極私的洋楽生活 -18ページ目

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こんばんは、豚袋ライトです。
 

 

梅雨が明けたとたん、ものすごい暑さが襲ってきました。夏本番といったところですね。ここ数日、夏風邪をひいてしまったようで休養していました。せきとのどの痛みと微熱と倦怠感でプチダウン。ようやく具合もよくなったという感じです。夏風邪が流行っているようですので、皆様もお気をつけください。
 

 

風邪で寝込むとよく見る夢があります。自分でもちょっと変だなぁと思うのですが、石を積み上げて作った灯台のような中を、ろうそくを持って螺旋階段を永遠に上り続ける夢です。高いところから落ちるとか、何か襲ってくるとかそうした結果が出るとまだいいのですが、ひたすら上り続けるだけです。そしてフェードアウトして目が覚めます。変ですよね^^?
 

 

この夢のBGMにふさわしいのがブラック・サバスなんです。何となくです。あのズルズルと引き摺られるようなテンポとリフとギターの音色が、まさにマッチするのです。だから熱が出たあとはなぜかブラック・サバスを聴きたくなる、という変な習慣があります。
 

 

そんなわけで、今回は自分が最初に聴いたサバスの5枚目のアルバム「血まみれの安息日」をとりあげます。
 
 
このアルバムを聴いたのは1977年頃だったと思います。ラジオでこのアルバムのタイトル曲が流れました。

 
以前にパラノイドの記事を書いた時にも触れましたが、この曲で初めてサバスを体験。低音でひたすら引き摺るようなリフ、オジーのハイトーンボイス、ドラマティカルな曲構成。この曲がえらく気に入ってサバスを聴くようになり、初期のアルバムを遡って聴いたわけですが、聴いてわかった事は、この5枚目はかなり聴きやすいアルバムだという事でした。
 

 

ドロドロした中にもどこかファミリアなメロディがあったり、シンセ使いでシンフォニックな処理をしたり。サウンドもユニゾン音をフィーチャーしたり、脱黒魔術イメージみたいな狙いもあるんじゃない、みたいな。
 

 

 

しかしすごいタイトルです、特に邦題が原題以上に怪しい。「血まみれ」の「安息日」ですからね、何と言っても。
 

 

ところで「安息日」って何?と思うじゃないですか。チュウボウだった自分も疑問に思い、調べましたね。確かキリスト教やユダヤ教の教義によるところの、何も行動を起こしてはいけない日の事だったと思います。宗教との関係の薄い人間にとって、教義とか戒律だとかの世界は想像もできない未知の世界。そんな日が血まみれになっちゃうんだから、何があったんだろう、なんていろいろ想像して楽しんでいましたね。
 

 

アルバムも好きでよく聴いたのですが、後に聴いたセカンドやサードの方がより純度の高いヘビィネスがあり、結果このアルバムよりもそちらを聴くようになりました。でも最初のサバス体験という事で思い入れがあります。
 

 

一作目から順番に聴いてみると、このアルバムは多分マンネリからの脱却を狙ったのがよくわかります。単なるヘヴィネスの追及から、シンセの大胆な導入によってより表現力を高めようとしたのでしょう。全体的にそれとなく、時代の一方の流れであった「プログレ」を志向した跡が残像として残っているような感じ。

 
しかしそれはブラック・サバスの役割ではないと誰もがそう思うと思うのだけれど。だからでしょうか、初期のアルバムに比べて評価がいまいち的な発言が多いですね。けれども「新しいサバス」を開拓するんだ的な思いはアルバムを通じて十分伝わります。ゲストにイエスのリック・ウェイクマンを迎えたあたり、その象徴的なところですね。
 

 

最後にそのリック・ウェイクマンが参加した曲を聴きながら締めたいと思います。
 

 

それでは、また。
 


 

 
 
 
 
 
 
 

 

 

 

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豚袋でございます。
 

 

雨がことのほか嫌いです。雨の何がいやかと言えば、やっぱり洋服や靴に困る事です。特に靴。スーツやジャケスラ等割ときちんと仕事モードな格好をしているので、靴はやっぱり革靴しか履かず、しかもほとんどが革底です。雨用にはラバーソールが良くて、しかも最近は防水皮革もあるようなのですが、何となく好きじゃないんです。革底にミンクオイルを塗って、表面には防水スプレーしてとささやかな抵抗をしていますが、やっぱり土砂降りには意味がない(笑)早く雨の降らない季節を迎えたいというのが本音です。願いが通じたのか(豪雨の被害にあわれている方には申し訳ないですが)そうこうしているうちに、どうやら関東地方は梅雨明けを迎えたようです。
 

 

さて、そんな梅雨明けの爽やかな気分にふさわしい、爽やかなアルバムを取り上げたいと思います…というのが普通の文脈なのでしょうが、そのあたりが天邪鬼な豚袋なので、思いっきりダークなアルバムにしてしまおうかと思います。バウハウスの「マスク」を取り上げたいと思います。よろしくお付き合い下さい。
 

 

バウハウスが世に出たのは1979年。英国ではパンクの狂騒が終息を迎え、ポストパンク、ニューウェイブの名の下に音楽ジャンルの解体と再融合が進み始めた元年でもありました。PIL、ポップ・グループ、キリング・ジョーク、ギャング・オブ・フォー等々をはじめとし、ものすごい数のバンドが新しい音楽を模索し始めた胎動期であり、音楽のタブーがなくなりつつあった「何でもアリ」な時代でもありました。彼らのファーストアルバム、「イン・ザ・フラット・フィールド」はそうした時代の背景の中で、重苦しく沈鬱でノイジーな独自の世界観を放っておりました。演劇的要素やルックスからのインパクトとも合わさり、所謂「ゴシック・ロック」の元祖とも言われるひとつの様式を持っていたように思います。そんな彼らが、もう少しわかりやすいアプローチでその世界の敷居を下げたとも言えるアルバムが、このセカンドアルバム「マスク」ではないかと思います。

 

 

バウハウスというと、ファーストのタイトル曲「In The Flat Field」かこの曲を思い出します。そのくらい私の中では代表曲なのです。暗くリズムを刻むダニエル・アッシュのギター、ドタドタと呪術のようなドラム、纏わりつくようなマーフィーのボーカル。しかしメロディーは寂寥感と哀愁を感じさせるキャッチーなもの。そのアヴァンギャルド性が先行して語られることの多いバウハウスの中で、こんなにもメロディアスな曲があるのが意外でした。
 

 

バウハウスはよくポジティブ・パンクと言われます。そもそも私はポジティブ・パンクの意味がわからないんです。パンクは精神としてアンチなものになるわけで、現状に対して否定が先にありき、の音楽です。ポジティブというよりネガティブが根源だと思うので何故?という感じです。考えてみたら調べたことがなかったので、これを機会にしらべてみました。結果明確に規定したものは何もなく、イギリスのメディアが勝手にでっちあげた実態のないムーブメントの呼称であったようです。退廃的なテーマとニヒリズムやロマンティシズムを背景とした「ゴシック・ロック」の流れの中に位置しているもので、パンクが終わりハードコアに分化していくなかで、「外に向かうパワー」のハードコアパンクに対して、「ひたすら内に向う」音楽性とシアトリカルなステージを特徴としたものをポジティブパンクと呼んだようです。「ポジティブ」の意味は音楽に対してでなく、イギリスのメディアにとって協力的であったことを指しているとの事らしいです。実にくだらない呼称なので、もう今後使う事を自分は封印したいと思います(笑)

 
退廃的耽美学とシアトリカルと言えば、グラムロック、特にデヴィッド・ボウイのそれを想起します。パンクという流れよりもむしろグラムから派生した面がバウハウスは強いと思います。実際「ジギー・スターダスト」のカバーもしていますし、T-Rexの「テレグラム・サム」のカバーもしており、グラムに強く影響された事は明白でしょう。ダークサイド・オブ・グラムという表現がぴったりくるような気がします。また、このアルバムを聴くと世間で言われているところのティピカルなゴスイメージは希薄で、かなり様々な音楽要素を取り入れて試行しているように思います。特にこの曲「キック・イン・ジ・アイ」のファンキーなグルーブ感だとか、他にもベルベッツ風のサイケな朗読的な曲があったり、ダブ・レゲエ的な萌芽があったりとかなりバラエティ豊かなキーワードが見え隠れします。
 

 

ファーストの破天荒な攻撃性と解体性は大分落ち着いた感じですが、音楽的にバラエティに富んでいる分このセカンドはバンドとしてのまとまりと進化を感じさせるようになっています。時代背景としてテクノ・エレポ前夜という時期でしたが、ヨーロッパ独特の哀愁や憂鬱をテクノ的ビートと上手く融合させているのも特徴的です。どう切り取ってもマーフィーのボーカルとアッシュのギターがある限りバウハウスになってしまうところがやはり「センス」というものではないでしょうか?今聴くとテクノ的なサウンドのエフェクト処理はちょっと古い気もしますが、30年近く前という時代を考えたら度外視していい事だと思います。そして彼らの魅力はミステリアスなヴィジュアルイメージと、アートを感じさせる感性でもありましょう。この不思議な感じのジャケット・アートワークがギターのダニエル・アッシュの手によるものであるのはその感性の象徴でもあると思います。
 

 

最後にマーフィーののたうちまわるようなボーカルと、やはり堕ちていくような重いループサウンドが印象的なタイトル曲を聴きながら締めたいと思います。それでは、また。
 


 

 
 
 
 
 
 
 
 

 

 

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こんばんは、豚袋ライトです。ライト記事もひさしぶりな感じです。

 

 

先日ロキシーミュージックの記事をアップしましたが、その際に思いました。ブライアン・フェリーの歌唱法って独特のヘタウマ感があるじゃないですか。これはかなり他のミュージシャンに影響と自信を与えているように思うんですね。この歌唱法を進化させて、さらに影響をグンと広げた人がデヴィッド・シルビアンではないかと思うんです。私はジャパンというバンドが好きでした。彼らの活動期間は5年くらいしかなかったけれど、その5年間の進化と成長ぶりには目を奪われ、特にそれはシルビアンの表現力の進歩と同期していました。
 

 

そんなわけでジャパンを今回は取り上げてみようかな、と思ったわけですが、ジャパンでもっとも素晴らしいアルバムは何か、という問いを投げかけるに、その答えはほぼ7割方が恐らくラストアルバムの「ブリキの太鼓」を挙げる方が多いのではないでしょうか?これ以上はジャパンとしては作れないと本人たちが思ったほど完成度が高く、解散の理由でもありましょう。その事に異論はないのですが、私はやっぱりリアルタイム体験者としてデビューの鮮烈さが忘れられません。
 

 

今回は彼らのデビュー作「果てしなき反抗」を取り上げてみたいと思います。

 

 

 

 

うおぉーなんて美しいのだろう、デビシルさま^^男の自分の目からみてもタダものではないと思う。動画にもテロップで出ていますが、当時の日本での売り方は日本の婦女子から火がついたクイーンに続く、ルックスを全面に出したまさにヴィジュアル系のはしり。しかもガイジンなのにジャパンを名乗る親近感。この妖艶さ、グラムが更に進化した退廃美が、日本でのアイドル的な人気を勝ち取るのはあっという間でした。

 

 

多分音に興味を持った人は少なかったと思いますが、私は当時から「音」が好きでした。決して演奏が上手いという事はないですが、当時はパンクの勃興期。テクはどうでもいい風潮もありました。でもこの音は明らかにファンキーな、粘っこいグルーヴ感。今で言うハードロック×ファンクのミクスチャー。アイドル路線とは異質のクールなダンスミュージックではないか。ちょっとシンセの音が邪魔だけど^^デビシルのちょっとセクシーハスキーな声も相まってなかなかクセになる要素満載でした。
 

 

 

 

しかし邦題の付け方はひどかったな。原題の「Adolescent Sex」は直訳すると「思春期の性」。どこでどうなると「果てしなき反抗」になるのだろう。他にも原題無視の「奇しい絆」とか「美しき愛欲」^^;「愛の回転木馬」に至ってはそれはどんなプレイなの?って問いたくなるような酷さ(笑)でも今聴きなおしても、なかなかの力作だと思うし、結構先進的な音を志向していたのだと思います。また、ルーツミュージックのそこはかとない要素や、バーブラ・ストライサンドのRain on My Parade」カバーするなど、音楽的な広がりももともと持っていたことが伺いしれます。

 

 

本国イギリスではまったく人気はなく、日本ではいきなり武道館。典型的な「ビッグ・イン・ジャパン」でも日本のファンの耳は確かだった。結局クイーン、チープトリックに負けない世界でのその後の成功に寄与した訳だから。

 

 

3枚目の「クワイエット・ライフ」あたりからエレクトロ耽美路線で完成度の高い音楽性になったけど、このやんちゃな1枚目と2枚目は別の世界観があって好きです、デビシルは3枚目以前は否定してるようですが。エレクトロ耽美は今聴くと古さを感じるけど、このファーストは巡り巡って今聴くのは逆に新鮮だと思います。なぜか評論家の皆様からは評判がよろしくないみたいですけどね。

 

 

彼らの後にはニューロマンティックという潮流ができ、デュラン・デュラン等がポップ尖鋭化してフォロワーとなりました。また、デビシルの歌唱法とルックスは耽美的退廃美の名のもと、多くのヴィジュアル系バンドの規範となりましたとさ。めでたし、めでたし。

 

 

それでは、また。