機動戦士ガンダムの続編として作られた、機動戦士Zガンダム。
でも、その作風は前作とは大きく違っていて、なんというか監督の怒りのパワーが込められているっていうのは有名な話。
そもそも、この頃の富野監督って、良くも悪くもブチ切れた時のパワーを原動力に作品を作っていた気がするんよね。
だから、その片鱗がZガンダムには特に色濃く見えるわけ。
主人公のカミーユ・ビダンはナイーブな少年ではあるんだけど、同時に些細なことで直情的にキレて手が出る危うさも持っている。
前作主人公のアムロが内向的な陰キャだったのとはえらい違い。
他にも様々なキャラクターが出て来るんだけど、それらの多く、あるいは組織全体が、なんとも色々なリアル世界の象徴というか、皮肉を込めた代物になっているのは興味深いねぇ。
Zガンダムには強化人間っていう人工的なニュータイプが出て来るんだけど、彼女達の最後はどれもこれも悲劇的なもの。
そもそも監督はニュータイプを『戦うための超能力者』みたいには作っていなかったのに、あの当時からして『ニュータイプは最強!』みたいな強さでしか尺度を測らない者達のネタにされていたわけで……。
そういう風潮に対して、「そんなに言うなら最強のニュータイプってやつを作ってやったぞ! でも、戦いにしか能力を使えなくされた者の末路なんて、碌なもんじゃねぇぞ!」という怒りを込めて、彼女達のラストを悲惨なものにした。
また、前作では小さな子どもだったカツ・コバヤシが少年に成長しているんだけど、こいつが完全なトラブルメーカー。
確かにカツはニュータイプとしてはやや非凡な部類に傾いていたかもしれないけれど、精神的に未熟過ぎる上に、アムロやカミーユやシャアほど非凡ってわけでもない。
これは「アムロに憧れて自分達を英雄と重ねる痛いガノタ」への皮肉とも言われているね。
だから、主人公がやったら成功しそうなことも、カツがやると軒並み碌な結果にならない。
あれは劇中の主人公補正とか、後はアムロやカミーユといった超人的な才能を持った者だから許される話で、リアルで大した力も持っていないオタクがイキったところでカツみたいな末路を迎えるだけという暗示とも取れるんよね。
登場する組織にしても、最後の最後で登場するハマーン・カーン率いるネオ・ジオンなんてのは、もはや皮肉の最たるもの。
あの当時からしてZガンダム自体が「ファーストガンダム以外は認めない! そして腐った連邦ではなくジオンこそ最高なんだ!」みたいな、厄介オタクから批判されることも多かったらしい。
そういう連中に対して、既に過去の産物となったジオンなんてものを持ち出して、戦場を引っ掻き回す危険なテロリストというポジションでアクシズを描写することで、やはり皮肉を描いている。
他にも、やりたくもない仕事をさせられている自分をクワトロ・バジーナ(シャア・アズナブル)に投影し、出資者であるアナハイムやルオ商会に対して文句を言わせたり(玩具売上しか興味のないスポンサーに対する皮肉)、本人の意思とは関係なしに政治の表舞台に立たせ、道化を演じるような立ち回りをさせたりもしている。
そんなシャアは、最後にハマーンとの決戦に敗れるものの、愛機である百式からは辛くも脱出。
手足をもがれて宙を漂う百式の姿は「こんな風に(手足もがれて)何も自由にできねぇ仕事なんざやってられるか! 俺はもう逃げるぜ!(無人のコクピット)」という監督の意思表示でもあるとか……。
まあ、その一方で「見ていろよ……今に逆襲してやるからな……」と、腹の底で思っていたのかもしれないんだけどね。
ラストで主人公が悲惨な終わり方するところ含め、勝手なニュータイプ論を語る者、時代錯誤な考えで他者を批判する厄介オタク、そして金儲け優先のスポンサーの全方位に対しての怒りが込められているZガンダム。
終盤、カミーユが怒りのパワーから爆発的な戦闘力を発揮する(そして最後は壊れちゃう)ことからも、監督のそういう想いが見て取れると思うのは俺ちゃんだけなんかな?