でした。


これからぴのっきをを売り出そうという時に…

テレビの生放送中、ネタの最中、容赦なく何度もその病気に襲われ、相方さんも

「ごめん、もう無理やわぁ…」

と離れていきました。

 

そして、結婚していた奥さんとも離婚されてしまいました。


娘さんは奥さんが引き取り、会いたくても会わせて貰えなかったそうです。


全盛期の清水さんはキレッキレでした。

病気がなければおそらく今は全国区のテレビでご活躍されてたと思います。 


そんな清水さんがこれからだという時に、相方に離れていかれ、奥さんにも離れていかれ、娘さんと会う事も叶わなくなりました。

 

清水さんはずっと、娘に会いたい、娘に会いたいと言っていました。


ピンになってからも、しばらくはテレビのレギュラーもあったのですが、ピンよりどこかに所属していた方がいいと新喜劇に勧められて、心機一転新喜劇でやる事になりました。

 

ですが、蓋を開けてみると清水さんは若手に混ざってちょい役でたまに出る程度のポジションでした。

 

そして新喜劇に所属するという事で、レギュラーも失いました。

 

今でこそ新喜劇の方は色々自由に活動されてますが、当時は新喜劇に出る人は新喜劇だけしか出てはいけないという感じだったようです。


そんな清水さんとは元々顔見知りではあったのですが、昔ボクシングをやっていた清水さんが、僕がプロボクサーをやっていると知って、僕に興味を持って話しかけてくれるようになりました。

 


清水さんも僕と一緒で、ボクシングの前は空手をやっていたそうで、清水さんが通っていた道場に暴走族がよく冷やかしに来てて、ある日その暴走族の1人が

「俺にも組手させてくれよ」

と言ってきたので、師範が懲らしめてやろうと、清水さんに

「清水、軽く揉んであげなさい」

と、清水さんがそのヤンキーと組手をする事になったのですが、そのヤンキーがめちゃくちゃ強くて、清水さんはボッコボコにされてもうて、更に師範がそのヤンキーの事を気に入ってもうて、そのヤンキーと一緒に道場に通う事になったそうです(笑)


その時のヤンキーが水玉れっぷう隊のアキさんだそうで、清水さんがボコられてなかったらアキさんも芸人やってなかったかもしれないので、人の縁とは不思議ですね。

 

清水さんは、自分がボコボコにされた話をいつも嬉しそうに話してくれました。

 

そんな話を聞かせて頂いたり、格闘技話に華を咲かせたりして意気投合し、一緒にご飯食べにいったり、清水さんがNGK出番の時はずっと一緒に喋ったりするようになりました。

 

そうしてるうちに、いつの間にかNGK館内で


「清水と高木は親友」


と言われるようになりました。

 

 

 

清水さんの芸人仲間みたいに深い間柄ではなかったのですが、清水さんが素人のおじさんと仲良くしてたので、そういうイジリの意味も込めてそう言われていました。

 

そして、僕と清水さんが仲良いのはみんな知っているぐらい、しょっちゅう一緒にいました。



清水さんと一緒にボクシングを見に行ったりするようにもなり、清水さんは僕のボクシングの試合も応援に来てくれました。



新喜劇の中田はじめさんに

「清水さんにはよく怒られてるんですよ」

という話をしたら

「え!?

清水兄に怒られてるの!?」

と驚かれるぐらい、清水さんはトラブルメーカーで、よく揉め事をおこしていました。


 

もともと一本気で、融通のきかない性格の上に、天才と言われながらも、病気によって全てを失った不遇な人生の為に、人間不信になり、被害妄想が激しくなり、よく人と揉めていました。

   

ある日清水さんと連絡が取れなくなったので心配して

「息子さんと連絡取れなくなったんですが大丈夫ですか?」

と実家に電話したんですが、後日清水さんに

「親に心配かけたくないから、そんな電話せんといてくれ!」

と怒られました。

 

「何してたんですか?」

と聞いたら

「ヤクザに監禁されてたんや」

と聞かされ、どこまで本当かどうかはわからなかったのですが

「いやいや…親に心配かけるとか、そういうレベル超えてますやん!」

と思った事もあります(笑)

 

 

全然悪い人じゃないのですがよく人と揉めるので、清水さんを新喜劇から外そうという話が出たそうですが、座長の内場勝則さんが

「清水を外すなら俺も辞める」

といって止めてくれたそうです。

 

 

清水さんも、僕と一緒で、人に怒られたり、助けられたりの人生だったんですね。



僕は、最初はNGKの駐車場管理の仕事をしていたのですが、シフトがバラバラな駐車場管理の仕事だとボクシングをする上できつくて、試合で3連敗してしまい、次負けたら引退と追い込まれたので、比較的シフトが統一されているNGK内の床のワックスがけをしたりする特別清掃に変えて頂きました。

 


掃除の仕事に変わってから、よく清水さんと楽屋のロビーとかで出会って、そのまま話し込んでしまう事が多かったのですが、そんな時清水さんは、巨人師匠に話しかけられようが、カウス師匠に話しかけられようが

「今、高木と話してますんで」

と、僕との話を優先させてしまうぐらい一本気で友達想いな方でした。



清水さんにとって、師匠も掃除のおじさんも関係なかったんですね。



俺は権力より友情を選ぶんだという、清水さんの中の正義を貫きたかったんだと思います。

  

生き方がとにかく不器用な人でした。

 

 

そんな清水さんを心配した芸人仲間が、清水さんに

「兄さん、何であんなホームレスみたいな奴(僕の事)と仲良くしてるんですか?」

と言ってきたので

「何やと!?

取り消せ!」

と、掴み合いの大喧嘩になった事もあるそうです。



仲間の為には、どんな人間にもつっかかっていくような人でした。