家に帰ってきた。
職場には一日休みますとだけ伝えた。
これからどうするのかを決めなければ。
安静、と簡単にいってくれたが、有休足りなくなるかも問題が大きすぎて休む決心がつかなかった。
安静とはどれくらい大人しくしている必要がある状態なんだろう。
私の仕事はデスクワークだ。激しく動き回るような仕事じゃない。
職場は遠いけれどほとんどを電車に乗って過ごす。家も職場も駅近だ。さらに行きは始発駅だから必ず座れる。
ウォーキングはやめるとしても、仕事を休む必要はあるのだろうか。
結局、切迫流産とは診断されていない。
先生は、私の今の状態について、明確なことを何も言っていないに等しい。
切迫流産と検索すれば色々な情報が出てくるけれど、ただ出血した場合は?
普通に薬だけ飲んで出勤している人、休んでいる人、様々だ。
「困った」
悩みすぎて、キッチンの周りを意味もなくグルグルと歩き回った。
たかが有休と思われるかもしれない。されど有休なのだ。
妊娠を機に仕事を辞めるなんて選択肢は私にはない。
子どもが産まれるのだ、お金を稼ぐ必要性は増している。
だから、子どもは必ず保育園に入れる。私は働らく。
育休はMAXで3年取れるが、私の住んでいる地域は全国有数の保活激戦区で2歳なんて半端な年齢じゃ預けられないし、3歳を待ったとしても8、9月(子どもが産まれると思われる月)なんて半端な時期には預けられない。
となると、0歳児で保育園入園がマストだ。
子どもは保育園に預けた当初、よく風邪をひくという。年齢が低いほどその傾向は顕著だ。
そして、その度に親は保育園に呼ばれることになる。仕事をしている場合、有休を使って迎えにいく。
私の会社には一応、子どもの看護休暇なる、子どもが病気になった時専用の有休制度もあるものの、職場の先輩方から話を聞くと、それでは足りないのが普通らしい。よって、有休を使い切って対応することになるらしい。
あっさりと安静を言い渡してくれたものである。
そう簡単に休めはしないのに。
それとも働いていないとでも思っているのだろうか。
妊婦は主婦がデフォルトなのか?私の周りはほとんど専業主婦なんていないのだが。
まあ、医者の立場としては「休め」としか言いようがないだろうし、個人が抱える事情など自分で何とかしろって話だろうけれど。
出血なんてしてポンコツな私が悪いと言われればそれまでである。
みんな働きながらも産んでいる。
産休、育休取れて、出産しても同じところで働き続けられるくらいに制度が整っていることに感謝しろってところか。でも、医者に安静指示されて、妊婦が困り果てているようじゃ、制度が全然足りていない気がする。
つか、ポンコツなのか?
出血するしないなんてくじ運みたいなもんだろ。運が悪くてポンコツなら世の中ほとんどの人間がポンコツじゃい。
イライラしているところに、飛んで火に入る夏の虫、LINE通話の呼び出し音がなった。
携帯の画面には、MIKU(仮名)、の文字が表示されている。
ミクちゃんは職場で出会った友人の一人だ。今は退職し、教員免許を生かして、自宅で小学生対象の個人塾を経営している。昔はアンちゃん達グループで仲良くしていたけれど、退職した今はグループでのつながりは途切れ、一対一で仲良くする関係に変わっていた。
4ヶ月後に結婚式をする予定の新妻でもある。結婚式の話かな?と思い、私は電話に出た。
「けいちゃん、元気ー?」
フワフワした感じの声。ミクちゃんは声も性格もフワフワした感じの女の子だ。
「いや、あんまり。どうしたの?結婚式延期になったとか?」
コロナのこともある。さもありなんだ。
彼女は先日、コロナで結婚式をできるか不安になってきた、という旨のことを言っていた。私は彼女の結婚式に行く気で構えている。
しかし、いかんせん、この時期では人も呼びづらいだろうし、悩んでも無理からぬことである。
「いや、まだそこまで何も決まってないけど。やろうとは思ってるよ。話はなかなか進まないけどね。絵の方は進んでるかなーって思って」
「いや、そっちもあんまり……ミクちゃんのウエディングドレスが決まったら、そのドレスでイラストを描きたいと思ってるんだよね」
「ドレスかぁ。ドレスもなかなか決まらないんだよね。思うように試着に行けなかったりして」
「水彩画で描くっていうのは決まってるけどね」
私が彼女の結婚式に飾るウエディングボードを描くことになっていた。
絵を描くことは、いくつかある私の趣味うちの一つだ。
ちょうどいい、と思い、私は彼女に自分の妊娠と出血して安静を言い渡されたことについて話すことにした。
3ヶ月未満の妊娠報告は控えろ、という考えが一般的だが、誰かに相談しないとどうしていいかわからなかった。
彼女はグループとの付き合いが切れているし、アンちゃんについて心配する必要もない。しかも私より3つ年下でまだ不妊について悩む段階にもない。
悩みに対して解決策が出てくるかはわからないけれど、話を聞いてくれそうだった。
「あのさ、私、実は今妊娠しててさ……今7週なんだけど」
「え?え?今なんて?」
一度聞き直すのは彼女が驚きを表現するときにするやり方である。
相手を気持ちよくするために、彼女は常にオーバーリアクション気味なのだ。
「私、妊娠したんだよ。最近分かったんだけどね」
「はあーーーーーー?!おーーーーー……え?まじで、まじで」
「まじだよ」
「ふえー……よかったねえ。おめでとう」
今まで妊娠を報告してきた中で一番喜んでいそうな反応を彼女は返した。
おかげで私はこれから先の話を少しやりやすく感じた。
「あ、うん。それはよかったんだけど、ちょっと問題が……」
ミクちゃんが私の言葉を遮った。
「待って、待って、待って。実は今、私おかーさんの家にいるんだよね。今おかーさんのところ行くから」
「え?今実家なの?」
「ちょっとーー!!聞いてーーー。おかーさーん。けいちゃんがねえーー」
バタバタと足音が受話器から聞こえた。
もう私の言葉なんぞ聞いちゃいねえ。
その後、電話越しにミクちゃんの母親の声が聞こえると思ったら、電話の相手はすぐさま母親に切り替わった。
ミクちゃんとはその母親とも付き合いがあった。普段ほとんど使わないけれど、LINEも交換済みの仲だ。
一通りのあいさつと妊娠報告の後、電話の相手はミクちゃんに戻った。
「いやーほんと良かったねー」
「うん。まあ、初期は流産が多いらしいからこれからどうなるかわからないけどね」
「そうなの?」
「15%くらいは流れるらしい。報告でわかっている数の率だから実際はもっと高いかも。私もそんな若いわけじゃないし」
「いやいやいや、まだそんな歳じゃないでしょ」
「いや、私は高齢出産該当者だよ」
よほど早産にならない限り、産むときには35を超えていた。
しかし、私より3つ下の彼女には関係がないことだ。知らなくて当然だった。
「ほえー、もうそんなになるんだね」
「それで、まあ、それはいいんだけど。実はさ、出血しちゃって」
「え?待って、待って、どゆこと?!」
「パンツが真っ赤になるくらいの出血があったの。お医者さんからは安静にしてくださいって言われた。一応止血剤と子宮収縮止めがが出てるんだけど、安静ってどれくらいのことを言っているのかよくわからなくて」
「はあーーーーー?!」
「いやさ、だってさ。私の仕事はデスクワークだし、力仕事とかもそんなに多くはないし、休まないとダメなのかなって」
「お医者さんが安静って言うなら、安静でしょ」
「だからさ、安静ってどうすればいいの?」
「ちょっと待って。今おかーさんに聞いてみるから」
若干言外に、何言ってんだコイツ、という雰囲気を滲ませながら、彼女は自分の母親に私の状況を説明した。
その結果、私は休みを取ることを渋っていた自分を反省することになるのだった。
→続く