残照。
人間は生まれた時から少しずつ死に続ける。
生とは死にゆくプロセスに他ならない。
直面する現実から目を逸らすために、
人は快楽に走り、信仰に走り、貨幣に走る。
流れゆく刻は己を蚕食する波のようなものだ。
波頭に立ち続ける者は激しい人生を送るだろう。
遠ざかる者は味気ない人生に屈するだろう。
価値あるものはもう何も残っていない。
それは死から生ずるのに、世界が死を排斥するからだ。
刹那の存在であることを感じる者は、
己の欲望を拡大しようとする。
愛されることを望むのに、愛することは望まないのだ。
そこに横たわる深淵から目を逸らして。
いつか輝きを喪う太陽に似て、
事実は全てを照らすだろう。
それは残照のように。
生とは死にゆくプロセスに他ならない。
直面する現実から目を逸らすために、
人は快楽に走り、信仰に走り、貨幣に走る。
流れゆく刻は己を蚕食する波のようなものだ。
波頭に立ち続ける者は激しい人生を送るだろう。
遠ざかる者は味気ない人生に屈するだろう。
価値あるものはもう何も残っていない。
それは死から生ずるのに、世界が死を排斥するからだ。
刹那の存在であることを感じる者は、
己の欲望を拡大しようとする。
愛されることを望むのに、愛することは望まないのだ。
そこに横たわる深淵から目を逸らして。
いつか輝きを喪う太陽に似て、
事実は全てを照らすだろう。
それは残照のように。
道化作家の自虐的讃歌
歴史があんまり重たいから
みんな言い訳ばかりを呟く
何もかも他人のせいにして
それが大人なんだと言う
自分の弱さを犠牲にして
偽りの強さが溢れてる
俺が嘘をつくのは
あいつが嘘つきだからなのさ
俺が誰も信じないのは
あいつに裏切られたからさ
そんな風に生きてみたって
結局何も変わりはしない
得をするのは悪人ばかりさ
そう僕も言い訳を呟く
書くことについて考える。
書くことは何なのだろう、とよく思う。
書きながらよく考える。
道化作家にはそれしか作業がないのだから。
いつだって文字は死んだ言葉にすぎない。
誰かと向かい合って話をする時には、
人は全身で会話をする。
それは目線であり、身振りであり、ニュアンスであり、
その人との関係であり、匂いであり、声であり、感覚だ。
文字でも伝えることはできる。
しかしそれは限られた領域だ。
読むことは認識のごく狭い範囲に依存している。
文字で感情を伝えることはとても難しい。
それは時に誤解を生む。
本を読むことが勉強のように思われ始めたのは何故なのだろう?
それは行間を読む力を人々が喪ったからだと思う。
絶え間なく流れ込む視覚的な情報。
本より漫画の方が面白い。
そのことを否定はしない。
しかし情報が多いほど、想像力が枯渇するのも事実だろう。
想像しなくても、そこに描かれているのだから。
人と人との関係。
人と物語との関係。
両者は違うのだろうか。
会えば会うほどわからなくなることがある。
読めば読むほど面白くなることもある。
ネットの匿名性。
メールの手軽さ。
携帯の普及。
携帯はまるで現代の十字架のようだと思う。
誰かに祈りを届けるためのものなのか、
それとも背負ってしまったものなのか。
届かない感情を書き連ねることは、
単に自己満足としての欲求の解消なのだろうか。
伝わるように書けないことは、
いつも自分の所為だとはわかっていながら。
リビドー(心的エネルギー)の対象としてのエクリチュール(書くこと)。
それはナルシシズムとして。
或いは対象への攻撃として。
書くことは心を落ち着ける。
自分の心を少しずつ殺して、
文字にするのだから。
詩人は死人になる。
死人に口はなくとも、文字は墓碑銘のように残される。
----------------------------
道化作家は書き続けるだろう。
ネジを巻かれている間だけ。
ついているのが背中なので、
ネジを巻く人の顔はいつも見えない。
書きながらよく考える。
道化作家にはそれしか作業がないのだから。
いつだって文字は死んだ言葉にすぎない。
誰かと向かい合って話をする時には、
人は全身で会話をする。
それは目線であり、身振りであり、ニュアンスであり、
その人との関係であり、匂いであり、声であり、感覚だ。
文字でも伝えることはできる。
しかしそれは限られた領域だ。
読むことは認識のごく狭い範囲に依存している。
文字で感情を伝えることはとても難しい。
それは時に誤解を生む。
本を読むことが勉強のように思われ始めたのは何故なのだろう?
それは行間を読む力を人々が喪ったからだと思う。
絶え間なく流れ込む視覚的な情報。
本より漫画の方が面白い。
そのことを否定はしない。
しかし情報が多いほど、想像力が枯渇するのも事実だろう。
想像しなくても、そこに描かれているのだから。
人と人との関係。
人と物語との関係。
両者は違うのだろうか。
会えば会うほどわからなくなることがある。
読めば読むほど面白くなることもある。
ネットの匿名性。
メールの手軽さ。
携帯の普及。
携帯はまるで現代の十字架のようだと思う。
誰かに祈りを届けるためのものなのか、
それとも背負ってしまったものなのか。
届かない感情を書き連ねることは、
単に自己満足としての欲求の解消なのだろうか。
伝わるように書けないことは、
いつも自分の所為だとはわかっていながら。
リビドー(心的エネルギー)の対象としてのエクリチュール(書くこと)。
それはナルシシズムとして。
或いは対象への攻撃として。
書くことは心を落ち着ける。
自分の心を少しずつ殺して、
文字にするのだから。
詩人は死人になる。
死人に口はなくとも、文字は墓碑銘のように残される。
----------------------------
道化作家は書き続けるだろう。
ネジを巻かれている間だけ。
ついているのが背中なので、
ネジを巻く人の顔はいつも見えない。
聖と性と生について考える。
徹夜明けの頭で考えてみる。
生とは何か?生を感じる時とはどんな時か?
語源的に言えば、「存在(existance)」と「恍惚(extacy)」は同じらしい。
「自分の存在を感じるのは、恍惚の瞬間である」とするなら、
人がもっとも恍惚を感じるのはどんな時か?
ほとんどの人が、それは性交の瞬間であると答えるだろう。
生は性に繋がる。
最古の職業が神殿娼婦であったように、性は聖なるものとして崇められていた。
性は聖に繋がる。
未開社会においては供犠の最高潮、犠牲獣の死の瞬間に、
参加者全員が恍惚と一体感を感じていたという。
生は聖に繋がり、死に繋がる。
性交の絶頂においてもまた、人は自らの身体の激しい消耗を覚える。
ゆえにそれは小さな死に例えられるほどだ。
性もまた聖と死に繋がる。
現代社会は死を排斥しようとする。
死者は人々の目から覆い隠され、墓地は僻地へと遠ざけられる。
現代社会は聖を排斥しようとする。
政教分離を唱えているのは日本だけだが、
宗教と聞くと人々はなぜか嫌悪感を覚える。
現代社会は性を排斥する。
性はどこか闇の匂いをまとったものとして、社会制度として認知されない。
そのために性はどこか歪み、毒々しい花のように咲き乱れる。
聖と性の排斥は生の排斥に繋がる。
生者も死者と同じように排斥される。
抑圧された人々は新興宗教に走り、性風俗に身を投じ、叶わぬ時は自ら命を絶つ。
貨幣が全てを媒介する。
聖と性の開放が叫ばれた時代があった。
ルネサンス。
その反動としての主知主義の台頭。
現代社会の登場。
カフカの城門の前で現代人は立ち尽くす。
歪んだ鏡像を眺めながらゴドーを待つ。
考えることは病だとインディアンの酋長は言った。
ツイアビという名の、ネイティブアメリカン。
彼はまだ20世紀の初頭にヨーロッパを旅した。
彼は白人たちを「パパラギ」と呼んだ。
天から降ってきた人たち、と。
考えることは病だろうか?
道化作家は考える。
醜く歪んだ鏡像の前で。
性を聖なるものとして解放するのか、
聖が性的なものを抑圧するのか。
しかし現代社会はその双方を排斥しようとしている。
エロス(生)とタナトゥス(死)の相克にフロイトは人間を見た。
エロティシズムとは死の瞬間まで生を讃えることだとバタイユは言った。
サドが性の放縦を極限まで開花させた時、
そこにはなぜか無機的なスポーツのようなものが残った。
道化作家は考える。
激情に翻弄されながら、束の間の静寂の時に。
-------------------------
pierrot-ecrivan(ピエロ・エクリヴァン)とは、
有名な自動人形(オートマタ)の名前だ。
彼はネジを巻かれ、その間だけ、物思いに耽りながら手紙を書く。
まるで生きている人間のように。
誰に宛てた手紙なのか、それが知りたいものだと思う。
生とは何か?生を感じる時とはどんな時か?
語源的に言えば、「存在(existance)」と「恍惚(extacy)」は同じらしい。
「自分の存在を感じるのは、恍惚の瞬間である」とするなら、
人がもっとも恍惚を感じるのはどんな時か?
ほとんどの人が、それは性交の瞬間であると答えるだろう。
生は性に繋がる。
最古の職業が神殿娼婦であったように、性は聖なるものとして崇められていた。
性は聖に繋がる。
未開社会においては供犠の最高潮、犠牲獣の死の瞬間に、
参加者全員が恍惚と一体感を感じていたという。
生は聖に繋がり、死に繋がる。
性交の絶頂においてもまた、人は自らの身体の激しい消耗を覚える。
ゆえにそれは小さな死に例えられるほどだ。
性もまた聖と死に繋がる。
現代社会は死を排斥しようとする。
死者は人々の目から覆い隠され、墓地は僻地へと遠ざけられる。
現代社会は聖を排斥しようとする。
政教分離を唱えているのは日本だけだが、
宗教と聞くと人々はなぜか嫌悪感を覚える。
現代社会は性を排斥する。
性はどこか闇の匂いをまとったものとして、社会制度として認知されない。
そのために性はどこか歪み、毒々しい花のように咲き乱れる。
聖と性の排斥は生の排斥に繋がる。
生者も死者と同じように排斥される。
抑圧された人々は新興宗教に走り、性風俗に身を投じ、叶わぬ時は自ら命を絶つ。
貨幣が全てを媒介する。
聖と性の開放が叫ばれた時代があった。
ルネサンス。
その反動としての主知主義の台頭。
現代社会の登場。
カフカの城門の前で現代人は立ち尽くす。
歪んだ鏡像を眺めながらゴドーを待つ。
考えることは病だとインディアンの酋長は言った。
ツイアビという名の、ネイティブアメリカン。
彼はまだ20世紀の初頭にヨーロッパを旅した。
彼は白人たちを「パパラギ」と呼んだ。
天から降ってきた人たち、と。
考えることは病だろうか?
道化作家は考える。
醜く歪んだ鏡像の前で。
性を聖なるものとして解放するのか、
聖が性的なものを抑圧するのか。
しかし現代社会はその双方を排斥しようとしている。
エロス(生)とタナトゥス(死)の相克にフロイトは人間を見た。
エロティシズムとは死の瞬間まで生を讃えることだとバタイユは言った。
サドが性の放縦を極限まで開花させた時、
そこにはなぜか無機的なスポーツのようなものが残った。
道化作家は考える。
激情に翻弄されながら、束の間の静寂の時に。
-------------------------
pierrot-ecrivan(ピエロ・エクリヴァン)とは、
有名な自動人形(オートマタ)の名前だ。
彼はネジを巻かれ、その間だけ、物思いに耽りながら手紙を書く。
まるで生きている人間のように。
誰に宛てた手紙なのか、それが知りたいものだと思う。
