一番ハードな仕事が夏休みに入り、その一ヶ月の間に、体力を戻そうと思っていたのが、
結局貧血により体調はしんどいまま、8月末からまたその仕事が再開した。
(婦人科は一応受診)
そして再開して2週間、まさにその職場で感染者が出たことが判明し、調査(濃厚接触者がいるかどうかの)のため、休業となった。
私はひとまず、その調査結果が出るであろう日までの4日間の自宅待機を決め、その間のすべての仕事と予定をキャンセルしたのだった。
本当に仕事もプライベートな予定も何もない、空白の4日間が始まった。
まずびっくりしたのは、1日目の朝。
一度も起きずに9時間ぐっすり寝ていた。(ふだんは出掛ける時間に合わせて、だいたい6〜7時間 で起きざるを得ない)
目覚めた瞬間は特別スッキリ!というわけではなかったが、少し体を動かしているうちに、いつもより格段に体調が良いことに気づいた。
いつもの肩や首がズーンと重い感じ、常に頭痛の種をどこかに持ってる感じが、皆無なのだ。
あぁ、こんなスッキリと体が気持ちいい日っていつぶりだろう…
体調がいいだけで、なんだか頭も明晰になった気がする。モヤが晴れたような。
すると、ふといろんなことに気づき始めた。
・自分の中に、いつもの絶望感が無い
私の中にいつもあった絶望感とは、
「人生死ぬまでヒマなこと」
「日々これだけヒマつぶしになること(仕事)をやっているのに、そこはかとなくつまらないこと」
…ちなみに「つまらない」というと、あたかも私がすごく優秀で、見下しているように聞こえるかもしれないが、そうではない。
優秀で尊敬するたくさんの人たちの中にいて、どうしたらその人たちのように優秀になれるか、本気で高みを目指す情熱が湧かないということなのだ。
…しかしいつもは自分の根底に感じている、その絶望感がなぜかスッカラカンにどこかに行ってしまって
自分がとてもニュートラルな状態であることが実感できたのだ。
・精神というのは肉体の一部なんだ
また、これを初日の朝に体験したことで
・いつもの肩、首、頭の重みは、疲れから来てるのではなく、たくさんの「しなければいけない」と思っていることに対する重みだったんだ
これらの直感が体調の良さから来ることは明白で
ハードスケジュールがいかに体に負担だったか、そして自分の直感を妨げていたか
4日間、何もしなくていい、何にも束縛されないというだけで
初日にこれだけ解放されたことに驚いた。
私は、4日間快適に過ごせるように、まず家の掃除をした。
ふだんから片づけは出来ているので(片づけ得意)、掃除をするだけで家は十分スッキリする。
掃除をしていると、ふとそれを楽しんでいる自分に気づいた。
掃除を楽しんでやる、という感覚はすごく久しぶりだった。
もともと掃除は好きだった。
それでも、たびたびの来客のために、ハードスケジュールの合間に疲れた体でする掃除は、今から思えば「しなくてはいけないもの」になっていた。
しかも、それを「こんな忙しかったら、来客が無ければ掃除をサボってるだろうな。来客があるおかげで家がキレイに保たれる。ありがたいこっちゃ」と思いながらやっていた。
ハッ!
・「好きなタイミングで、やりたくてやる」掃除は、快楽。
「しなければならない」でやる掃除は、労働。
同じ「掃除」でも、前者と後者では大ちがい。疲れ具合もまったくちがう。
ああ、そしてこれは掃除だけの話じゃない。
仕事、趣味、家事、娯楽……
生活のすべてのコンテンツに通ずる事なんだ。
あっ!!
・今の私の生活全般が「労働」で塗り固められている
……つづく
pikarin