冬の湘南の海 平塚虹ケ浜

 

2023年12月31日

 終に大晦日になった。私の生活には、「け」と晴の区別がない。これはだらしない私の性格によるものだ。

 今日は午後二時に、娘と息子が来ることになっている。二人が揃って来たのは、ここに私が引っ越しして来た時で、今日が二度目だ。やはり私の心はウキウキしていた。ならば、お正月には誰の来る当てもないので、豪華なおせち料理を大晦日に振舞えばいいのに、私の用意したものは、カニと年越しそばと黒豆と中華春巻きとおでん。幸い二人は蟹好きで、おいしいおいしいと食べてくれたので、よかった。チリ産のズワイだった。タラバの方がおいしいとか言ってたけど、よく食べた。

 娘が批判がましく弟分の息子に言う。「来年還暦だけど、この年になるまで私はおせち料理というもの食べたことがないのよ。友達に言ったらびっくりされるわ」

 息子はのんびりした性格なので、「ふうん」と言ったか言わなかったか。

 ある時期から、私の同級生などが、二万円とか三万円とかのデパートのおせちを取り寄せ始めた。私は、「け」と晴の区別がないので、普段お金を使いすぎて、お金に余裕がないから、お節の広告の写真の中身を見て高すぎるとか思って注文する気になれなかった。かといって、料理する気がない私のお正月のお膳は、お雑煮だけ。 

  それのみがお正月を感じさせるものだった。

 娘に毎年のこと、非難されるのは痛かったけれど、三人寄れば笑い声も出、それぞれ夕方には帰って行ったけれど、楽しい大晦日だった。

 

2024年 元旦 

 111年目の中原淳一展」を横浜の『そごう美術館』に見に行った。元旦から地下食品売り場は人でごったがえしていたが、展覧会場は十人足らずでひどくすいていた。

 中原淳一がデザインした洋服が展示されていた。自分が着てみたいと思うものが一着あった。展示の浴衣は、どれもこれも着てみたいものばかりだった。デザインは大胆だが、色は落ち着いている。

 若いころ、お洒落に全然関心がなかった自分が、この年になって悔やまれる。そこそこお洒落に関心を持っている女性は、花に蝶々が群がるように、青春時代に素敵な男性を大勢惹き寄せただろうと思うから。

 化粧水もつけず、乳液もつけず、ファンデーションも、粉白粉もはたかず、朝、顔を洗っただけ、他人様から「お顔色が悪いけど病気?」とか言われて困るので、口紅だけ塗っていた私は、他人から見れば、唇お化けかも。八十五歳になる今まで、それを続けてきた。

 中原淳一の華々しいファッションの世界を目の当たりにすると、自分がいかに貧しい美の世界に生きてしまったかと、悔やまれる。

 展示されていた、東京芸術大學卒後の油絵もよかった。晩年の少年像の人形もよかった。

 一点一点説明を読みながら見て行ったので、相当に疲れた。帰りJR横浜駅の構内に入って、ほっと一息カフェで寛いでいると、西宮市にいる孫から「地震大丈夫だった?」と電話が入った。地下改札口に入ってすぐの所にある喫茶店では全然揺れなかった。平塚に帰るJR線も、遅れもなく走った。家に帰りついてテレビを見て、能登の悲惨な地震の様子を知った。

 私は二十九年前の阪神淡路大震災のことを思い出した。当時私達は尼崎に住んでいた。あれも一月の寒い時だった。夜明け前のまだ暗い時間だった。「ドドドッ」という音に飛び起き、「地震だ!」と叫んで布団を抜け出したとたんに、足元のタンスが布団の上に倒れてきた。危機一髪だった。その時はまだ夫も生きていた。夫はもう起きていて隣の部屋のこたつに入って本を読んでいた。だから二人とも倒れてきたタンスの下敷きにならず、怪我もなく助かった。あの地震の時のことを書くのは筆が進まない。もうやめよう。

 海中に断層が一杯あって、たびたび地震の被害が起こっている能登地方でも、も一度その地で、建て替えたり、補強したりして住み続けていこうと思うのは、どうしてだろう。いろんなしがらみがあって、そこを離れては住めないのだろう。それも、いついつ大地震があると決まっていたら、皆逃げ出すだろうけれど、来るかもしれないけれど、来ないかもしれない、一年後かもしれないけれど、百年後かも知れないとなると、皆は仕方なく住み続けるのだ。悲しい。

 

2024年1月2日(火)

 ああ、また続けざまに大きな惨事が起こった。夕方六時前、羽田空港で、日航機と海上保安庁の小型飛行機が衝突、炎上したのだ。奇跡的に日航機の乗客乗員合わせて三七九人が、炎燃え盛る中、全員無事に脱出できたのは、有難かった。一方、海保機の方の乗員五名が死亡し、機長のみが重傷を負いながら脱出できた。海保機は、地震で壊滅した能登地方に支援物資を運んでいく命を担っていたのだ。という事を考え合わせると、これも地震による被害という事ができる。地震がなければ、普段その時間にそんな飛行機が飛ぶことはなかっただろう。不幸が不幸を呼ぶ。常でないことが起こった時は、細心の注意が必要なのだ。元旦に続いて、暗い気持ちになった。

 

2024年1月3日(水)

 

 

 湘南に住んでから、箱根駅伝(東京箱根間往復大学駅伝競走)にハマってしまった。昨日(一月二日)朝、往路も見、今日の復路も見に行ってしまった。選手は、速い。あっという間に、走り過ぎてしまうので、つらつらと見る暇なんてない。別にどの大学を応援するというわけでもなかったが、フェイスブックの素晴らしい先輩U様がご自分の出身校の早稲田大学を応援している記事を読んで、あっ,息子も早稲田だったと、思い出して、応援しようとしたが、皆あまりにも速いので、肉眼で捉えられない。でも、ビデオに写っていた。

 選手が目の前を通る度に「頑張れ」と叫んだ。こんな叫びは、簡単だ。歌舞伎観覧の「成駒屋!」との声かけや、コンサートの「ブラボー」なんての掛け声は、教養が無ければ出来ない。選手が来る度に「頑張れ」と叫ぶのは、誰でもできる。私は、蛮声を張り上げて、叫んだ。頑張れっ!」と。気持ちがよかった!

 

2024年1月9日(火)

 今サークル活動に参加してやっているのは、唯一「ボイストレーニング」の会である。この会に参加しているのはおおむね六十歳以上の男女である。今日は、今年の初練習日だった。この会は午後一時から三時までなのだが、最初三十分、発声練習すると、その後、課題曲の二曲を全員で歌って、それが終わると今度は一人ずつ前に出てマイクを持ってみんなの前で歌うのである。これが難しい。最近の新しい歌なので、私のように天性の才能がないものは、かなり歌いこんでいかないと、歌えない。今月の課題曲は、「愛のままで愛を眠らせて」(五十川由紀)と「鴎の海峡」(杜このみ)である。今日は「愛のままで愛を眠らせて」を歌ったが、練習不足で先生がついて歌ってくれるという状態だった。どこか音を外し、リズム感もない自分なのに、五十過ぎてからヤマハの個人レッスンに通ったり、コーラスに入れてもらったり、特に歌を歌っていると気持ちがいいというわけでもないのに、それが晩年の唯一の稽古事になったのは、自分でも訳が分からない。まあいいか。今は一人暮らしなんだから、誰に遠慮もせず、夜中でも大声で歌えるから、歌っておこう。

 

2024年1月14日(日)

 今日はこの冬で一番寒い日だった。私と同じく東京で一人暮らしをしている同級生から、「今日寒くない?今日は寒いから一日中家でいる。こんなのが続いたら鬱になるわ」と、電話がかかってきた。「寒いよ、今日は一番寒い、私も一歩も外に出てないよ」と私は言った。こんな生活をしていると、私は歩けなくなるのではないかという心配がある。声は元気だ。電話で話すと元気そうねと誰もが言う。でも、外を歩くとよたよただ。息子や娘たちから見ると、こんな年取った母親はどう見えるのだろうかと思う時がある。哀れだなあと若かりしときの姿を覚えていて言うに言われない気持ちになっているのかな。私の母は六十七歳で亡くなったので、老いは感じなかった。

 あああ、こんなに年取ってしまって、と、気持ちが後ろ向きになることがある。そんな時は「今日も元気に生きて行こう!」と、声に出して唱えて、私はもろもろの消極的な気持ちを吹き飛ばすのである。

 明日もあさっても、背筋を伸ばして、「今日も元気に生きて行こう!」と、声に出して叫んで、私は生きていく。