前回の続きです

 

〇ロマン派

・シューベルト Schubert
意味:ドイツ語で「靴職人(仕立てる人)」
Schuh(靴)+ würhte(作る人)
もし日本名なら:沓澤、靴田

現代のドイツ語で靴屋は「Schuhmacher(シューマッハー)」と言いますが、シューベルトはその古い形にあたります。

 

 

・ウェーバー Weber
意味:ドイツ語「織工(布を織る人)」
weben = 織る ・-er = ~する人
もし日本名なら:服部、織田

 

 

・ロッシーニ Rossini
意味:イタリア語「rosso(赤)」に由来(=赤い人の家系)
rosso = 赤 ・-ini = 小さい/子孫(家系)
もし日本名なら:赤井

 

 

・シューマン Schumann
意味:ドイツ語「靴職人」
Schuh = 靴 ・mann = 人
もし日本名なら:沓澤、靴田

語源はシューベルトと同じです

 


・メンデルスゾーン Mendelssohn
意味:「メンデルの息子」
Mendel = 人名(ヘブライ語系) ・-sohn = 息子

 

メンデルスゾーンはユダヤ人ですのでイディッシュ語が語源であると言われています。

Menachem(מנחם) = 慰める人・慰める者 

イディッシュ語で縮小形 ・→ Mendel

「小さな慰める人」

もし日本名なら:小安

 

 

・ショパン Chopin
意味:ポーランド語「Chop(農民・小作人)」に由来

chop = 農民階級の人

 

またショパンは父方がフランス系です。フランス語の Chopin は、古フランス語の単位(液体測量の「ショピーヌ」)や、あるいは「一口飲む(chopper)」といった言葉に由来する可能性もあります。


もし日本名なら:作田、田作、小作、田中、一口

 

 

・ヴェルディ Verdi
意味:イタリア語「verde(緑)」の複数形
verde = 緑 ・-i = 複数(家系)
もし日本名なら:緑川

 

 

・リスト Liszt
意味:ハンガリー語「list(粉・小麦粉)」に由来(有力説)※他説あり
list = 粉
もし日本名なら:粉田

 

 

・ワーグナー Wagner
意味:ドイツ語「荷車職人/馬車職人」

Wagen = 車・荷車 ・-er = ~する人

荷車を作る人、または運ぶ人

もし日本名なら:車田、輪田

 

 

・ブルックナー Bruckner
意味:ドイツ語「橋に関係する人」

Brücke = 橋 ・-ner = ~に関係する人

橋の近くに住む人、橋の管理人・通行税徴収者

もし日本名なら:橋本、橋下

 

 

・ブラームス Brahms
意味:Braam = 茨、エニシダ(低木) -s = ~の子、~の家系

この意味では日本名は茨田、 茨木

 

または人名「Abraham(アブラハム)」に由来する説もあり、

Abraham(ヘブライ語)= 多くの民の父→ 短縮形 Brahm / Brahms

「アブラハムの子孫」

・av / ab(אב) = 父 ・hamon(המון) = 多数・群衆 

 ab + hamon = 多くの民の父

元の名前のAbram(アブラム)は高い父、高貴な父という意味だった。一神教の創始者

もし日本名なら:象徴的には藤原、直訳的なら源、中臣、大家、根本

 

ブラームス自身が語った「元々の苗字は Brahmst だった」という点も、この説を補強します。ドイツ北部では名前の末尾に -t や -st を付加して強調したり、特定の家系を指し示したりする方言的特徴が見られるため、アブラハム由来の名前がその土地に定着した形と解釈できます。

 

 

・フランク Franck
意味:「フランク人(民族名)」

Frank =  自由な人(free man)、フランク族(ゲルマン民族)

*槍を持つ人という説もある

もし日本名なら:日本名にしずらい。直訳的には自在野?自由川?槍田?

 

 

・マーラー Mahler
意味:ドイツ語「粉屋(製粉職人)」

mahlen = 挽く(粉にする)

穀物を粉にする職業

もし日本名なら:粉屋

 

 

・プッチーニ Puccini
意味:人名 Puccio に由来する家系名

Puccio = 人名(短縮名) ・-ini = 子孫・一族

「プッチョの一族」

Puccio は: Iacopo(ヤコブ) → 愛称(Puccio)

「かかとをつかむ者」転じて奪う者・後から追い抜く者

ヤコブはユダヤ民族の直接の先祖

もし日本名なら:象徴的には藤原、源、平

 

ヤコブはイスラエル民族の祖であり、日本における源氏・藤原氏のような大規模な血統の起点に相当します。

 

 

・シュトラウス Strauss
意味:ドイツ語「花束」または「ダチョウ」、または「争い・闘争」

Strauß =花束(主)/鳥(副)

紋章・あだ名由来

もし日本名なら:花束、鳥山、戦場、物部

 

 

・チャイコフスキー Tchaikovsky
意味:「カモメ(または水鳥)に関係する土地の人」

chaika(ロシア語)= カモメ ・-sky = ~の出身

👉「カモメの地の人」

もし日本名なら:鳥海

 

 

〇国民楽派

・グリンカ Glinka
意味:スラヴ語「粘土・土」に由来

glina = 粘土・土

「土の人」「粘土の土地の人」

もし日本名なら:土田

 

 

・バラキレフ Balakirev

意味:テュルク語系の人名に由来する姓

balak = 子供(テュルク語系) ・-ev = ~の子

「子供(若者)の家系」

もし日本名なら:若田

 

 

・ムソルグスキー Mussorgsky
意味:祖先のあだ名「Musorga」に由来

musor(ロシア語)= ごみ・廃棄物

「(あだ名)ごみに関係する家系」

しかしMusorga は確定語源ではなく「湿地・地名」説もあります。

musorga = 混乱・騒ぎ → 口うるさい人・不平家という説もあり。
・-sky = ~の土地・家系

もし日本名なら:塵田、湿田

 

英語版のwikiにこのことが詳しく書かれています。

 

ムソルグスキーは友人や家族への手紙の中で「ゴミ」との関連性を巧みに利用し、いつも自分の名前を「 Musoryanin 」 (おおよそ「ゴミの住人」という意味)と署名していました。この不名誉なイメージを避けるために綴りが変更されたようです。

屑(くず)→久豆・葛・九頭・国栖や塵(ごみ)→五味・古味・吾味みたいな感じでしょうか・・・・

 

 

・ボロディン Borodin
意味:人名または地名 Boroda に由来

boroda(ロシア語)= ひげ

「ひげの人」「ひげの家系」

・-in = ~の子

もし日本名なら:髭田

 

 

・コルサコフ Korsakov
意味:ロシア語「korsak(キツネ)」に由来

korsak = キツネ

「キツネの人」「キツネの家系」

・-ov = ~の子

もし日本名なら:狐田

 

 

・スメタナ Smetana
意味:チェコ語「クリーム(乳脂肪)」

smetana = クリーム

乳製品に関係する名前(職業・あだ名)

もし日本名なら:酪田、乳田

 

 

・ドヴォルザーク Dvořák
意味:チェコ語「小さな農場の人」

dvůr = 農場・庭 ・-ák = ~の人「農場の人」

またdvůr は「中庭」や「領主の館(宮廷)」も意味します。単なる農夫というよりは、屋敷の管理人や邸宅に仕える人というニュアンスが強い名字です。

もし日本名なら:農田、庄田

 

 

・シベリウス Sibelius
意味:地名 Sibbeに由来

Sibbe = 地名(・-ius = ラテン化語尾

「Sibbeの土地の人」

 

Sibbe の意味は一義的に確定していませんが、

個人名由来(シギベルトの子): 古ゲルマン語の男性名 Sigibert(シギベルト) の短縮形が「Sibbe」になったという説。

 

Sigi = 勝利、Berht = 光り輝く、高名な。

つまり、もともとは「勝利によって輝く者」の所有する土地、という意味が含まれています。 

 

また地形・機能由来(親族・共同体)で古ノルド語や古英語の Sibb(親族、平和、関係)に由来し、一族や共同体が所有する「平和な領地(農場)」を指していたという説もあります。

もし日本名なら:輝田、勝田、平田、和田

 

 

・グリーグ Grieg
意味:地名に由来(スコットランド系姓 Greig)

Greig の本来の語源は「Gregory(グレゴリウス)」という人名の短縮形

 

Gregory の語源: ギリシャ語 gregorein = 目を覚ます、警戒する。転じて「目覚めている人」「警戒する人」。

もし日本名なら:覚川、覚田、守田、守山

 

 

・アルベニス Albéniz
意味:スペイン地名 Albéniz に由来

Albéniz = 地名「アルベニス出身の人」

 

古代ローマの地名 Alba に由来する可能性が高い

・ラテン語 albus = 白 で「白い土地」

もし日本名なら:白井、白田、白地

 

 

・レクオーナ Lecuona
意味:バスク語地名に由来

leku = 場所 ・ona = 良い

「良い場所」「良い土地」

もし日本名なら:良田

 

 

〇近代以降

・シェーンベルク Schönberg
意味:ドイツ語「美しい山」

schön = 美しい ・berg = 山

「美しい山の人」「その土地の人」

もし日本名なら:美山

 

 

・ベルク Berg
意味:ドイツ語「山」

berg = 山、丘

もし日本名なら:山田、丘田、山岡

 

 

・ヴェーベルン Webern
意味:地名 Weber に由来

Weber = 織工(職業)
彼は貴族の家系(von Webern)であった時期があり、このWebernという形自体が「ウェーバー(織師)の領地」という地名的な響きを強く持っています。

もし日本名なら:服部、織本、織部

 

 

・バルトーク Bartók
意味:ハンガリー語「Bart(人名)」に由来

Bart = Bartholomew(聖名・バルトロマイ) ・-ók = 小さい・愛称

小さなバルトという意味。

 

Bartholomewはbar + Tolmai に分割され、Talmai の子 ・bar= 子、息子 ・Talmai / Tolmai = 人名 です。直訳すると 「タルマイの息子」です。

 

tamai の語源は諸説ありヘブライ語 telem = 畝、耕しに関係し、「畝の人」「耕地の人」、 転じて「豊かな土地の人」のように解されます。

 

全体としては 「(豊かな)耕地の家系の子」 のような背景的意味を持ってます。

もし日本名なら:小畝、耕田、豊田、豊畑

 

バルトークの伝記で自分の苗字の由来を調べたときにハンガリーに由来するものであることを知って本人が喜んだと読んだことがあります。

バルトロマイは聖書の登場人物ですので完全に中東(ヘブライ語)起源の名前ですが、おそらく-ókというハンガリー語の姓語尾、指小辞(「~ちゃん」「~くん」のような愛称語尾にハンガリー由来を感じたのではないかと推測します。

 

Bartholomew(英語)、Bartolomeo(イタリア語)、Bartók(ハンガリー語)ですが、姓の形がハンガリー語として成立しているという点を喜んだのでしょう。

 

 

 

・ヒンデミット Hindemith
意味:ドイツ語系地名または地形に由来

Hinde(後ろ・雌鹿) + mitt(中間、〜と共にまたは〜の仲間)など諸説あり

もし日本名なら:鹿島、鹿目、鹿野

 

 

・ドビュッシー Debussy
意味:フランス地名 Bussy に由来

de = ~の ・Bussy = 地名

「ビュッシーの人」

※Bussy はラテン語 buxus(ツゲの木)由来

もし日本名なら:柘植

 

 

・ラヴェル Ravel

意味:諸説あり、

・rave = カブ、アブラナ(根菜の植物)

・-el = 指小辞(小さいもの、関連するものを示す接尾辞)

根菜系の農業関係?

 

またはフランス・プロヴァンス地方のドローム県にある「Ravel」という地名に由来する地名姓の可能性もあり、この地名自体はラテン語の「rebellis」(反逆者)から来ている

 

または古フランス語の「raveler」(ほどく、もつれを解く)から派生し、糸をほぐしたり織物を扱う職人

 

Ravel = 方言で「荒地」や「険しい斜面」という意味もあり。
 

もし日本名なら:荒坂、蕪木、菜花、荒木、不破

 

 

・プロコフィエフ Prokofiev
意味:人名 Prokofy(ギリシャ語由来)に由来

Prokofy = 進歩・前進

「プロコフィの子」・-ev = ~の子

もし日本名なら:進藤

 

 

・ショスタコーヴィチ Shostakovich
意味:人名 Shostak に由来

Shostak(ショスタク)の語源はポーランド語の szostak(ショスタク)であり、これは「6つの(szest)」から派生した「6単位の貨幣」、または「6本指の人」「6番目の子」を指すあだ名です。

・-ovich = ~の子「ショスタクの子」

もし日本名なら:六田

 

 

・ストラヴィンスキー Stravinsky
意味:ポーランド地名 Strava(川)に由来

Strava = 川 ・-sky = ~の土地

「川の土地の人」 

この川の名は「速い、勢いのある(strawa/struya)」という言葉から来ていると言われています。

もし日本名なら:早川、川地、河地

 

 

・メシアン Messiaen
意味:フランス語「Mession(メシオン):ラテン語の messio(収穫)」に由来

もし日本名なら:守田、 畑守

 

Messie(救世主)と似ているのですが、おそらく無関係でしょう。

フランス語でメシアは Messie(メシ)ですが、人名としてこれに接尾辞が付いて苗字になるケースはキリスト教圏では「畏れ多い」という感覚もあり、一般的ではありません。

 

 

 


作曲・DTMの個人レッスンの生徒を募集しています。 
 

このブログの書き主の自宅&skypeでマンツーマンレッスンをしています。 

(専門学校での講師経験があります) 詳しくはこちらをどうぞ。    

公式サイトhttp://uyuu.jp/


電子書籍ですが作曲・DTM関連の書籍も書いています。  


 作曲基礎理論~専門学校のカリキュラムに基づいて~

オススメ(作曲の基礎理論を専門学校レベルで学べる本です)

 

 汎用アレンジ~専門学校のカリキュラムに基づいて~

(様々な楽器のアレンジの基礎を専門学校レベルで学べる本です)

 

楽曲分析(アナリーゼ)のやり方(上巻)

(ポピュラー理論を土台にアナリーゼ技法の習得を目指します)

 

楽曲分析(アナリーゼ)のやり方(中巻)

(ポピュラー理論を土台にアナリーゼ技法の習得を目指します)

 

楽曲分析(アナリーゼ)のやり方(下巻1)

(ポピュラー理論を土台にアナリーゼ技法の習得を目指します)

 

楽曲分析(アナリーゼ)のやり方(下巻2)

(ポピュラー理論を土台にアナリーゼ技法の習得を目指します)

 

 

パソコンで始める日本一簡単なDTM作曲本

(初心者向けの作曲導入本です)


DTMマスタリングのやり方

(マスタリングのやり方を基礎から解説した本です)


DTMミキシングのやり方
(ミキシングのやり方を基礎から解説した本です)

 

大作曲家のアナリーゼ(1)~水の戯れ(ラヴェル)(Kindle版)

 

大作曲家のアナリーゼ(2)~亡き王女のためのパヴァーヌ(ラヴェル)(Kindle版)

 

大作曲家の作品アナリーゼ(3)~牧神の午後への前奏曲(ドビュッシー)(Kindle版)

ポピュラー理論を活用したラヴェルの水の戯れの楽曲分析(アナリーゼ)本です

 

ヒンデミットの作曲技法とアナリーゼ(Kindle版)

 

 

 

 

 

 

 

 

作曲家の名前を日本の苗字にしてみます。

日本人からするとモーツァルトやベートヴェンは言葉の意味がわからないので、響きだけ聞いてなんとなくカッコ良さそうと感じたりもしますが、実際にその意味を調べてみると、ごく一般的なものだったり、あるいはむしろあまりカッコよい由来とも言えないものもたくさんあります。

 

 

苗字の由来を探るのは非常に困難であり、1つの苗字に複数の由来があるものも多数あります。またこの記事ですべての可能性を網羅するのは難しいです。

 

 

 

例えばラヴェルなら

 

ラヴェル Ravel

意味:諸説あり、

・rave = カブ、アブラナ(根菜の植物)

・-el = 指小辞(小さいもの、関連するものを示す接尾辞)

根菜系の農業関係?

 

またはフランス・プロヴァンス地方のドローム県にある「Ravel」という地名に由来する地名姓の可能性もあり、この地名自体はラテン語の「rebellis」(反逆者)から来ている

 

または古フランス語の「raveler」(ほどく、もつれを解く)から派生し、糸をほぐしたり織物を扱う職人

 

Ravel = 方言で「荒地」や「険しい斜面」という意味もあり。
 

もし日本名なら:荒坂、蕪木、菜花、荒木、不破

 

のように、多岐にわたるのでどれが正解かわかりませんし、どれも正解でないかもしれません。

 

 

 

〇前置き

ヨーロッパと日本では苗字(姓)の成り立ちや役割が大きく異なります。一口にヨーロッパと言っても広いので、すべての国に以下の定義が当てはまるわけではなく、例外も多々ありますが、概ねヨーロッパにおいては中世以降「誰かを識別するための追加情報」として名前を発展させていった経緯があります。

 

その結果として苗字は

・出身地(~の人)

・父親の名前(~の息子)

・職業(鍛冶屋・商人など)

・身体的特徴や性格(背が高い、乱暴者など)


例えば父称として(Johnson = Johnの息子)、職業として(Smith = 鍛冶屋)、地名(Acton = 地名)、特徴(Long = 背が高い)などです。

 

ヨーロッパの苗字の多くは「その人がどんな人物か」を説明するラベルであり、あだ名や評価(時には悪口)すらそのまま姓になる文化すらあります。

 

 

ちなみに我が国、日本の苗字はまったくヨーロッパとは違った発展をしていて日本では古くから、氏(うじ)や姓(かばね)によって家系・血統・社会的地位が管理されてきました。

 

 

中世の貴族の名前などがまさにそうです。例えば堂上家の一覧を見てみましょう。

 

近衞、九條、鷹司、一條、二條、三條、西園寺、飛鳥井、中御門、持明院、油小路、上冷泉、水無瀬、久世、綾小路、勘解由小路家、甘露寺、萬里小路、梅小路、土御門、北小路、etc…たくさんありますが、

公家の苗字はおよそ、都のどこに住んでいるか(邸宅の場所)から決まる例が多いようです。

 

 

近衞家なら京都の近衛の北、室町の東、近衛大路に面した近衛殿を邸宅としたことが家名の由来と言われています。一條~九條なども同じで、路・小路(京都の通りの名前)、門、井(井戸)なども同じ構造です。

 

甘露寺、西園寺はそのまま 西園寺というお寺の近くといった具合です。

 

 

中世以降に武士が台頭してくると武士階級を中心に名字が広まり、公家と同じ由来だったり、自らの領地や居住地を示すものとして用いられるようになりました。織田、武田、眞田、前田、・上杉、北条、島津、佐竹などは完全に領地・出身地型といえます。

 

 

武士の大半は地名系ですが、賜姓といって朝廷から与えられた高貴な血統名として古くは源・平、豊臣、などの血統名、徳川のように本人が行った改姓+権威付けもあり、すべてが地名由来というわけではありません。

 

 

こういった公家、武家は少数で庶民の場合の苗字の多くは山・川・田・森・池・浜などの地形・村や土地の名前・自然環境に由来していることが多いですが、実際には多種多様です。

 

日本の苗字は30万種類ほどあると言われていますが、80%以上が地名に由来するものであると言われています。

 

面白いサイトがあるのでご紹介します。

 

https://fururen.net/wp-content/uploads/2024/07/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%8B%97%E5%AD%97%E9%A0%86%E4%BD%8D%E3%83%BB%E9%9B%A3%E8%8B%97%E5%AD%97%E4%B8%80%E8%A6%A7%E8%A1%A8.pdf

 

 

山の入り口に住んでいるから山口、

山の田んぼの近くに住んでいるから山田

山の下に住んでいるから山下、

山の麓に住んでいるから山本、

小さな林に住んでいるから小林、

林の中に住んでいるから林、

森の中に住んでいるから森、

小川が近くにあるから小川

新しく開発した田んぼだから新田、

田んぼの中だから田中、

池の近くの田んぼだから池田

清い水が湧く場所だから清水、

など、およそこういう苗字が多いです。

 

しかし上記のサイトにあるように職業名、当て字名、信仰名、商業名、神道名、芸名(屋号)、などが多種多様です。

 

 

日本最大の貴族ともいうべき藤原氏は日本中にその子孫がおり、藤が付く苗字は極めて多いです(佐藤、伊藤、加藤、斉藤、後藤の5大藤(ごだいとう)を筆頭に、工藤、武藤、近藤、遠藤、藤本、藤田など)。

 

 

但し、1875年(明治8年)の平民苗字必称義務令により、平民を含む全国民に苗字の着用が義務化され、その時に有名な藤原を名乗ろうという人もいたでしょうから全員が藤原氏の子孫とは限らないです。

 

 

笑い話ですが、役所の人間に「苗字は何にしますか?」と聞かれて「適当でいいよ」と答えたら「適藤」にされたなどというしょうもない話もあります。

 

 

明治時代まで庶民は苗字がなかったという話がよくされますが、それは幕府の公的な資料に掲載されず、公的な場で名乗ることが許されなかった(江戸時代は貴族や武士以外は公称禁止)という意味であって、実際には以前から私称していたものを届け出たケースも多く、多くの家のお墓は江戸中期くらいまでさかのぼることが可能で、苗字がある家がほとんどです。

 

 

 

実際に村の記録や寺の過去帳には苗字が残っている例は山のようにあります。

 

もし自分の家系のお墓などに江戸時代の年号が彫られていたら、それはまさにそういうことです。

 

 

基本的に先祖代々使ってきた苗字を平民苗字必称義務令の時にそのまま踏襲したり、苗字がなかった人はお寺の坊主に付けてもらったり、慣例に従って住んでいる場所に基づいて付けたりする人がほとんどだったようですが、「自由に名乗れるなら、カッコいいもの、由緒あるものにしよう」と考えた人も少なからずいたようです。

 

 

もしかしたら近衛や鷹司や橘や飛鳥井と無関係なのに名乗った人もいたかもしれないし、いわゆる珍しい苗字はこの手の人の子孫なのかもしれません(でも苗字の由来は本当に色々です)。

 

 

〇日本の本姓と苗字の違い。

今日では苗字+名前という表記が一般的なったため、本姓(姓)と苗字の区別はなくなっていったというかそういった概念がすっかり薄れてしまいまいました。

ほかにも氏、姓、本姓などがあり混乱してしまいます。古代の文書などで名乗るときもどのように名乗るかは時と場合によって違いがあり、ますます混乱してしまいます。ちょっと整理してみましょう。

 

 

 

① 氏(うじ) 一番古い概念です。古代大和政権の時代の制度です。

血縁集団の名前で同じ祖先・同じ神を祀るグループ で藤原氏・蘇我氏・葛城氏 「〜の」が付くのが特徴 で藤原の道長、蘇我の入鹿、葛城の 襲津彦です。

 

つまり「個人の名字」ではなく、一族全体の名前です。氏族が自ら名乗って朝廷が制度化したり、朝廷から与えられたりしました。

 

 

 

② 姓(かばね) 古代大和政権の時代の制度です。

朝廷(天皇)が与える身分・称号で氏に対して付与されるもので地位・役割・序列を示します。

臣(おみ)、連(むらじ)、朝臣(あそん) などで 氏の格付けラベルです。 

藤原「朝臣 」(藤原=氏、朝臣=姓) で藤原という氏族の朝臣という地位についているという意味になります。

*これは中世以降形骸化していきます。

 

 

 

③ 本姓(ほんせい) 

中世以降(平安末〜鎌倉以降)に重要になる概念で武士たちが自分のルーツとなる元の氏( 源・平・藤原)などを権威づけに使用したものです。

 

「どの血統に属するか」を示す名前であり制度ではありません。

高貴な出自・血統であるという意思表示で特に武家たちが自分たちが先祖をたどると清和源氏であるみたいなことを表明したくて名乗ったものです。

 

 

 

④ 苗字(みょうじ)

名字 平安末〜鎌倉時代に登場したもので家ごとの名前(家系識別)です。

同じ氏が増えすぎて区別できなくなったため発生しました。例えば藤原の氏(うじ)が増えすぎて区別出来なくなったためです。土地・屋敷・地名など様々なものが由来です。

 

名字は朝廷からもらったり、土地などに由来して名乗る「看板」みたいなものです。

 

例えば織田信長のフルネームは

平 朝臣 織田 三郎 信長(たいらの あそん おだ さぶろう のぶなが)です。

 

平は公式な血統。

朝臣は朝廷内での貴族としてのランク。

織田は地名系の名字。

三郎は通称(あだ名)。

信長は本名。

という具合です。

 

徳川家康のフルネームは源 朝臣 徳川 次郎三郎 家康。

豊臣秀吉のフルネームは豊臣 朝臣 羽柴 秀吉。

但しこの時代のフルネームは現代のように明確に制度化されたものとは言いがいので、状況ごとの名乗りの一例といった方がいいかもしれません。

 

 

しかしこれにさらに役職名を入れてさらに権威を増し、豊臣 朝臣 太閤 羽柴 秀吉のように名乗ることもあります。

武田信玄のフルネームなら源 朝臣 武田 信濃守 太郎 晴信(信玄は出家後の法名)です。

逆にもっとシンプルに平 朝臣を省略して織田 弾正忠 信長のように役職名を入れて名乗ることもありました。

 

 

この時代の武士が色々と並記したのは朝廷のガチガチのルールに従ったからではなく、武士として自分の看板と血筋を権威として周囲に示したかったからです。

 

 

この時代の武士や公家の世界では、「氏(本姓)」は天皇から授かった公的なライセンスのようなもので、有象無象のどこの馬の骨かもしれない人間ではなく、俺は尊い血筋で、偉い役職に付いてる立派な人間なんだ!という、ある意味で周囲を威圧するような感じの名乗りが自分の支配を正当化するための有効な手段の1つでした。

 

 

「天皇から貰った姓」+「朝廷での身分」+「苗字」+「役職」+「あだ名」+「名前」みたいな感じです。

 

 

現代ではもちろん貴族制度や姓制度は廃止されていますが、昔の総理大臣の近衛秀麿なら、ニュアンスとしては藤原 総理大臣 近衞 文麿(氏+役職+苗字+名前)みたいな感じです(こんな名乗りはしていませんし、成立しないけどもニュアンスとして)。

 

 

⑤ 姓(せい)=苗字(名字)[現代] 

明治以降の制度で姓と苗字(名字)は同じ意味になりました。

法律用語では「氏」 です。これは私たちが慣れ親しんだもので、日常では「姓」「苗字」が混在し、もはや区別がなくなったと言えます。完全に意味が昔とは変化しています。

 

 

似たような構造はヨーロッパにもあっておよそ世界共通で血統+家+役職+名前を盛る文化は存在します。

 

社会のありかたが全く違うし、名前に関する習慣も違うので同じではありえませんが、
日本 → 身分・血統・通称など「社会的属性」中心、ヨーロッパ → 領地・統治権など「政治的属性」中心で名前を長々と盛るのは共通しています。いずれも自分がどういう血筋なのか、どんな身分のなのか、どんな領地を治めているのか、どんな役職なのか、etc…をつらつらと並べることが多いです。

 

 

ではクラシックの作曲家の苗字を見てみましょう。

 

 

 

〇中世西洋音楽
・レオニヌス Leoninus
意味:leo(ライオン)のような人

leo = ライオン ・-inus = 属性・所属を表す接尾辞

もし日本名なら:獅子田

 

 

・ペロティヌス Perotinus 

意味:Petrus(ペテロ=石・岩)に由来する人(=ペテロ系の人/石の人) 

Petrus = 石・岩(聖ペテロの名) ・-inus = 属性・所属を表す接尾辞 ※Perot は Petrus のフランス語愛称 → それをラテン語化した形が Perotinus

 もし日本名なら:石田

 

 

・マショー Machaut 

意味: Machault(の出身)の人 

フランスのシャンパーニュ地方にある地名「Machault(マショー)」に由来する姓です。 

mach / mag: 「野原」「平野」あるいは「力」を意味する古い語根に由来するとされています。 

-ault / -aut: 地名によく見られる語尾で、特定の場所や集落を指します。 

もし日本名なら: 野原、平田

 

Guillaume de Machaut の de(英語だと ofやfrom)は、 ~の、~出身の、という意味なので「マショー村出身のギョーム」という意味になります。当時はファミリーネームは今ほど一般的ではなかったので〇〇村の△△という名前はよくありました。

 

出身の村の名前がそのまま苗字になっている人は日本にも多数います。

必ずしも「村」という文字が入るとは限りませんが、木村、 西村、 北村、 吉村、田村、川村、市村、山村、武村などほか多数あり。ほかにも久米村出身なので久米、宮本村出身なので宮本など多数あり。

 

村でなくても「渋谷」なら東京都渋谷区、 「足立」なら 東京都足立区、 麻布、神楽坂などほか多数あり、出身の町の名前がそのまま苗字の人はたくさんいます。

 

 

〇ルネサンス音楽
・ダンスタブル Dunstable
意味:イングランドの地名(Dunstable出身の人)
Dunstable = 地名(町の名前)

 

説が複数あり、Dun / Dunna = 人名 または「丘」 

stapol / staple = 柱・標識・市場ともいわれています。

もし日本名なら:丘市、岡

 


・デュファイ Dufay
意味:フランス語「fay(ブナの木・森)」に由来(=森の人)
du = ~の ・fay = 森/ブナ林
もし日本名なら:森田、森脇、しかしfayはブナという特定の樹木なので橅木、橅木沢、山毛欅か?

 


・バンショワ Binchois
意味:フランスの地名/出身地(Binche)由来
Binche = 地名 ・-ois = 出身・所属

Binche = 丘・高地、またはBinche ← Binchium / Bincz =は集落・居住地、川の曲がる場所などの意味、

「Binche」は、ラテン語の Bincensium(湿地や水辺の居住地)に由来するという説も有力です。

もし日本名なら:溝口、洲崎

 


・オケゲム Ockeghem
意味:フランドル系地名(「オッケの村/家」)
Ocke(人名) + hem(家・村)
もし日本名なら:樫村、樫家

Ockeは古いドイツ語の ocho(オッホ) に由来?

これは現代英語の oak(オーク) と同語源で、「樫の木」を意味します。

また「オットー(Otto)」の愛称説 ドイツの皇帝の名としても有名な Ott(オット) や Otto(オットー) が変化した形という説があります。


・イザーク Isaac
意味:聖書名「イサク」(神が笑わせた)
Isaac = 人名(ヘブライ語由来)

イザーク Isaac 意味:ヘブライ語で「彼は笑う」「笑うだろう」

 Yitzhak(יִצְחָק) = 彼は笑う ・tsaḥaq(צחק) = 笑う

もし日本名なら:喜多、笑田、神喜


・ジョスカン・デ・プレ Josquin des Prez(通称)

本名はJossequin Lebloitte(ジョスカン・ルブロアット)

意味:「プレ(草原)のジョスカン」

des はフランス語の前置詞 「〜の(複数・集合)」という意味
des Prez = 草原の

 

本名のLebloitte(ルブロアット)は現代のフランスやベルギーではほぼ絶滅してしまった非常に珍しい古い名字で、由来がよくわりません。

 

フランス語の "Blou"(古い綴りで青、または淡い色)に、指小辞(小さく可愛らしいもの、あるいは特定の人物を指す接尾辞)の "-oitte" が付いたもの?

 

もし日本名なら:草野、白井、青野

 


・オブレヒト Obrecht
意味:「高貴な支配/権威」
ob = 上位・高位 ・recht = 正義・支配
もし日本名なら:上正、高政、 貴道


・ラッソ Lasso(Orlando di Lasso)
意味:人名「ローランド」の短縮形
Roland → Lasso(愛称形)

 

Roland は古いゲルマン語に由来し、hruod / hrod = 名声・栄光 、land = 土地・国。

hruod + land = 名声ある土地/土地に名を広める者

 

日本の楽器メーカーのRolandはwikiに以下のようにあります。

社名は中世ヨーロッパの叙事詩である『ローランの歌』の主人公ローランからとられている 。

創業者の梯は日本国外への展開を考え、どの国の言葉で発音してもよく聞こえるような2音節からなる響きのよい社名を探し、まず「R」から始まる言葉にすることを決めた。これは創業当時の電子楽器業界ではRから始まる社名があまり使われておらず、イニシャル1文字で社名を書いたときに都合がよいと考えたからであったという。これらの条件にあてはまる単語として最終的に「ローランド」が選ばれた。


もし日本名なら:栄地、名里、名国

 


・パレストリーナ Palestrina
意味:イタリアの地名(出身地)
Palestrina = 地名

古代ローマの都市 Praeneste(プラエネステ) が変化した名前で
その元々の意味は諸説あり、高地の町、山の前の町、樫の木の多い土地などです。

もし日本名なら:山本、高町、山前、樫原

 


・バード Byrd

意味:古英語 bird = 鳥


Byrdはそのスペル違いで、歌がうまい人(鳥のように歌う)、顔が鳥っぽい人(鼻など)、鳥を捕まえる人・鳥を売る人など鳥関係の苗字です。
もし日本名なら:鳥山、鳥飼、小鳥、 鳥越、 白鳥


・ジェズアルド Gesualdo
意味:イタリアの地名(家名・領地名)
Gesualdo = 地名・貴族名


Gesualdo はゲルマン語起源でgisil / gis = 人質・誓約・高貴な子 、wald = 支配・力・統治なので「誓約による支配」「高貴な血統の支配者」という意味。

もし日本名なら:御統 貴政、貴治

 

 

・モンテヴェルディ Monteverdi
意味:「緑の山」
monte = 山 ・verdi = 緑
もし日本名なら:緑山

 

 

〇バロック音楽

・スカルラッティ Scarlatti 

意味:イタリア語「scarletto(緋色・赤)」に由来する

scarlatto = 緋色・赤色 、-i = 複数/家系 

もし日本名なら:赤木、赤井、緋田、緋村

 

 

・ヴィヴァルディ Vivaldi
意味:人名「Vivaldo」に由来(生命・活力に関係)
vivus(ラテン語)= 生きている ・-ald(ゲルマン語)= 力・支配
もし日本名なら:生田

 

 

・ペルゴレージ Pergolesi
意味:地名 Pergola(ペルゴラ)の出身者
Pergola = イタリアの地名(※語源:棚・ぶどう棚)
もし日本名なら:棚田、棚橋

 

 

・ラモー Rameau
意味:フランス語「rameau(枝・小枝)」
rameau = 木の枝
もし日本名なら:小枝、三枝

 

 

・テレマン Telemann
意味:ドイツ語系で「遠い人・遠方の人」
fern(遠い)系語源とされる説が有力
もし日本名なら:遠山、遠藤、遠田

 

 

・ヘンデル Händel(Handel)
意味:ドイツ語「商人・交易」
Handel = 商売・取引
もし日本名なら:商田

 

 

・バッハ Bach
意味:ドイツ語「小川・水流」
Bach = 小川・せせらぎ
もし日本名なら:小川、川田、瀬川

 

Bachは小川ではなく「おひねり(チップ)」が語源という説もあるようですが、これは音楽家の社会的役割から生まれた後世的な連想で、語源的には小川だそうです。

 

 

 

〇古典派音楽

・ハイドン Haydn
意味:ドイツ語「Heiden(荒野」に由来

語源的には「村の外の未開地に住む人」を指します。
Heiden = 荒野に住む人/異教徒
もし日本名なら:野原、荒原、荒野

 

 

・モーツァルト Mozart

複数の説があります。

南ドイツ・バイエルン地方の古い言葉の motzen(泥の中で転がる、汚す) に、人を表す接尾辞 -hart がついた形(Mozhart)が由来とされています。

 

意味: 「泥んこの人」「身なりがだらしない人」「不潔な人」といったあまり名誉ではないあだ名が名字になったものです (たしかに彼の性格を象徴する苗字ではある)

もし日本名なら:泥田、泥沢、濁川

 

あだ名由来の姓は、日本にはほぼ存在しない。ちょっと悪口気味なアダ名が苗字になっている例です。

 

もう1つは

意味:中世ドイツ語 Motzhardt に由来(性格・特徴)
Motz = 泥・ぬかるみ/小さなもの ・-hardt = 強い・頑丈

もし日本名なら:泥強

 

 

・ベートーヴェン Beethoven(van Beethoven)
意味:「ビートの畑の人、大根農家出身」

Beet は食用ビート(甜菜)だけでなく、広く「野菜の苗床」を指すこともあります。
van = ~の出身 ・beet = ビート(甜菜) ・hoven = 農場・農家
もし日本名なら:大根田、苗田、

 

 

ちなみにベートーヴェンは完全に苗字は大根農家という100%祖先が農民以外ありえない苗字ですが、彼の父は(ヨハン)は宮廷のテノール歌手、祖父(ルートヴィヒ)はケルン選帝侯の宮廷楽長を務めた立派な音楽家でした。

 

 

曽祖父(ミシェル・ヴァン・ベートーヴェン)はパン職人として修業を積み、ベルギーのメヘレンで活動し、パン屋のほか、家具や絵画などのアンティーク売買、不動産といった副業にも手を出していましたが、最終的には商売に失敗して大きな負債を抱えています。

 

高祖父のコルネイユ・ヴァン・ベートーヴェンにはメヘレンで結婚した記録が残っています。この頃のヴァン・ベートーヴェン家は教会の記録に残るような中産階級の市民だったようです。

 

 

16世紀の先祖にアールト・ヴァン・ベートーヴェンがいます。

1535年〜1609年頃に生きたとされるアールト(Aert)は現在の研究で確認できる最も古い作曲家ベートヴェンの先祖の一人です。

この時代やそれ以前の先祖の代は苗字の由来となった大根農家であったのではないか?と言われています(これ以上は研究されていません)。

 

 

 

次回はロマン派です。



 


作曲・DTMの個人レッスンの生徒を募集しています。 
 

このブログの書き主の自宅&skypeでマンツーマンレッスンをしています。 

(専門学校での講師経験があります) 詳しくはこちらをどうぞ。    

公式サイトhttp://uyuu.jp/


電子書籍ですが作曲・DTM関連の書籍も書いています。  


 作曲基礎理論~専門学校のカリキュラムに基づいて~

オススメ(作曲の基礎理論を専門学校レベルで学べる本です)

 

 汎用アレンジ~専門学校のカリキュラムに基づいて~

(様々な楽器のアレンジの基礎を専門学校レベルで学べる本です)

 

楽曲分析(アナリーゼ)のやり方(上巻)

(ポピュラー理論を土台にアナリーゼ技法の習得を目指します)

 

楽曲分析(アナリーゼ)のやり方(中巻)

(ポピュラー理論を土台にアナリーゼ技法の習得を目指します)

 

楽曲分析(アナリーゼ)のやり方(下巻1)

(ポピュラー理論を土台にアナリーゼ技法の習得を目指します)

 

楽曲分析(アナリーゼ)のやり方(下巻2)

(ポピュラー理論を土台にアナリーゼ技法の習得を目指します)

 

 

パソコンで始める日本一簡単なDTM作曲本

(初心者向けの作曲導入本です)


DTMマスタリングのやり方

(マスタリングのやり方を基礎から解説した本です)


DTMミキシングのやり方
(ミキシングのやり方を基礎から解説した本です)

 

大作曲家のアナリーゼ(1)~水の戯れ(ラヴェル)(Kindle版)

 

大作曲家のアナリーゼ(2)~亡き王女のためのパヴァーヌ(ラヴェル)(Kindle版)

 

大作曲家の作品アナリーゼ(3)~牧神の午後への前奏曲(ドビュッシー)(Kindle版)

ポピュラー理論を活用したラヴェルの水の戯れの楽曲分析(アナリーゼ)本です

 

ヒンデミットの作曲技法とアナリーゼ(Kindle版)

 

 

 

 

前回の続きです。

 

ここから先の話は有名なので記事にするほどのことはないかもしれません。

すなわち十二音技法のことですが、そのコンセプトも代表作も既によく研究されていますし、シェーンベルクといえば十二音技法みたいな扱いになっているので既にご存じの方も多いのではないかと思います。

 

しかし自由無調時代の最大の欠点だった長い曲が書けないという問題をどう克服したのかについては触れる必要がありますので、それについて書いてます。

 

ちなみに私個人としては十二音技法よりも過渡期時代の自由無調の方が興味がそそられます。

 

 

■十二音技法に到達

十二音技法到達前の最大の問題は、二面性を捨た不協和だけの自由な無調音楽は長い曲を書けない、そして音楽全体の統一原理も欠如しているということです。

 

感性だけで自由に長い曲を作るのは難しかったし、また感性だけで選んだ音は作曲家の一人よがりになりやすく、合理的な説得力にも欠けていました。

 

これを解決したのが私たちが良く知る十二音技法です。

 

 

 

5つのピアノ曲 作品23の第5曲のワルツ

 

シェーンベルクの五つのピアノ曲 作品23の第5曲ワルツが初出で、1920~1923年頃の作曲と言われています。この曲は第5曲のみが十二音技法であり、続くセレナード 作品24も第4楽章のみが十二音技法に基づいて作曲されています。

 

 

全曲を通して十二音技法が用いられるのはピアノ組曲 作品25(1921年頃に作曲)で、これが全曲を十二音技法で構成された最初の多楽章作品です。

 

シェーンベルク自身この頃に「ドイツ音楽の優位を今後100年間保証するものを発見した」と語ったという有名なエピソードが残っています。

 

 

 

十二音技法はまず先にコンセプトがあって後から音楽ができたように思えるかもしれませんが、成立過程はその逆で自由無調期に直面した「長い形式が成立しない」「統一性が確保できない」「音を選ぶ根拠が薄弱である」という問題を解決するために到達した整理法です。

 

 

自由無調期においてはすべての音を自由に使える一方で統一原理を持たず、結果として音楽全体が不安定になるという問題がありましたが、十二音技法は音の出現順序に規則を与えることでそれまでの問題の解決を図っています。

自由無調期の無制限な自由が形式を破壊してしまう危険を実際に10年以上にわたり経験した後で生まれた、無調を音楽として成立させるための、ある種の安全装置とも言えるかもしれません。

 

 

この時期は弟子のベルクやヴェーベルンも師であるシェーンベルクに倣って十二音技法の作品を書いています。

 


十二音技法に基づいて作曲する限り誰にでも理解できる統一原理で曲を構成することができ、また長大な曲も十二音技法の音列の展開に基づいて行えるので、その場限りの感性でダラダラと長い曲を作るのではなく、長い曲でも十二音技法の音列という統一原理を全体に与えることが出来ます。

 

 

■長い曲を書けない問題の解決

 

木管五重奏曲 作品26

 

この曲の基本音列

 


長大な無調音楽としての最初の作品の一つが木管五重奏曲 作品26です。ソナタ形式であり、全4楽章で40分に及ぶ大曲です。

 

自由無調期の作品の欠点であった秩序が恣意的で短期的である、音を選ぶ根拠が薄弱という問題は十二音技法という統一原理の導入によって解決されました。


なぜ自由無調時代には長い曲が書けなかったのに十二音技法という秩序が導入されるとそれが可能になったのか?をもう少し詳しく説明すると十二音技法という秩序が「形式を支える仕組み」を与えたからです。


自由無調期の作曲においても動機は存在し、対位法も存在し、その統制も存在しましたが、基本的にはそれらはすべてその場限りの判断(作曲家の感性)であり、それを繰り返し用いる理由としては弱く、結果として形式は短くなりがちでした。


しかし音の出現順序を固定することで「なぜそうなるのか?」という理論的根拠が保証されます。これが古典的な主題とその展開と機能的に同等の役割を果たしました。
十二音技法という土台によって、素材の展開が成立する条件として整えられたという言い方が正確かもしれません。


自由無調時代には言ってしまえば個人の感覚で選ばれていた音組織が十二音技法では「この音はこの順序で、この系列に属する」というルールとして定められ、作曲家の気分や瞬間的判断を超えて持続します。



音の配置を決める根拠が作品全体にわたって統一され、また固定されたことは、形式を内部から構築する秩序となり、構成を広げることを可能にしました。
十二音技法は長く書く必然性・根拠を内部から生み出せるようになったということです。

 

 

これによってシェーンベルクやその弟子たちはさらに自分たちの作風を推し進めることができるようになりました。

 

 

 

■実際の使い方(書籍紹介)

ピアノ組曲 作品25 前奏曲

 

上の譜例は私の著書の作曲基礎理論で十二音技法を解説している譜例です。ピアノ組曲 作品25の前奏曲ですが、十二音技法の具体的な使い方を説明しているサイトは山ほどありますし、本もたくさん出ていますのでここでは割愛します。

 

 

十二音抜法に基づく対位法の研究  クシェネーク 著 ; 宗像敬 訳

 

wikiの十二音技法のページだけでもかなりの知識を得ることが出来ますし、クルシェネークの十二音技法に基づく対位法の研究という本があります。

 

薄っぺらく、シェーンベルクやヴェーベルンがここに書いてあることをすべて守っているわけではないのですが、最低限のルールを学ぶのに参考になります(この本は十二音技法が開発された初期に書かれた本です)。

 

 

 

12音による作曲技法  ヨゼーフ・ルーファー著

 

ヨゼーフ・ルーファー著の12音による作曲技法という本もお勧めですが、十二音技法はあまりにも有名な作曲技法であるためネットだけでも十分な情報を得ることが出来ますし、コンセプト自体はそこまで複雑なものではありません。

 

 

この種の作曲技法に興味があれば、最低限の本などで十二音技法のルールを身に着けたらシェーンベルク、ベルク、ヴェーベルンなどの曲をアナリーゼした方がよほどためになります。

 

 

■対位法について

古典和声や調性が完全否定された十二音技法では対位法技法との親和性が極めて高く、むしろそれなしではこの種の曲は成り立たないと言ってよいほどです。

セリーそのものは誰でも作れますし、協和・不協和を考慮する必要がないので、いくらでもカノン、フーガ、模倣など、対位法的な組み合わせを作ることができます。

 

音の材料を平等化した結果として対位法しか頼るものがなくなった、というのは言い過ぎとしても、対位法の比重が極度に増えたのは事実です。


ある意味ではシステマチックであり、この種の音楽の評価は響きではなく内部の論理にあるように思えます。

 


そもそも十二音技法のコンセプトは、「不協和音の解放の後に、いかにして音楽を統一的に構成するか」という点にあり、セリーの扱い方に必然性があるか、音の選択に意図があるか、部分と全体の関係が有機的につながっているか、といった点が調性音楽よりもはるかに重視されます。


すなわち耳で聞いてどう聞こえるかというよりは、楽譜を研究して何処にどのような論理的整合性、有機的結合、各種の工夫、コンセプトがあるのかが評価される際に重要になります。

 

 

少なくとも私程度のレベルでは、楽譜なしで十二音技法の音だけを聞いて判断するのは極めて難しいです。耳で聞いてかっこいい!綺麗だ!という比重が調性音楽と比較して下がるので、楽譜を見て論理を研究しないとわからないような部分が重要になります。




もちろん、耳で聞こえてくる音が全く無視されるというわけではありません。協和・不協和による快感・不快感が最大の基準にならないだけで、あまりにも聞こえてくる音が稚拙であれば内部の論理が整っていても音楽としての評価は下がります。



ベルクや後期シェーンベルクが高く評価される理由の一つは、音楽の構造が聴覚的な印象としてもある程度知覚できるからですが、反面、内部論理が理解できなければ評価不能でもあるためそのバランス感覚が作曲家に問われます。


響き自体は不協和になりましたが、作曲上の基本コンセプトはバロックや古典時代の音楽と実は共通する部分が多くあります。

 

 

小さな操作が全体構想にどう関与しているか、作品全体が一つの考えで貫かれているか、といった発想は、バッハやベートーヴェンと何ら変わりません。

素材がダイアトニックから12音のセリーになっただけで、根本的な技法そのものは、バッハやベートーヴェンからの流れを、シェーンベルク、ベルク、ヴェーベルンが深く受け継いでいます。その点においては完全な後継者と呼んで差し支えありませんし、本人たちもそれを自称していました。模倣、転回、カノン、フーガなどの対位法的は事実上制限なく使えるので、大変十二音技法と対位法は親和性があります。

 



彼らの曲の中にどのような対位法テクニックがどのように使われているのかをアナリーゼを通して知ることは大変参考になりますし、この種の音楽に傾倒する作曲家であれば、シェーンベルクやベルク、ヴェーベルンをはじめ、その流れを汲む後続の作曲家たちの作品を数多く知っておくことは、避けて通れないでしょう。

 

 

■残りの章は…

20世紀の対位法残りの章は「独自の技法の人々」「結論」と続きますが、こちらは割愛します。ブゾーニヴァン・ディーレンシマノフスキヤナーチェックなどが簡単に紹介されています。

 

① 独自的立場の作曲家(ブゾーニ)
② 半音階・調性拡張型(ヴァン・ディーレン、シマノフスキー、ヤナチェク)
③ 独立的無調主義(アイヴズ、ヴァレーズ、ファーレン)
④ 微分音・非主題技法(ハーバ)

 

主流とは言い難いので記事では扱わないことにします。

 

 

■対位法に興味があれば…

今回の一連の記事紹介したような20世紀の対位法は、もちろんエクリチュールあってのものです。

 

厳格対位法もろくにできない、バッハのフーガやインベンションもアナリーゼ出来ないし、作曲も出来ないというのであれば、まずは先に基礎をやらなければならないのは言うまでもありません。

 

今回上げた作曲家たちも一人の例外もなくそれを学んできたはずですし、そもそもそういった伝統を避けてしまったらそれはもうクラシック音楽ではありません。

 

「20世紀の対位法」という本に沿って、出来るだけたくさんの作曲家に焦点を当てて解説をしてきたつもりですが、一連の記事が作曲を志す方のお役に立てば幸いです。

 

 

 


作曲・DTMの個人レッスンの生徒を募集しています。 
 

このブログの書き主の自宅&skypeでマンツーマンレッスンをしています。 

(専門学校での講師経験があります) 詳しくはこちらをどうぞ。    

公式サイトhttp://uyuu.jp/


電子書籍ですが作曲・DTM関連の書籍も書いています。  


 作曲基礎理論~専門学校のカリキュラムに基づいて~

オススメ(作曲の基礎理論を専門学校レベルで学べる本です)

 

 汎用アレンジ~専門学校のカリキュラムに基づいて~

(様々な楽器のアレンジの基礎を専門学校レベルで学べる本です)

 

楽曲分析(アナリーゼ)のやり方(上巻)

(ポピュラー理論を土台にアナリーゼ技法の習得を目指します)

 

楽曲分析(アナリーゼ)のやり方(中巻)

(ポピュラー理論を土台にアナリーゼ技法の習得を目指します)

 

楽曲分析(アナリーゼ)のやり方(下巻1)

(ポピュラー理論を土台にアナリーゼ技法の習得を目指します)

 

楽曲分析(アナリーゼ)のやり方(下巻2)

(ポピュラー理論を土台にアナリーゼ技法の習得を目指します)

 

 

パソコンで始める日本一簡単なDTM作曲本

(初心者向けの作曲導入本です)


DTMマスタリングのやり方

(マスタリングのやり方を基礎から解説した本です)


DTMミキシングのやり方
(ミキシングのやり方を基礎から解説した本です)

 

大作曲家のアナリーゼ(1)~水の戯れ(ラヴェル)(Kindle版)

 

大作曲家のアナリーゼ(2)~亡き王女のためのパヴァーヌ(ラヴェル)(Kindle版)

 

大作曲家の作品アナリーゼ(3)~牧神の午後への前奏曲(ドビュッシー)(Kindle版)

ポピュラー理論を活用したラヴェルの水の戯れの楽曲分析(アナリーゼ)本です

 

ヒンデミットの作曲技法とアナリーゼ(Kindle版)

 

 

 

 

 

 

前回の続きです。

 

■十二音技法までの「実験期(1908–1923頃)」

調性の中心が揺らぎ、中心音の統率力が弱体化した結果として現れたのが、1908年以降のいわゆる実験的なfreier Atonalität(フライア・アトナリテート)で、ドイツ語で「自由無調」あるいは「自由な無調性」と翻訳される時代です。

 

これは十二音技法に到達する前の無調音楽を指します。



 

シェーンベルク  6つのピアノ小品  Op.19

 

 

シェーンベルク  3つのピアノ小品  Op.11

 

 

 

シェーンベルク  5つの管弦楽曲 Op.16

 

 

十二音技法にたどり着く前のシェーンベルクの作品は短いものが多いですが、上の動画はいずれも1曲が短い曲ばかりで、無調的な作風に突入したがゆえにシェーンベルクは長い曲が書けなくなってしまいました。

 

その理由やシェーンベルク本人の言葉を考えてみましょう。

 

長い曲が書けない最大の理由は従来の調性和声は「協和 →不協和」 や「 緊張→弛緩」、「調の不安定→安定」、「主調→属調」などが時間的なある種の区切りを必然的に生み出しますが、不協和のみが音楽の中身になってしまったため、この概念を用いることが出来なくなったからです。

 

 

本人も「かつての和声は美の素材としてのみならず、もっと重要なことは形式的特色を生かす手段として働いてきた」と言っています。

 

 

完全には一致しませんが、調性音楽で「協和音程だけ」「トニック機能だけ」「転調なし」「不協和→協和の解決なし」という縛りで曲を作らなければいけないのと似ているかもしれません。出来なくはありませんが、長くて展開が多様な充実した構成を作るのは難しいです。

 

 

古典和声は美的素材であると同時に、音楽の形式を支える強力な構造装置でもあり、終止、属和音、転調、不協和の解決などの要素は、音楽に自然な区切りと方向性を与え、それが比較的容易に長大な形式を構築することを可能にしていました。

 

 

協和 →不協和、緊張→弛緩、調の不安定→安定、転調、機能和声、ドミナントモーションなど様々な従来の作曲の技法を放棄した無調期の作品において音楽は高い緊張度を保ったまま連続して現れ、不協和音は解決を前提とせず、すべてが等価な存在として扱われるため自然な休止点や句読点が失われます。

 

 

変化を作る手段が限られている状態で長い形式を作ることは聴覚的にも構造的にも困難です。変化を生み出す手段の大半を失ったからです。1908~1923年頃の過渡期時代のシェーンベルクはまだこの問題を解決する手段を模索中でした。

 


このためシェーンベルクは、この時期において形式を圧縮せざるを得ませんでした。極端に短い楽曲、あるいは連作的な小品という形をとることで、形式的破綻を回避していたわけです。
 

旧来の和声体系を否定しつつも、それに代わる新たな原理はまだ十分に確立されていない状態です。この実験期は結果として十二音技法へと至る長い思考の準備段階となりました。

 

 

 

■テキストと結びついていた実験期

架空庭園の書

 

 

月に憑かれたピエロ

 

2つの歌曲 作品14

 

4つのオーケストラ歌曲 作品.22

 

 

1908–1923年無調期において純粋な無調的素材だけで長大な形式を支えることが困難だっため、シェーンベルクは別の手段によって形式的秩序を確保する必要に迫られました。

 

その際、シェーンベルクがしばしば使ったテクニックが詩やテキストと音楽との結合です。


テキストは音楽とは独立した形で明確な区切りと方向性を持っています。言葉の構造、意味の転換、行の区切りはそれ自体が形式的な枠組みとして機能し、和声が担っていた区切りや終止の役割の一部を代替することが可能でした。

 

 

無調音楽において「月に憑かれたピエロ」や「架空庭園の書」などのテキスト付き作品が多く書かれたのはこのような理由と思われます。

 

 


月に憑かれたピエロ 第1曲 Mondestrunken

Den Wein,den man mit Augen trinkt,

Gießt Nachts der Mond in Wogen nieder, 

Und eine Springflut überschwemmt 

Den stillen Horizont.

人が眼で飲むその葡萄酒を、
夜ごと月は波となって注ぎ落とし、
満ち潮はあふれ出て
静まり返った地平を押し流す。


こうやって文章に沿って音楽を付けていけば、詩の内容や語りの流れに応じて、ブロックの区切り、抑揚、速度、リズム、音域、音色、など色々な指標をテキストから得ることが出来ます。

 

和声がかつて担っていた役割をシェーンベルクはテキストに求めたわけです。これが従来の調的な音楽が持っていた要素の代替原理になりました。

 

 

これにより聴き手は不協和がずっと続く和声的な区切りがない音楽でも、音楽の進行を段階的に把握することができるようになります。

 


しかし逆に言えば無調音楽がまだ音楽単独で長い形式を完結させる段階には達していなかったことを示しています。

 

 

テキストという外部の支えを必要としたという点で、自由無調様式は依然として過渡的な状態であり、この不完全さがシェーンベルクに十二音技法という音楽の制御原理を求める動機となっていったことはたやすく推測できます。



 

■3つのピアノ曲 作品11

 

この時期のシェーンベルクの作風を3つのピアノ曲 作品11月に憑かれたピエロ、引用して簡単にアナリーゼしてみましょう。

 


3つのピアノ曲 作品11より抜粋


Mäßig(メースィヒ=中くらいの速さで)の部分から見てみましょう。まず左手にミ♭ド♭ソという主題が出ます。この動機は模倣されて25~27小節で既に12音が全部登場しています。しかし十二音技法ではありません。

 

 

その構成は古典やロマンとはかなり違いますが、重要なのはシェーンベルクがDeveloping variationと呼んだ手法で、彼はこれを重要な作曲技法の1つと考えていました。Developing variationはドイツ語だとEntwickelnde Variation(エントヴィッケルンデ・ヴァリアツィオーン)と言います。

 

 

シェーンベルクは元となる動機をGrundgestalt(グルントゲシュタルト)と呼びました。直訳するならGrund(グルント)=基礎、基本、Gestalt(ゲシュタルト)=形、形態なので、基本形みたいな意味ですが、要するに私たちにとっては「動機」とか「部分動機」と呼ぶべきでしょう。主題と呼べるほどの長さがないことも多々あります。

 

元となる音型をGrundgestalt(動機)と呼び、Grundgestaltという種がEntwickelnde Variation(発展的変奏)して、芽が出て枝葉が広がっていくというイメージです。

 

 

これは短い動機をそのまま反復せずに(そっくりそのまま反復すると特定の調が強化されてしまう)、音程 、リズム、音型など色々な変化を加えて連続的に変形し続けるというシェーンベルクの作曲技法です。 

 

 

特定のルールがあるわけではなく不安定で、即興的な変形の連鎖と考えてOKですが、これによって統一はあるが反復はなく、形式的な区切りも曖昧という、非常に緊張度の高い音楽が作れます。

作曲家としては理解しておきたい手法の1つですので、興味があればこの時期の作品の楽譜をたくさん見て、シェーンベルクがどうやってそれをやっているのか確認してみましょう。

 

 

 

■5つの断章 ヴェーベルン Op. 5

ヴェーベルン 5つの断章 抜粋

 

上の譜例の4小節目、TempoⅡの部分はシェーンベルクのDeveloping variationそのものです。上の譜例の4-5小節目で12音全部が登場し、しかも音型は維持されています。師弟間で技術を共有していたことがわかります。

 

またやはりこの曲も短いです。4段譜なのに1楽章は5ページありますが、残りは1ページか2ページしかなく、2楽章など13小節しかありません。

 

ヴェーベルンの形式は凝縮されている!と言えば聞こえはいいですが、長い曲にすると内容が緩慢になって破綻するスタイルなので長い曲が書けないのです。

 

 

■月に憑かれたピエロ

17曲目 Parodie抜粋

 

月に憑かれたピエロの最大の特徴はやはり自由無調期にあって対位法的なテクニックが多用されている部分です。

 

上の譜例の部分では語り手とピッコロが模倣、ヴィオラとクラリネットが反行カノンをしています。

 

全曲を通して模倣、カノン、反行、逆行、パッサカリア、オスティナートといったバッハに登場するような伝統的な対位法技法が明確に確認に表れ、調性を捨てた代わりに、対位法的統制が前面に押し出されています。

 

これはまさに縦の響きが弱まったから、相対的に横に自由度が生まれたという典型的な例でしょう。縦の原理(和声の原理)に頼れないから横の原理(対位法の原理)が強くなるわけです。

 

無調音楽は対位法と非常に相性が良いです。なぜなら協和と不協和の対比原理や解決などを考慮する必要がないからです。自由無調時代の対位法は実質自由に作って良いと言ってもよいでしょう。

 

 

 

調性ではなく、和声でもなく、協和関係でもなく、対位法によって声部の出入り、音型の模倣、リズム構造の反復、テクスチュアの変化などが形式を支える要素となっていますが、内容を充実させることは出来ても、まだ長い曲を支えられるほどにはなっていませんし、十二音技法にも到達していません。

 

 

月に憑かれたピエロは全21曲ですが、1曲の長さは短いものが多いです。合計32分くらいですが、32分÷21曲なので1曲あたり平均して1分半くらいになります。

 

 

全体としてはこのような対位法的なアイデアを極端に半音階化した無調楽曲に持ち込むことによって無調音楽はデタラメな表現ではないこと、調性を失った音楽は対位法によって内部構成が成立することをシェーンベルクは確立していきました。

 

 

 

■どういう根拠で動機は作られたのか?

この時期は既に古典和声を捨て去っていましたが、十二音技法にもまだたどり着いていません。じゃあどういう根拠で無調音楽にしたり、動機は作られていたのか?というと、もし一言で片づけていいなら「作曲家の感性」です。

 

調性和声にしろ十二音技法にしろ、整理された理論があり、厳密に説明することが出来る根拠があった上で動機が作られますが、この過渡期的な時期は説明可能な理論的根拠がありません。

 

展開方法によって調性を打ち消すというDeveloping variationもやり方も、要するに自由で元となる動機の根拠も、本人の中では必然であっても、外から見れば作曲家の感性によって選ばれた音に過ぎません。

 

 

その動機とDeveloping variationによってそれが広がっていく短い時間だけは、その音楽を正当化できますが、長くなると再利用可能な統一原理・根拠が乏しい、あるいは弱いため、長い曲を充実した構成で書くのは難しくなります。

 

秩序はあるが、それは作曲家の感性を秩序と呼んでいるだけであって、長期間にわたって曲全体を統一するものにはなりませんでした。

 

 

「素材を数珠繋ぎして長くすればいいじゃないか」と思うかもしれませんが、それは主題の展開・発展を重視するドイツ的な発想ではありません。

 

 

無関係なものをたくさん並べて長大な曲を作るという発想はドイツ的なクラシック音楽ではむしろ忌避され、長い曲は全体が有機的に結びつき、主題が発展・展開・変奏されて構成されるのが良い充実した良い構成であるため、この過渡期時代はそれを実現する根拠が極めて弱かったというのが実情です。

 

 

既に述べた通りシェーンベルクもこの時期には長い曲を書こうとはしませんでした。

しかしこの Grundgestalt(のちの音列)を徹底的に発展させれば、調性がなくても曲は統一できるのではないか?という考えに繋がっていきます

 

 

 

次回に続きます。

 

 


作曲・DTMの個人レッスンの生徒を募集しています。 
 

このブログの書き主の自宅&skypeでマンツーマンレッスンをしています。 

(専門学校での講師経験があります) 詳しくはこちらをどうぞ。    

公式サイトhttp://uyuu.jp/


電子書籍ですが作曲・DTM関連の書籍も書いています。  


 作曲基礎理論~専門学校のカリキュラムに基づいて~

オススメ(作曲の基礎理論を専門学校レベルで学べる本です)

 

 汎用アレンジ~専門学校のカリキュラムに基づいて~

(様々な楽器のアレンジの基礎を専門学校レベルで学べる本です)

 

楽曲分析(アナリーゼ)のやり方(上巻)

(ポピュラー理論を土台にアナリーゼ技法の習得を目指します)

 

楽曲分析(アナリーゼ)のやり方(中巻)

(ポピュラー理論を土台にアナリーゼ技法の習得を目指します)

 

楽曲分析(アナリーゼ)のやり方(下巻1)

(ポピュラー理論を土台にアナリーゼ技法の習得を目指します)

 

楽曲分析(アナリーゼ)のやり方(下巻2)

(ポピュラー理論を土台にアナリーゼ技法の習得を目指します)

(Kindle専売ですが、PDFもダウンロードして頂けます)

 

 

パソコンで始める日本一簡単なDTM作曲本

(初心者向けの作曲導入本です)


DTMマスタリングのやり方

(マスタリングのやり方を基礎から解説した本です)


DTMミキシングのやり方
(ミキシングのやり方を基礎から解説した本です)

 

大作曲家のアナリーゼ(1)~水の戯れ(ラヴェル)(Kindle版)

 

大作曲家のアナリーゼ(2)~亡き王女のためのパヴァーヌ(ラヴェル)(Kindle版)

 

大作曲家の作品アナリーゼ(3)~牧神の午後への前奏曲(ドビュッシー)(Kindle版)

ポピュラー理論を活用したラヴェルの水の戯れの楽曲分析(アナリーゼ)本です

 

ヒンデミットの作曲技法とアナリーゼ(Kindle版)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

前回の続きです。

 

20世紀の対位法の著者であるHumphrey Searleはヴェーベルンの門下だけあって、シェーンベルクにはかなり好意的で、且つ多大なページを割いて書いています。この本のメインコンテンツと言って良いでしょう。

 

対位法の説明の前になぜシェーンベルクがそこに至ったのか?十二音技法がどのように扱われているか?などについても詳しく述べています。

 

私は十二音技法に対して決して肯定的ではありませんが、近現代の音楽における一大潮流であり、これを無視することは出来ませんし、作曲の1つのスタイルに対しては公平であるべきであると思うので、詳しく述べてみます。

 


■シェーンベルクの求めたもの
シェーンベルクという作曲家はしばしば難解な音楽とか理屈先行の作曲家として語られがちです。

 

とりわけ十二音技法は一般的には無調音楽であり、極端に抽象的で、聴き手の理解を拒むような方法であると受け取られることが多いのですが、シェーンベルクの立場からすると、このように聴衆に受け取られたのは本意ではなかったでしょう。

シェーンベルクの意図としては十二音技法を音楽を難しくするための方法として考えていたわけではないはずです。

 

 

むしろ彼にとっての関心は、それまでの和声の半音階化の帰結として混沌としがちな音の羅列に代わりとなる新たな組織的・論理的な秩序をもたらし、音楽に「Fasslichkeit (理解可能性)」を与えることが、彼の最も重要なテーマの1つでした。

 

 

シェーンベルクの論文集「Style and Idea」

 

このことはシェーンベルクの論文集「Style and Idea」の「Composition with twelve tones (1941 and c. 1948)」書かれています。この本の一部を抜粋します。

 

Whatever sounds together (harmonies, chords, the result of part-writing) plays its part in expression and in presentation of the musical idea in just the same way as does all that sounds successively (motive, shape, phrase, sentence, melody, etc.), and it is equally subject to the law of comprehensibility.

 

(翻訳)同時に鳴る和声や和音も、旋律や動機のように時間的に進む音と同じく、
音楽的意味を伝える役割を持ち、それ自体が「理解できるもの」として構成されていなければならない。

 

とはっきり述べています。

 

ここで注意しておきたいのは、「理解できるもの」という言葉が、必ずしも一般の音楽愛好家が聞いてすぐ理解できることを意味していない点です。

 

シェーンベルクが目指していたのは、誰にでも直感的に理解できる音楽ではなく、分析可能で、内部構造が論理的に説明しうる音楽であったはずです。実際に十二音技法の音列を目で追っていけば、たしかに誰でも理解することが出来ます。

 

 

つまりロマン期までの感情的、主観的な音楽ではなく、形式的な明晰さ、構造的な可読性こそを重視したのであって、彼にとって音楽の快と不快や親しみやすさは、必ずしも第一義的な問題ではありませんでした。

 

これをシェーンベルクは不協和音の解放と呼びました。原文から抜粋します。

 

 

In twelve-tone composition one need not ask after the more or less dissonant character of a sound-combination, since the combination as such (ignoring whether its effect creates a mood or not) is entirely outside the dis¬ cussion as an element in the process of composition. This combination will not develop, or, better, it is not it that develops, but the relationship of the twelve tones to each other develops, on the basis of a particular prescribed order (motive), determined by the inspiration (the idea!). 

 

十二音技法による作曲においては、音の組み合わせが多かれ少なかれ不協和的であるかどうかを問う必要はない。というのも、その組み合わせ自体(情緒を喚起するか否かは別として)は、作曲過程の要素としての議論の外部にあるからである。
この組み合わせが発展するのではない。より正確にはそれが発展するのではなく、霊感(=理念)によって定められた特定の秩序(動機)に基づき、十二音相互の関係が発展するのである。

 

 

十二音技法による音楽は基本的に不協和の塊りですが、シェーンベルクは平たくいうと「音楽において協和や不協和は問題ではない、それは議論の外部の話」と切り捨てています。

 

 

音楽の快(協和)と不快(不協和)のコントラストを切り捨ててしまったところに、音楽を耳で聞いて感覚的に楽しむものから、コンセプトを重視する概念的なものに変わってしまった起点を見ることが出来ます。

 

 

音楽そのものよりもコンセプトや楽譜が重要という現代音楽の開始点であり、一般の聴衆の音楽離れを引き起こした原因の一つでもあります。この現時点での通過点が以前の記事で書いたシュトックハウゼンのヘリコプター四重奏とか楽譜で絵を描く図形楽譜とかジェム・ファイナーの1000年かけて演奏するロングプレイヤーとか、ケージの4:33とか、言い方は悪いですが、バカみたいなネタ発表会です。

 

 

現代音楽=よくわからない難しいもの、不協和音がずっと鳴っているものとしたのはシェーンベルクの功績の一つでしょう。

 

 

ちなみに「Style and Idea」はちくま学芸文庫 から「シェーンベルク音楽論選 ——様式と思想」日本語翻訳も出ているのですが、私は日本語版は呼んだことがないのですが、どうも目次を見る限り抜粋のようです。

 

「シェーンベルク音楽論選 ——様式と思想」
 

今回の記事で一番大事な「Composition with twelve tones (十二音技法の作品)」が目次にありません。日本語版を読まれる方は目次をよく確認してご注意ください。

 

よくあることですが、学術書などの場合は、選集というスタイルで意図的に抜粋が行われることがあります

 

別にシェーンベルクに限った話ではないですが、ある音楽の理論書や技法の書物の日本語訳を読むときは原本も確認した方が良いでしょう。

 

日本語版は第2巻までしかないからそれが全部だと思ったら実は第3巻があった、全10章だと思っていたら原本では17章だったなどはよくあることです。


 

 

■拡大された調性と「不協和音の解放」
十二音技法は突如として現れた特異な発明ではなく、その成立を理解するためには19世紀後半から20世紀初頭にかけて進行していた和声語法の変化を前提として押さえておく必要があります。

 

とりわけ重要なのは、今回のシリーズの記事の最初で扱った半音階的和声の拡張によって、従来の調性概念そのものが内部から変質していった点です。



後期ロマン派において和声はすでに明確な主調を中心とした安定した体系ではなくなりつつありました。

 

転調は頻繁になり、和音はその機能的役割よりも色彩的・表情的側面を重視して用いられるようになります。

こうした状況はしばしば「拡大された調性」と呼ばれますが、これは調性が完全に放棄されたという意味ではなく、調性の枠組みが極端に引き伸ばされた状態を指しています。


この過程において、不協和音の位置づけも大きく変化しました。かつて不協和音は、予備され、解決されるべき緊張要素として機能していましたが、半音階化が進むにつれて、その扱いは次第に自由になっていきます。

 

 

最終的にはシェーンベルクの言う「So here a consonant opening chord would not be a hint of a tonal region, nor would a dissonant one bring with it a resolution.(協和的な開始和音が調的領域を示唆することはなく、不協和和音が解決を伴うこともない。)」にたどり着きます。

 

 

音楽の歴史は人類が不協和をどれだけ受け入れられるか?の拡大の歴史でもありますが、時代とともに聴き手の耳は次第に不協和音に順応し、後期ロマンから近代にかけて、前衛的な人々はもはやそれを特別な出来事として受け取らなくなっていきました。結果として、不協和音は解決を要求する存在ではなくなり、持続的に用いられる素材として定着していきます。


私たちはシェーンベルクやバルトークやストラヴィンスキーの不協和な音楽の登場から100年以上経っていますから(歴史的な出来事として)受け入れることは出来ますが、当時の聴衆にはさぞショッキングな音楽に聞こえたことでしょう。

しかしこのような音楽が当たり前になるにつれて段々と聴衆は、良くも悪くも慣れていきます。



現代人はこの種の音楽をよく知っているので不協和音=解決が必要とは必ずしも考えません。テンションコードとかメロディックテンションはもはや普遍的な概念になり、十二音技法のような不協和マックスの音楽も、普通の音楽になったと言えます。



当時のこの変化を特に象徴する存在としてはワーグナーやドビュッシーの音楽を挙げることができます。彼の作品においては、不協和音はもはや緊張と解決の枠組みの中で意味づけられておらず、音響的な質感の一部として自然に存在しています。

 

不協和音は刺激的な要素ではなく、解決不要の響きであり、聴き手はそれを「解決されるべき不協和」として意識することはほとんどありません。少なくとも当時は不協和音は解決するものとして聴いてドビュッシーを批判する人はいたかもしれませんが、現代人はそういう風にはワーグナーやドビュッシーの音楽を聞きません。



より強烈な不協和が容認されていく歴史の中で、シェーンベルクの述べる「不協和音の解放」という言葉が意味するのは、和声語法そのものがもはや従来の機能和声の論理だけでは説明できなくなったことを示しています。

 

 

音楽が調的に聞こえても、調性を支える前提条件がワーグナーのトリスタン以降に崩れ始めて、シェーンベルクの時代はその臨界点でもありました。

 


シェーンベルクはこの変化を外部から破壊した作曲家というよりは、状況を整理した作曲家と言えます。

 

彼個人の突飛で勝手な行動ではなく、むしろ歴史をなぞれば必然であり、シェーンベルクがやらなくてもほかの誰かが似たようなことをしたはずです。

 

どんどん音楽が自由に、不協和が拡大していく中で十二音技法はそこに秩序を与える極めて価値あるものとして(最初は反感もあったし、今でもあるけれど)音楽家たちに認められていきました。

 

 

 

■調性の危機|主音・根音は本当に中心か?
半音階的和声が極度に拡張された結果、問題となったは調性の中心そのものが本当に機能しているのか?という点です。

 

従来の調性音楽においては、主音や和音の根音が中心点として明確な役割を果たしていました。主音は音楽の出発点・終着点であり、和声は最終的にそこへ帰結することが伝統でもありました。

 

しかしロマン期に入って和声が高度に半音階化し、転調や機能の重層化が常態化してくるとこの前提は揺らぎ始めます。

 

曲頭で提示された主音がその後の音楽構造において本当に中心として機能しているのか、あるいは終止において回帰される音が形式的な必然性を持っているのかどうかがわからなくなっていきます。

 

古典時代と違って主音(とされる音)が鳴っているからといって、それが必ずしも音楽全体を統括しているとは言えない状況が生じてきます。


この問題は当時生きていた作曲家たちの間で意見が分かれました。例えばヒンデミットは音程関係に基づく自然的秩序を重視し、調性を人為的なものというよりも物理的・音響的必然性に近いものとして捉えました。

 

 

民謡を土台とするバルトークの方がヒンデミットよりも無調的ではありますが、依然として中心音ありきの考え方を持っていました。

 

 

しかしシェーンベルクはこの見方に対して慎重であり、調性を絶対的な自然法則として受け入れる立場には立っていません。ここが致命的なほかの作曲家との分かれ道であり、以後100年の音楽の新しい歴史の始まりと言えます。

 

 

彼にとって調性とは歴史的に形成された一つの秩序体系にすぎず、ヒンデミットやバルトークのように中心原理、自然法則、永遠不変のものではありませんでした。ここに相いれない決定的な音楽に対する考え方の違いがあります。

 



実際近代音楽の拡大された調性のもとでは主音や根音はしばしば曖昧な存在になっています。

和声が連続的に変化し続けるなかで、どこが本当の中心なのかを聴覚的に確定することは次第に困難になっていきました。

これは私も認めます。既にシューマンの時代にそのような作例が見られます。

 

 

かつてルネッサンスの終わりからバロック時代の始まりにかけての調性が確立し始めた時代に、如何にして調を明確にするか?というテーマがロマン期の始まりとともに、今度は如何にして調を不明確にするか?に切り替わっていきます。この流れの終着点が十二音技法というわけです。

 

 

主音は存在しているように見えても、それが形式全体を統御する力を失っている場合も少なくありません。少なくとも作曲家が「この曲の主音はドだ!」と述べても、それは理論上の整理や作曲家の主張であって、実際にそう聞こえるか?は別問題である音楽は多々あります。

 


こういった曲が増えるにつれて調性はもはや安定した構造原理としては機能しなくなっていき、調的語法が完全に消滅したする前の時代に既にその支配力は著しく低下し、音楽は宙吊りの状態に置かれることになっていきました。

中心音や調性の存続はもうちょっとで零れそうなコップの水、不安定で倒れそうな立てられた棒のような存在になります。

 

 

それでも調や中心音の存在を、それがどれだけ無調的に聞こえようとも放棄しなかった作曲家がヒンデミットやバルトークです。何処まで崩すか?どこまで守るか?どうやって守るかはそれぞれですが、私は基本的にこの立場に賛成です。

 

例えばバルトークは自身の作品を、それがどれだけ無調音楽に近づこうとも調性音楽であると言い張りました。

 

 

バルトーク ヴァイオリンソナタ第1番

 

バルトーク ヴァイオリンソナタ第2番

 

バルトークはこの曲を調性と断言していますが、実際に聴くとどうでしょうか?「これはもう無調じゃないの?」と感じる人も多いはずです。

 

実際に境界線上ギリギリにある曲の調や中心音の有無は耳で聞くだけでは判別しにくいです。地平線上をゆらゆらと揺れる光のように見えることもあります。

 

 

対して完全に1つの中心音を放棄した作曲家は色々いますが、やり方はみなそれぞれでシェーンベルクら新ウィーン楽派や、ストラヴィンスキーやミヨーのポリトーナル、メシアンの移調の限られた旋法ように独自のアイデアを持った作曲家もいます。

 

 

ポリトーナルや移調の限られた旋法は拡張された調性とも言えますが、中心が1つではなく複数になっている点がヒンデミットやバルトークとの最大の違いです。

シェーンベルクはもっと進んで12音全部が中心音になりえると考えています。

 

 

次回に続きます。

 


作曲・DTMの個人レッスンの生徒を募集しています。 
 

このブログの書き主の自宅&skypeでマンツーマンレッスンをしています。 

(専門学校での講師経験があります) 詳しくはこちらをどうぞ。    

公式サイトhttp://uyuu.jp/


電子書籍ですが作曲・DTM関連の書籍も書いています。  


 作曲基礎理論~専門学校のカリキュラムに基づいて~

オススメ(作曲の基礎理論を専門学校レベルで学べる本です)

 

 汎用アレンジ~専門学校のカリキュラムに基づいて~

(様々な楽器のアレンジの基礎を専門学校レベルで学べる本です)

 

楽曲分析(アナリーゼ)のやり方(上巻)

(ポピュラー理論を土台にアナリーゼ技法の習得を目指します)

(Kindle専売ですが、PDFもダウンロードして頂けます)

 

楽曲分析(アナリーゼ)のやり方(中巻)

(ポピュラー理論を土台にアナリーゼ技法の習得を目指します)

 

楽曲分析(アナリーゼ)のやり方(下巻1)

(ポピュラー理論を土台にアナリーゼ技法の習得を目指します)

 

楽曲分析(アナリーゼ)のやり方(下巻2)

(ポピュラー理論を土台にアナリーゼ技法の習得を目指します)

(Kindle専売ですが、PDFもダウンロードして頂けます)

 

 

パソコンで始める日本一簡単なDTM作曲本

(初心者向けの作曲導入本です)


DTMマスタリングのやり方

(マスタリングのやり方を基礎から解説した本です)


DTMミキシングのやり方
(ミキシングのやり方を基礎から解説した本です)

 

大作曲家のアナリーゼ(1)~水の戯れ(ラヴェル)(Kindle版)

 

大作曲家のアナリーゼ(2)~亡き王女のためのパヴァーヌ(ラヴェル)(Kindle版)

 

大作曲家の作品アナリーゼ(3)~牧神の午後への前奏曲(ドビュッシー)(Kindle版)

ポピュラー理論を活用したラヴェルの水の戯れの楽曲分析(アナリーゼ)本です

 

ヒンデミットの作曲技法とアナリーゼ(Kindle版)

 

 

 

 

前回の続きです。

 

20世紀の対位法は個人的にとても面白いと思ったので、わざわざ記事にしているのですが、このヒンデミットの章に関しては正直なところタイトル詐欺になってしまっています。

ヒンデミットの章には対位法についての記述がほぼ何も書かれておらず、書かれているのはヒンデミットの Unterweisung im Tonsatzの理論の説明としてその大要を説明したものと、さらにヒンデミットの理論に対する著者Searleなりの批判です。

18ページも割かれていますが、出てくるのはシェーンベルクのフレーズが一つあるだけで、ヒンデミットの実際の作品の譜例は、なんと一つも出てきません。

 

 

■ヒンデミットの作曲技法

この章にたった一つもヒンデミットの具体的な作品が出てこないという不具合については、実は私も理解できなくはありません。

 

なぜならヒンデミットの作品を説明するためにはUnterweisung im Tonsatz に書かれている彼独自の書法・理論・前提を理解していないと、説明しようとしてもすべてが中途半端になってしまうからです。

 

12音技法のコンセプトを全く知らないまま。12音技法の曲を聴けばただの不協和音の曲にしか聞こえないはずです。それと似ています。

 

 

ヒンデミット 作曲の手引 (日本語訳は1と2巻のみ)

 

ではヒンデミットの理論はどうやって学ぶのかというと、中古の本を書店ネット・図書館など探すか、国立国会図書館のデジタルコレクションで読むか、ドイツ語で良ければIMSLPにアップロードされています。


ドイツ語のwikiに大要が書かれています。

 

 

私もヒンデミットの作曲技法という本を書いていますが、無料でヒンデミットの理論を勉強したいのであれば、最も手っ取り早いのは国立国会図書館のデジタルコレクションでしょう。

 


著作権はすでに切れていますので、いずれの方法でも、自分が一番良いと思った方法で、興味があれば取り組んでみるとよいと思います。私自身もレッスンでヒンデミットの理論を生徒さんから希望されれば教えることがよくあります。

(ヒンデミットの技法は調性音楽であれば幅広く、その人の作品のクオリティーアップに繋がる素晴らしい内容が書かれています)



やや難しいのは事実ですが、和声法や対位法の学習と違って、あくまで個人の理論体系なので、独学で取り組めないということはありません。


むしろ真剣にクラシック作曲を志すのであれば、シェーンベルク、ストラヴィンスキー、バルトーク、メシアンといった近代の大家と並んで、ヒンデミットについてもきちんと理解しておいた方が絶対に良いと思います。歴史に名を残す大家だけあって、作曲に役立つ良いことが数多く書かれています。

 


Unterweisung im Tonsatz は第1巻で理論が説明され、第2巻と第3巻はそれぞれ二声部・三声部の練習書になっているため、理論の大要の習得という意味では第1巻だけでも十分です。第1巻は作曲の手引というタイトルで日本語翻訳されており、2巻は二声部楽曲の練習書というタイトルで翻訳されています。こちらも国立国会図書館で読めますし、Amazonなどでも中古で売られています。

 


■ヒンデミットに対する態度

Searle はヒンデミットに対して、ストラヴィンスキーに対するほどではないにせよ、やや辛口です。まず以下のように書かれています。

 

すべての研究者達に研究し消化されるべきこの重要な著述は、現代の作曲技法のすべての様式に関して論理的なそして終始一貫した説明を与えようとする勇敢なこころみであり、いずれ後で理解されるように、たとえそのこころみが完全に成功しているとはいえないまでも、それは確かに著述する価値のある内容である。

 

これはSearle がヴェーベルンの門下であり、かなり徹底した十二音技法の信奉者であったという点を割り引いて読む必要があります。


私はすでにヒンデミットの作曲技法について本を書いていますので、公正を期すためにも、Searle の批判は十分に検討するべきでしょう。

しかしヒンデミット自身も自分の考えが完全で完璧で非の打ちどころがないとは言っておらず、あくまで個人の述べる作曲技法・理論体系にすぎません。それを理解した上で読めば、批判は必ずしも批判として成立しなくなります。

Searle はヒンデミットの理論を普遍的な音楽すべてに完璧に当てはまるものであるかのような前提で語っているように聞こえます。

 

 

■理論体系の価値は認めるが全部のスタイルをカバーできない

ヒンデミットのUnterweisung im Tonsatzに書かれている技法は、たしかに基本的には調的な音楽、すなわち中心音を前提とした音楽を対象としており、不協和音が延々と続く12音技法の作品を想定して書かれたものではありません。

12音技法にも通用する部分はありますが、それ専用に作られた理論ではないため、すべてを100%完璧に説明することが難しいのは事実でしょう。

Searle もこの点を指摘しており、この点に関しては私も賛同します。

 

 

■ 音程根音を重視し、和音転回を二義的とすることに対する批判

ヒンデミットは、伝統的な和声における和音の転回形を音程根音を重視するがゆえに二義的なものとして捉えています。

これに対してSearleはそれらがすべて妥当であるかどうかということは必ずしも明白にされてはいないが、しかしこれらの非難は和音に関するあらゆる可能な構成を包含する新しい組織をつくりあげる仕事の基礎を彼に与えている」と述べており、一定の評価を与えつつも、やや距離を置いた態度を取っています。

確かに和音の転回形は実際に耳で聴いた際には明確に異なって聴こえるものであり、本質的には音程根音によって根音が決定されるというヒンデミットの考え方には理解できる部分があります。

 

しかし転回形の響きを考慮しないかのように読めてしまう点についてはやや言い過ぎであるようにも思われます。

実際にはヒンデミット自身も転回形を軽視しているわけではなく、あくまで音程根音を第一義、転回形を第二義として整理しているにすぎないのでしょう。

 

 

■6グループ和音分類への批判

ヒンデミットは古典和声的な和音の分類方法をプロクルーステースの寝台になりうる と言って批判していますが、Searleも「ヒンデミットの分類もプロクルーステースの寝台になるじゃないか」と批判しています。

 

私としては「そんなこと言い出したら誰がどんな分類をしてもプロクルーステースの寝台になるじゃん」と思います。

 

プロクルーステースの寝台とは古代ギリシア神話に登場する盗賊 プロクルーステース(Procrustes)に由来する比喩表現です。
この盗賊は旅人に「ちょっと休ませてやんよ」と言って隠れ家に連れて行き、寝台より身長が低い者は無理やり体を引き伸ばし、寝台より身長が高い者ははみ出した部分を切り落とすという残虐な拷問で知られています。

比喩としては現実や個別性を無視して、無理やり単一の基準に合わせることを指します。ヒンデミットの和音分類はこのように暴力的ではないか?と批判しているわけです。

 

 

■調性音楽への偏重への批判

ヒンデミットの理論体系は、調性や中心音の存在を強く重視しています。そして、それらを混乱させる音楽に対して、明確に否定的な評価を与えています。

つまりポリトーナルな音楽や十二音技法的な音楽は調性や中心音の混乱を招くものとして、ヒンデミットの見地からすれば「好ましくない音楽」ということになります。

 

これに対して12音技法の強い信奉者であるSearleは「前もって想定された構成(ヒンデミットの理論のこと)に、たまたまうまく適合しないものに関しては、それらを除外したり放棄するよりも、むしろもし可能ならば、それらに対する解釈を発見すべきである」と述べ、明確に反論しています。

 

 

不協和音MAXの音楽を愛するSearleからすれば、ヒンデミットのように調性や中心音を重視する考えは自らの音楽スタイルを否定されているように聞こえるため、Searleの主張を一言でいうと不協和の塊である12音技法音楽に対するヒンデミットの評価は不当!もっと正しく評価できるような理論体系にするべきだ!ヒンデミットの理論は不完全だ!と述べているわけです。

 

 

しかしこれは、中心音を根本的に否定しようとしたシェーンベルクの立場と、音楽はあくまで中心音を基盤とすべきだと考えるヒンデミットの立場が思想の根幹において対立している以上、理論的な相性が悪いのは当然とも言えます。


したがってこの問題は「批判」というよりも、根本的な方向性の違いとして理解すべきでしょう。調性重視という前提そのものを踏まえない批判にはやはりどこか違和感があります。


ヒンデミットの理論はその内部においては十分に整合性が取れているわけで、この点に関してはSearle の側がやや感覚論的に異議を唱えているようにも思われます。

 

 

■UITの例が演繹的

Unterweisung im Tonsatz には、ヒンデミット自身が譜例を提示し、自身の理論に基づいてそれを徐々に改良していく例が示されています。

これに対して Searle は、その方法は演繹的すぎる、すなわち「理論が先にあり、音楽がそれに従っている」として批判しています。以下に原文を引用します。



私個人としては、これがどの程度の改良であるかということは理解できないが、しかし和音はヒンデミットの和音の表によれば、明白に中央に向って和声緊張を増加し、それから再び減少している。

 

しかし実際の音楽において和音はそうした作用をするだろうか?ここで再びヒンデミットの根音判定は疑いを持たれやすい弱点を表わしている。

 

(中略)

 

(ヒンデミットが良くないと述べたものに対して)私の考えでは、これらはむしろ好ましい対照を与え、しかも作曲家が意図するような和声的頂点を実際に作りだすものとみなすべきである。

 

和音群に関する組織的な構造を完成したヒンデミットは、音楽がこの構造にしたがって行動する場合にのみ、すぐれているものであると主張するようにみえ、いわば彼は帰納的にではなく、演繹的に労作しているともいえよう。

 

確かにもしそのような構造が、何らかの普遍的な妥当性を持ちうるものであるとするならば、それはすべての表現の可能性を考慮に入れなければならないのであろう、要するにこれはとりもなおさず、我々を再び“プロクルーステースの寝台”のたとえに引きもどすものにほかならない。

 


Searle の言い分も理解できなくはありません。しかし古典和声においても何であれ、まずは土台となる考え方(調性、和音機能、終止、声部進行の規範)があり、それに基づいて音楽が形作られていくわけで、その意味では古典和声そのものも演繹的だと言えます。これが否定的に批判されるべきなのかは疑問です。


おそらくSearle は作品全体の評価軸を「ヒンデミットの独自理論に合致しているかどうか」で決めているように見える点に、不満を感じているのかもしれません。

 

しかしヒンデミットが自身の理論を解説する際にその理論に即した説明を行うのは、ある意味で避けられないことでしょう。

また実際にヒンデミットの作品を見ていると、そこまで演繹的に作られているとも思えません。少なくとも、理論の枠内に収まるという条件を満たした上で、感覚的判断によって勝負している部分も、確実に存在しているはずです。

 

 


■ヒンデミットの対位法

バルトークと同様にヒンデミットにおいても、対位法と和声法はそれぞれ高いレベルで個別に用いられ、同時に両者が結合して用いられています。

ヒンデミットは対位法について、Unterweisung im Tonsatz 第1巻ではあまり詳しく述べていません。第2巻および第3巻はヒンデミット独自の方法論に基づいた練習書という性格が強く、実際のヒンデミット作品で直接用いられている技法というよりは、訓練的・教育的な意味合いが前面に出ています。

しかしわざわざ二声および三声のためにそれぞれ一冊ずつ割いていることからも、ヒンデミットが対位法を重視していたことは明らかですし、実際に彼の譜面を見れば、対位法的思考に満ちていることがわかります。

概ね対位法的な視点から Unterweisung im Tonsatz の趣旨を整理すると、以下の三点にまとめられます。


・優位二声部

ヒンデミットが二声部以上の対位法について比較的具体的に言及しているのは「優位二声部」に関してです。

 

多くの場合、これは両外声を指しますが、ペダル音やあまりにも機能の弱い声部が外声に置かれている場合にはそれらは除外され、内声が優位二声部として扱われます。

要するにその時点で音楽的に重要な外枠を形成する声部をヒンデミットは極めて重視しているということです。

・音程根音進行
和声進行全体における音程根音進行はヒンデミットにとってまさに生命線とも言える要素であり、調的な満足感を得るために最も注意が払われる部分です。

・旋律の音程根音進行
旋律そのものも独自の音程根音進行を持ちます。これもまたヒンデミットが(彼の述べる)良い旋律を作るために重視している点ですが、和声全体の音程根音進行との対位法的関係については、明確な言及はなされていません。


個人的には、「意図的に調的にする・しない」という価値判断を作曲の中に持ち込み、この考え方を実践的に利用しています。

 

 

■交響曲 画家マティス

 

譜例はあくまで抜粋ですが、バッハがもし200年後まで生きていたとしたら、このような書法になっていたのではないかと思わせる対位法的スタイルです。

 

ブランデンブルク協奏曲のような室内楽的発想をオーケストラ編成で実現しているようにも見えます。

 

ヒンデミットは新古典派の作曲家と位置づけられることが多く、このような対位法的スタイルは彼の作品においてしばしば見られる特徴です。

 

 

■ピアノ連弾ソナタ

 

ピアノ連弾ソナタ

 

この曲は現在執筆中のヒンデミットの作曲技法の下巻で、冒頭だけですが、アナリーゼしています。ちゃんと調性で解釈することができます。

 

譜面をみてもかなり対位法な手法なのがわかります。

 

 

■Ludus Tonalis

 

 

Ludus Tonalis 第1番フーガ

 

バッハの平均律の20世紀版を意図されたLudus Tonalisには全部で12のフーガがあります。上の譜面は第1番の3重フーガです。この曲も現在執筆中のヒンデミットの作曲技法の下巻でフーガ構造をアナリーゼしています。

 

ドイツ人ということもあって、近代では珍しくわかりやすい意味でフーガを多用している作曲家の一人です。

 

 

■弦楽四重奏 第4番

 

 

弦楽四重奏第4番

 

一番人気の弦楽四重奏は多分4番です。

新即物主義的な前衛性と激しさがあり、複雑な対位法と強烈な不協和音が特徴です。

 

 

■まとめ

一言でSearleのヒンデミット評価を述べると、「踏み石としては有効だが、不完全である」ということになります。

12音技法の信奉者にとって調性を前提とした理論体系が全面的に合致するはずもありません。両者は最初から水と油のような関係にあると感じます。


しかし一方で調的な音楽に関して「多かれ少なかれ全音階的な様式の音楽に対しては、確実なものとして認めてよかろう」とSearle も一定の評価を与えています。

実際ヒンデミットの述べている理論には調的な音楽を書く作曲家であれば誰にとってもクオリティの向上につながる重要な示唆が数多く含まれています。その点についてSearle も「ともあれ、すべての音楽家は、ヒンデミットがこれらの問題すべてに取り組み、解決を得ようと試みたことに関して、大いに感謝しなければならないし、また確かに彼は将来に対する踏み石として、大いに役に立つ価値の多い考え方を提言したのである。」と述べています。

 

ヒンデミットに関してはUnterweisung im Tonsatzの原著か日本語翻訳されている書籍を是非読んで理解しておくと、作曲における様々な場面で役に立つので非常にお勧めです。

 

自分では一生懸命だけど感覚だけで、なんとなく和声を作る、なんとなく旋律を作る、でも、それが本当に良いものか?成功しているのかどうが自分では判断できない……という初心者にありがちな迷いに対して、完全だとは言えませんが、一つの指標を与えてくれます。

 

 


作曲・DTMの個人レッスンの生徒を募集しています。 
 

このブログの書き主の自宅&skypeでマンツーマンレッスンをしています。 

(専門学校での講師経験があります) 詳しくはこちらをどうぞ。    

公式サイトhttp://uyuu.jp/


電子書籍ですが作曲・DTM関連の書籍も書いています。  


 作曲基礎理論~専門学校のカリキュラムに基づいて~

オススメ(作曲の基礎理論を専門学校レベルで学べる本です)

 

 汎用アレンジ~専門学校のカリキュラムに基づいて~

(様々な楽器のアレンジの基礎を専門学校レベルで学べる本です)

 

楽曲分析(アナリーゼ)のやり方(上巻)

(ポピュラー理論を土台にアナリーゼ技法の習得を目指します)

(Kindle専売ですが、PDFもダウンロードして頂けます)

 

楽曲分析(アナリーゼ)のやり方(中巻)

(ポピュラー理論を土台にアナリーゼ技法の習得を目指します)

 

楽曲分析(アナリーゼ)のやり方(下巻1)

(ポピュラー理論を土台にアナリーゼ技法の習得を目指します)

 

楽曲分析(アナリーゼ)のやり方(下巻2)

(ポピュラー理論を土台にアナリーゼ技法の習得を目指します)

(Kindle専売ですが、PDFもダウンロードして頂けます)

 

 

パソコンで始める日本一簡単なDTM作曲本

(初心者向けの作曲導入本です)


DTMマスタリングのやり方

(マスタリングのやり方を基礎から解説した本です)


DTMミキシングのやり方
(ミキシングのやり方を基礎から解説した本です)

 

大作曲家のアナリーゼ(1)~水の戯れ(ラヴェル)(Kindle版)

 

大作曲家のアナリーゼ(2)~亡き王女のためのパヴァーヌ(ラヴェル)(Kindle版)

 

大作曲家の作品アナリーゼ(3)~牧神の午後への前奏曲(ドビュッシー)(Kindle版)

ポピュラー理論を活用したラヴェルの水の戯れの楽曲分析(アナリーゼ)本です

 

ヒンデミットの作曲技法とアナリーゼ(Kindle版)

 

 

 

 

 

前回の続きです

 

20世紀の対位法の著者Humphrey Searle(サールとセアールがネット上に混在するので、以下 Searle とします)は、バルトークを天才と持て囃しながらも、僅か11ページしかバルトークの対位法についてページを割いておらず、またその内容の大半はバルトークの対位法というよりは、バルトークの曲の紹介のようになっています。


これを読んでもバルトークの対位法について得られるものはほとんどないというのが実情で、ぶっちゃけて言うと大したことが書いてないというのが私の正直な感想です。



バルトークの作曲技法についてはレッスンで希望者の方に学んで頂いていますが(あんまりここまで進む人はいないのですが)、これはバルトークの作曲技法が彼の生前から、死後において何十年もの積み重ねで研究が進み、論文などもたくさん存在する現代だから可能になったことで、おそらく Searle が20世紀の対位法を書いた時点では、バルトークの作曲技法は、少なくとも現在ほどは明らかになっておらず、Searle 自身も手探りだったのではないかと推測します。

 

 

■なぜこんなに内容が薄いのか?

バルトークは1881年に生まれ、1945年まで生きていました。Searle の『20世紀の対位法』が出版されたのは1954年です。執筆されたのはもう少し前と考えられるため、1950年前後と考えるのが妥当でしょう。

バルトークが世界的な知名度を得たのは1918年(37歳)以降ですが、すぐに世界的に名声が一気に広がったわけでも、彼の技法が世界中に知られたわけでもありません(むしろ生涯秘密的でありました)。

 

 

バルトークが青髭公の城で成功を博して以来、バルトークの評論や紹介記事は多く、1920年代には既にハンガリーだけでなく、ヨーロッパでそこそこ知名度のある前衛的作曲家として扱われてきましたが、内容は一般の音楽評論が中心で、和声や形式や作曲技法に踏み込んだ体系的分析はまだ限られていました。

 

 

Searle は1915年生まれ(バルトークと34歳差)なので、彼が成人した時点では、すでにバルトークは世界的な作曲家であったはずです。しかしバルトークは自身の作曲技法を語ることにかなり否定的で本人が残した明確な作曲技法に関する根拠はごく僅かしかありません。

バルトークの作曲技法の研究自体はかなり早い時期から存在しますが、本格的なものとして成熟するのは、1960年代以降と見てよいと思います。

本格的に始まったのが1960年頃からという意味であり、1960年の時点で現代と変わらないレベルでバルトークの作曲技法の研究が完成していたというわけではありません。

日本で有名なバルトークの作曲技法について書かれた赤い本があります。演奏家視点とか、民族音楽学者視点、伝記などは複数ありますが、残念ながらバルトークの作曲家目線における作曲技法について日本語訳されている本は2026年の段階ではこれしかありません。

 

 

バルトークの作曲技法 レンドヴァイ

 

ぶっちゃけこの本は大したことが書いていなくて、バルトークの作曲技法を正しく体系立てて説明出来るとは言えません。

 

実際この本を買った人はたくさんいると思うのですが、この本を読んでもバルトークの作品をアナリーゼ出来るとは言い難いという私の意見に賛同してくれるはずです。

 

バルトークの技法に通じている方であれば、レンドヴァイの本は明らかに不十分であるということにも賛同してくれるはずです。

 

 

エルネ・レンドヴァイ

 

それは著者のエルネ・レンドヴァイが1960年以後に本格化したバルトークの作曲技法研究における初期の体系的理論家だからです。まだこの時期は、現在ほど明確にバルトークの作曲技法が解明されていませんでした(今でも完全とは言い難いです)。

「黄金比」「フィボナッチ数列」「中心軸システム」などの概念はバルトーク自身が作曲技法として発表したものではありません。

全く無根拠とは言いませんが、レンドヴァイの理論はバルトークの作品に対して秩序を見出そうとする野心的な試みであり、当時としては歓迎され多くの作曲家・理論家に影響を与えました。しかしその後の詳細な検証では、都合の良い適用や過度な黄金比の読み込みなどがしばしば批判されています。


有名な黄金比の例なども、草稿段階では黄金比になっているのに、完成版ではそれが崩れているなど、レンドヴァイの理論との矛盾が数多く見つかっています。

つまりレンドヴァイは時期的には先駆的ではあるものの、今日の基準から見ると、理論的精度や作品全体を貫く説明力に難のある初期理論だと言えると思います。


私自身もバルトークに関する論文や本はある程度読みましたが、レンドヴァイの言い分はやや端折り過ぎというか、野心的というか、結果だけを述べ過ぎている印象があります。

 

そして何より一番問題だと思うのは、バルトークの作曲技法の最大の中心原理である民族音楽との関係性を、一切論じていないことです。これは最も致命的でしょう。なぜこれを無視したのは不思議なほどです。


バルトークは人生のほぼすべての時期を民謡(バルトーク自身は「農村音楽(Peasant music)」という表現を好みました)の研究に注ぎ、若い頃は自ら田舎の農村に足を運び、それが戦争によって不可能になってからは収集した民謡の研究に労力を注ぎました。これは生涯を通じて続きます。



有名な中心軸システムも明らかに民謡由来のものであり、レンドヴァイの言うように数学的な見地からバルトークが構想していたとは彼の残した手紙や民謡研究の実態から見て、とてもではありませんがそうは思えません。

Searle が20世紀の対位法を書いた1950年前後にはバルトークの作曲技法はまだ謎に包まれており、Searle 自身がそもそも十分に理解していなかったのではないかと思っています。



ヒンデミットについてはヒンデミット自身が自らの作曲技法を体系的に発表しているため、Searle も詳しく解説しています。

しかしバルトークの作曲技法についてはほぼノータッチなのはSearle がバルトークの作曲技法を理解していなかったため、対位法的特徴を持つ曲の具体例紹介程度に留まらざるを得なかったからだとしか思えません。


しかしこれは Searle が悪いわけではなく、この時代としてはこれが精一杯であり、またバルトークを20世紀の対位法の大家として無視することもできず、苦肉の策として、わずかに紹介する形になったのだと推測します。

 

記事の趣旨としてはSearleの20世紀の対位法に基づいて書くことですので、20世紀の対位法で述べられているバルトークの対位法について述べてみます。

 

 

■バルトークの技法について

バルトークは20世紀の作曲家として対位法・和声法のいずれにおいても極めて高度な水準にあり、両者を状況に応じて使い分け、時には結合して用いています。

本質的に対位法的作曲家と言えるかどうかは難しいですが、少なくとも前々回に扱ったストラヴィンスキーと比べれば、対位法的書法が前面に出る場面は明らかに多いと言えます

Searle は対位法的フレーズに民謡を露骨に、あるいは巧妙に隠して用いるストラヴィンスキーを対位法的作曲家とは見なせないとして厳しく評価していますが、その理屈でいくと同じく民謡を多用するバルトークも同じ評価を受けるはずです。

にもかかわらずSearle がストラヴィンスキーをこき下ろし、バルトークを天才と呼んでいるのはおそらく両者の民謡の扱い方に決定的な違いがあるからでしょう。

 

バルトークにおける民謡の使用はストラヴィンスキーのような(隠れた)引用としての民謡ではなく、すでに作曲上の理念や構造そのものへと昇華されているからです。


バルトークが民謡を直接引用することがあるのは事実ですが、彼の本質はそこではなく、民謡から抽出された音階、旋律、リズム、構造などが西洋クラシックの作曲技法と高いレベルで融合している点にあります。

 

そこではもはや民謡は民謡ではなく、抽象化された概念として機能しており、ここに私がバルトークを強く尊敬する理由があります。民謡でこれが出来るということは、民謡以外のほかの内容でもこれが出来るはずだからです。自分の技法を持っていて羨ましいとすら思います。

 

 

 

■弦楽四重奏第1番

弦楽四重奏1番

 

弦楽四重奏第1番 第1楽章冒頭

 

開始がフーガとなっており、同じくフーガで始まるベートーヴェンの弦楽四重奏曲第14番とよく並べて紹介されます。

第1番の時点ですでに民謡をクラシックの作曲技法に活かすという手法がうまく表れています。

もちろん晩年に見られるような抽象化・洗練された手法ではなく、まだ分かりやすいスタイルではありますが、すでに古典和声を脱しており、ルーマニア的スタイルに加えて、ポリモーダル・クロマチズムもここには見られます。

民族的な音楽の特徴を民族的だと分からないレベルで巧みに用いている点は、非常に注目すべきでしょう。

シェーンベルクが十二音技法を体系化したのは1921年ですが、実際にはそれ以前から、それに近い作品を書いているとはいえ、バルトークの弦楽四重奏曲第1番は1908年の作曲です。
バルトークが前衛的である点の一つはシェーンベルクよりもやや早い時期に、無調的な作風へ踏み込んでいることにあります(もっとも、完全な無調ではなく、バルトーク自身も自作を無調ではないと明言しています)。


上の譜例の開始3小節目ですでに12音すべてが登場している点に注目してください。このようなバルトーク独自の半音階的対位法はかなり初期の段階から見られます。

 

 

■2つのエレジーと7つのスケッチ

 

2つのエレジー 1番

 

2つのエレジーと7つのスケッチは、弦楽四重奏曲第1番とほぼ同時期の作品ですが、やはり同様に12音を短いスパンの中で登場させようとしています。

上の譜例の最初の4小節で12音すべてが出揃っている点に注目してください。

これはレーガー的な短いスパンでの転調とポリモーダル・クロマチズムによるものでしょう。

このような半音階的対位法は当初ハンガリー国内でも、西側のドイツ、オーストリア、フランスにおいてもあまり理解されませんでした。

 

 

 

7つのスケッチ 第7曲

 

7つのスケッチ 第7曲にも同じ手法が見られます。上の譜例の最初の2小節だけを見ても12音すべてが登場している点に注目してください。

短いスパンでの転調とポリモーダル・クロマチズムの発想がこのような半音階的対位法と調性を脅かす響きを生み出しています。

しかしバルトークにとってはこれはあくまで明確な調性を持つ音楽であり、少なくとも中心音が明確であるという点が重要です。

シェーンベルクが12音をすべて用いて調的中心を消滅させようとしたのに対し、バルトークは12音をすべて用いながらも調的中心を維持しようとしています。この両者の違いが同じ12音の使用という前提に立ちながらも明確に異なる響きを生み出しています。

個人的にはバルトークのように調的中心を持つ音楽の方が調性という音楽本来が備える重力的な力場に即しているので好感が持てます。

 

 

■2台のピアノと打楽器のためのソナタ

 

 

 

2台のピアノと打楽器 第1楽章 抜粋

 

2台のピアノと打楽器のためのソナタはバルトークが56歳の時の作品で、この頃は既に民族音楽から得た様々な知見がクラシックの現代音楽の中で高度に昇華されて用いられています。

 

ここでは5度のフガートで、主題がB♭→F→G→Cと導入され、対旋律も保持されています(抜粋譜面だけを見ると古典的フーガの原則を守っていないので5度のカノンのようにも見えます)。

 

 

バルトークの典型的なポリモーダル・クロマチズムによる半音階的対位法でしょう。

以前の記事でポリモーダル・クロマチズムに書きましたので、興味があればバルトークががここで何のポリモーダル・クロマチズムを使っているか調べてみてください。

 

 


■弦楽四重奏第5番 第5楽章

 

4楽章 Piu Presto,scorrevoleの部分から

 

最初は4度カノンで始まりますが、五線の2段目で12音すべてが登場します。

中心音は存在するものの、ポリモーダル・クロマチズムによって自由に音を組み合わせることができるため、シェーンベルクの十二音技法と同様にカノンやフーガ、その他の対位法技法との相性が良いと言えます。
 

 

■ヴァイオリン協奏曲 第2番  第3楽章

 

3楽章 207小節目から

 

207小節目から弦楽器の高音から低音に向かう半音のカノンが見られます。緊張感のある頂点を作り出すためにこのようにしているのだと思われます。3声の短2度のカノンは古典ではありえないカノンです。

 

 

 

■管弦楽のための協奏曲 5楽章

 

 

148小節目から

 

上の譜面では、バスーン、クラリネット、オーボエの順で、冒頭の主題が5度のカノンになっています。

前述の2台のピアノと打楽器のためのソナタが無調的な風味を持っているのに対し、こちらはかなり調的です。バルトークの不協和音を多用する作風がアメリカでは受け入れられなかったため、このように作風が変化した(軟化した)とも言われています。

 

■まとめ

バルトークは説明可能な理論に基づいて作曲をしていますが、その活用方法は必ずしも厳密ではなく、ある程度の自由度を持っています。
これが私たちがバルトークの作品をアナリーゼするときに戸惑う部分の一つかもしれません。

例えばメシアンの移調の限られた旋法をメシアン自身が作品の中で用いる際に、「ここはこうした方がかっこいいかな」という理由で対称性をずらしたとしたら、それは不可逆性という彼自身が打ち立てたコンセプトを自ら破壊していることになります。メシアンはそのようなことはしないでしょう。

バルトークは説明可能で明確な作曲技法を用いながらも、それを時として自由に扱うためそのことが分析を難しくする場合があります。

バルトークのフーガにおいても対旋律が維持されるかされないかという二択ではなくその時々に応じて自由に変更が加えられます。


これを Searleは高く評価していて、例に出したストラヴィンスキー対位法に見られる硬直した手法(オスティナートで声部を反復する手法のこと)とも、ミヨーのポリトーナル+数学的な厳密さを重視する手法(各調の声部を3拍・5拍・7拍などに機械的に並べる手法のこと)とも違い自由で柔軟なものであると述べています。



理論全般においても同様で柔軟と言えば確かにそうですし、恣意的に常に素材を扱い統一感がないと言えばそれも当てはまります。

ある人はこれを「柔軟な発想をする天才だ」と持て囃し、別の人は「統一性がない、矛盾している」としてマイナス評価を下します。これは非常に難しい問題で理論的には統一した方が整合性は取れますが、それが音楽として「カッコよいかどうか」は別問題です。

しかしその「カッコよさ」は個人の趣味嗜好の問題であり、万人に共通するものではありません。ある人が美しいと感じても、別の人は共感しないかもしません。

その一方で、統一された理論は、誰もが同等の基準として理解することができます。


バルトークが自身の作曲技法の理論を積極的に語らず、理論武装もしなかったのは、もしかすると、自ら理論を明確にした場合に理論との矛盾を第三者に突かれることを嫌ったからなのかもしれません。

 

独自の作曲技法を持ちながらも、その都度それを自由に変形したり、破ったりするバルトークのやり方は、良く言えば自由で柔軟、悪く言えば自己矛盾や理論破綻とも言えます。

この点は、次に扱う予定のヒンデミットとは、まさに正反対と言えるでしょう。

 

 

次回に続きます。

 

 


作曲・DTMの個人レッスンの生徒を募集しています。 
 

このブログの書き主の自宅&skypeでマンツーマンレッスンをしています。 

(専門学校での講師経験があります) 詳しくはこちらをどうぞ。    

公式サイトhttp://uyuu.jp/


電子書籍ですが作曲・DTM関連の書籍も書いています。  


 作曲基礎理論~専門学校のカリキュラムに基づいて~

オススメ(作曲の基礎理論を専門学校レベルで学べる本です)

 

 汎用アレンジ~専門学校のカリキュラムに基づいて~

(様々な楽器のアレンジの基礎を専門学校レベルで学べる本です)

 

楽曲分析(アナリーゼ)のやり方(上巻)

(ポピュラー理論を土台にアナリーゼ技法の習得を目指します)

(Kindle専売ですが、PDFもダウンロードして頂けます)

 

楽曲分析(アナリーゼ)のやり方(中巻)

(ポピュラー理論を土台にアナリーゼ技法の習得を目指します)

 

楽曲分析(アナリーゼ)のやり方(下巻1)

(ポピュラー理論を土台にアナリーゼ技法の習得を目指します)

 

楽曲分析(アナリーゼ)のやり方(下巻2)

(ポピュラー理論を土台にアナリーゼ技法の習得を目指します)

(Kindle専売ですが、PDFもダウンロードして頂けます)

 

 

パソコンで始める日本一簡単なDTM作曲本

(初心者向けの作曲導入本です)


DTMマスタリングのやり方

(マスタリングのやり方を基礎から解説した本です)


DTMミキシングのやり方
(ミキシングのやり方を基礎から解説した本です)

 

大作曲家のアナリーゼ(1)~水の戯れ(ラヴェル)(Kindle版)

 

大作曲家のアナリーゼ(2)~亡き王女のためのパヴァーヌ(ラヴェル)(Kindle版)

 

大作曲家の作品アナリーゼ(3)~牧神の午後への前奏曲(ドビュッシー)(Kindle版)

ポピュラー理論を活用したラヴェルの水の戯れの楽曲分析(アナリーゼ)本です

 

ヒンデミットの作曲技法とアナリーゼ(Kindle版)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

前回の続きです。

 

ミヨーの章は対位法の説明というよりも、ポリトーナルとそれをミヨーがどう扱っているのか?の説明であり、対位法の説明としてはやや薄いです。

 

ポリトーナルとは?その起源は?みたいなことが最初にざっくり浅く書かれていますが、調の違う複数のメロディーを並べるとポリトーナルとしての対位法になり、ミヨーがそれをどう扱ってきたのか?というのがこの章の説明になります。

 

 

■室内交響曲第4番第1楽章より

 

Symphonie de chambre (室内交響曲)とかLittle (Chamber) Symphony(小交響曲)などと呼ばれますが、4番の最終楽章がわかりやすい意味でのポリモーダルになっています。

 

楽譜の下段からどんどん声部が入ってきますが、その内訳は以下の通りです。

 

コントラバス2  (F) 第一主題 開始声部

コントラバス1  (C) 第一主題 以下時間順に↓ 

チェロ2    (G) 第一主題

チェロ1    (D)第一主題

ヴィオラ2   (A)第一主題

 

ヴィオラ1   (A) 第二主題

ヴァイオリン4 (D) 第二主題

ヴァイオリン3 (G) 第二主題

ヴァイオリン2 (C) 第二主題

ヴァイオリン1 (F) 第二主題

 

 

これは二つの主題による10声部のカノンで、最初にコントラバス2が KEY-F で第1主題を奏し、そこから模倣声部が五度圏で合計5回にわたって KEY-F → KEY-C → KEY-G → KEY-D → KEY-A と移行しながら、ポリトーナルに第1主題が提示されます。

ここまでで合計五つの調が同時に存在していますが、声部が入る瞬間を除けば、人間が五つの調を同時に認識できるかどうかはかなり疑問です。少なくとも私には、すべてを個別に認識することはできません。

続いて、第1主題が最後に到達した KEY-A から第2主題が始まり、今度は五度圏を逆戻りします。
第2主題は KEY-A → KEY-D → KEY-G → KEY-C → KEY-F となっており、最初の第1主題の調(F)に戻ります。

やっていることは非常に単純で、ETUDEというタイトルどおり、芸術作品というよりはポリトーナルの実験曲のような印象です。

28小節目からは、これまでとは逆のことが起こり、楽譜の上段から第1主題が五度圏で5回、第2主題が五度圏の逆戻りで5回提示され、冒頭とは真逆の配置となる鏡面構造になっています。

構造がわからないと不協和のきつい曲ですが、中身がわかってしまえば、特にどうということはありません。

ポリトーナルは登場当初、新しい概念として作曲家にもてはやされ、現在でも使用する作曲家はいますが、このような露骨な使い方が芸術的に価値を持つのかについては、個人的には疑問です。

100年前であればネタとしては面白く、新しい作曲上のアイデアでもありましたが、今日においてどのように評価されるかはやはり疑問が残ります。

 

 

■同曲 第1楽章より

 

 

 

同曲 第1楽章冒頭

 

編成は4ヴァイオリン、2ヴィオラ、2チェロ、2コントラバスです。

このうち冒頭は下記のような三層構造のポリトーナルと判断出来ます。

 

高音域 KEY-C(ヴァイオリン2と3)

中音域 KEY-E♭m(ヴァイオリン4、ヴィオラ1)

低音域 KEY-C(チェロ1と2、コントラバス2)

 

 

これはポリトーナルだと分かりやすい方ですが、人によってはただの不協和にも聞こえるでしょう。この楽章は色々な調の組み合わせが続きますが、興味があれば楽譜をアナリーゼしてみましょう。

 

しかしその調さえわかってしまえばアイデア自体は単純で、それぞれの調のフレーズがどのくらい協和するのか?不協和なのか?は作曲家の裁量によって自由に決めることができ、明確なルールが存在するわけではありません(敢えて言うなら作曲家の決めたアイデアがルールです)。

 

 

 

■同曲 第2楽章より

 

 

同曲 第2楽章冒頭

 

2楽章はコラールで緩徐楽章になります。楽譜部分のポリトーナルの内訳は以下の通りです。

 

高音域 KEY-Fm(ヴァイオリン1つ2と3)

中音域 KEY-C(ヴァイオリン4、ヴィオラ1)

低音域 KEY-E♭m(ヴィオラ2、チェロ1と2)

 

中音域はKEY-Cなのにラ♭が現れますが、これは属9の和音の♭9thです。これも今までと同じでアイデアは単純です。楽譜をよく見て何の調なのかという調判定を行うことが出来れば簡単に把握出来ます。

 

 

■エウメニデス  Op. 41  終曲より

Les euménides, Op. 41 終曲

 

基本的な考えは先ほどのSymphonie de chambre (室内交響曲)第4番と同じですが、こちらはもっと調的にも対位法的にもかなり複雑さを増しています。

 

上段3声部合唱 KEY-B

中段4声部合唱 上からKEY-B、KEY-A、KEY-E♭、KEY-D♭

管弦楽上段   KEY-E♭

管弦楽中段上  KEY-E→KEY-B

管弦楽中段下  KEY-A♭

管弦楽下段   KEY-E 

 

これはもしピアノで全部のパートを弾いたらとんでもないことになるでしょう。声楽やオーケストレーションによる音色の分離も考慮に入れなければなりません。

 

また譜面を全部掲載すると大変ですので概要だけを書き出すと、ポリトーナル技法による複数の調性が同時に並行するのに合わせて、複数の拍子、すなわち2小節・3小節・5拍・7拍・14拍などの別々の周期単位が混在 し、この部分はすべてがオスティナートで構成されています。

 

この部分はポリリズム+ポリトーナルの組み合わせで、感性よりも数学的・幾何学的に作られたある種の機械的対位法です。

 

この種の書法は好みが別れます。音楽としては機械的で不自然ともいえるし、数学的・劇的という意味では効果的とも言えます。

 

 

■ポリトーナルを学ぶ意味はあるか?

多調のコンセプト自体は非常に単純です。また歴史的にはミヨーがその発案者であるとも言えないのは事実です。

しかしミヨーはポリトーナルを多用した作曲家として、特に若い頃にはこの手法を非常に前衛的に用いました。年齢とともにポリトーナル的な作風は、少なくとも前衛的に、積極的に、実験的には用いられなくなっていきます。

Searleは本文中で「ミヨーは最近のほとんどの作品において、多かれ少なかれ多調的作法を放棄しているという事実からみれば、この様式の作曲法が今日なお研究に価するかどうかという点についての疑問が残る」と述べています。

たしかにそのようにも見えますが、完全に放棄したというよりは使い方が穏やかになり、ポリトーナルをわかりやすく前面に押し出さなくなっただけのようにも思えます。

この道の第一人者であるミヨー自身ですらポリトーナルを次第に下火のものとして扱うようになっていった以上、いまさら私たちがこれを学ぶべき価値があるのかどうかについては疑問が残ります。Searleも本家のミヨーがやらなくなったのに、私たちが学ぶ意味あるのか?と問題提起しています。


一方で彼はポリトーナルを用いる作曲家は多いものの、そのほとんどは局所的な使用にとどまっており、ミヨーのように長時間にわたって、一貫して体系的に、しかも半音階的要素を含めてポリトーナルを体系的に用いる作曲家は(当時は)存在しなかったため、ポリトーナルの使用法の基準点としてミヨーを学ぶ価値があるとも述べています。

 

 

■全音階に吸収された?

かつては特別なコンセプトとして持て囃されたポリトーナルですが、今日においてはかつてポリトーナルと呼ばれたテクニックの一部は通常の調性に組み込まれていきました。例えばペトルーシュカ和音は今日ではオルタードコードとして説明が可能なのはその代表例でしょう。当時凄かったことは、現代ではもう凄くはありません。

 

 

また下の譜例のような調号の近いポリトーナルは、現代では(広い意味での)調性の範疇で説明が出来るようになってしまいました。

 

 

 

この譜例は私の作曲基礎理論のポリトーナルを説明しているCHAPTER24 からの抜粋ですが、旋律がKEY-C、伴奏がKEY-Gmとたしかに言えばそうですが、実際にそのように聞こえるのかどうかは疑問です。

 

これはポリトーナルとも言えますが、すべてを借用和音やモーダルインターチェンジで説明することも可能です。

 

ポリトーナルだと言い張りたければ、調号の遠い調同士で行わないと効果が低いというか、ポリトーナルとして成立しにくい時代に現代はなっています。

 

 

■ポリトーナルはそもそも成立するのか?

 

下の譜例はシマノフスキの弦楽四重奏です。4つのパートの調号が全部違う点に注目して下さい。

 

シマノフスキ 弦楽四重奏1番

 

楽譜を見た感じは調号が違うのでインパクトがあります。

少なくともこの曲が書かれた当時は面白い試み、新しい試みとして受け取られました。

 

しかしこれが本当にポリトーナルに聞こえるのか?KEY-C、KEY-E♭、KEY-F#、KEY-Aと4つの調が本当に認識できるのかどうか?をSearleは調号なしで書き換えて、私たちに問いかけています。

 

 

上の譜例を調号なしで記譜したもの

 

調号なしでスコアを見ると、なるほど、あんまりポリトーナルに見えないです(聴こえもしない)。

 

調号のインパクトに引きずられがちですが、聴こえてくる音はむしろ不協和であり、Searleはポリトーナルは理論・記譜・構造の問題であって、聴覚のレベルでは必ずしもそのまま成立しない場合が多いと述べています。私も同意見です。ヒンデミットもシェーンベルクもそう言っています。

 

 

これはシェーンベルクの和声法の本で述べられているschwebende Tonalität(浮動する調性)であり、耳に聞こえてくる音としてはポリトーナルとは言い難いでしょう。ポリトーナルなのはシマノフスキのコンセプトと譜面だけです。

 

 

作曲家はコンセプトとしてはポリトーナルを設計できますが、聴き手がそれを4つの調として聴くか?は別問題であり、むしろ調が揺れ動くように感じるのではないかと思います。

 

 

ヒンデミットはポリトーナルを明確に否定していますが、さすがにそれは言い過ぎとしても果たして本当にそのように聞こえるのか?効果的なのか?記譜だけ、概念だけの手法になっていないか?は私たちがこの技法を用いるときに注意しなければいけないポイントです。

 

 

手法的にはある種のアウトサイドのようにも聞こえるので刺激的な効果を得られますが、ポリトーナルがずっと一貫して続くと、それに耳が慣れてただの不協和だらけの音楽になってしまいます。

 

 

現代人が上手く使うには使う長さ、種類、場所などをよくよく吟味する必要があると思います(私は完全否定派ではありません)。

 

現代人はそもそも多調とは本当に成立するのか?というところから考えなければいけないでしょう。

 


理論上は立派に見えても、実際には聴覚上は成立していないというケースに陥らないように、よくよく注意しなければいけません。。

 

 

異なる調が同時に現れると確かに新鮮で異質な印象を与えるかもしれませんが、2つ以上の調を同時に明確に聞き分けることは、絶対に不可能とは言いませんが、非常に困難であると思います。

 

 

こんなことは現代の多くの作曲家は「そんなこと言われなくてもわかってるわ」と言うでしょう。実際ポリトーナルは現代において主流とは言い難いですし、欠点も良く知られています。

 

 

近代和声の手法としては学習すべきですが、現実の作曲ではほとんど顧みられなくなった理由は既に述べた欠点を作曲家が理解しているからでしょう。

 

しかしポリトーナルは現代音楽の発展に重要な影響を与えた技法であり、全く無価値ではありません。上手く使えばいくらでも効果を上げられるテクニックです。

 

 

ポリトーナルを表現の完成形ではなく、一つの技法として、またクラシック音楽は伝統なのでミヨーの多調がどのように用いられているのかを知っておくことは重要であると考えます。

 

 

次回に続きます。

 

 


作曲・DTMの個人レッスンの生徒を募集しています。 
 

このブログの書き主の自宅&skypeでマンツーマンレッスンをしています。 

(専門学校での講師経験があります) 詳しくはこちらをどうぞ。    

公式サイトhttp://uyuu.jp/


電子書籍ですが作曲・DTM関連の書籍も書いています。  


 作曲基礎理論~専門学校のカリキュラムに基づいて~

オススメ(作曲の基礎理論を専門学校レベルで学べる本です)

 

 汎用アレンジ~専門学校のカリキュラムに基づいて~

(様々な楽器のアレンジの基礎を専門学校レベルで学べる本です)

 

楽曲分析(アナリーゼ)のやり方(上巻)

(ポピュラー理論を土台にアナリーゼ技法の習得を目指します)

(Kindle専売ですが、PDFもダウンロードして頂けます)

 

楽曲分析(アナリーゼ)のやり方(中巻)

(ポピュラー理論を土台にアナリーゼ技法の習得を目指します)

 

楽曲分析(アナリーゼ)のやり方(下巻1)

(ポピュラー理論を土台にアナリーゼ技法の習得を目指します)

 

楽曲分析(アナリーゼ)のやり方(下巻2)

(ポピュラー理論を土台にアナリーゼ技法の習得を目指します)

(Kindle専売ですが、PDFもダウンロードして頂けます)

 

 

パソコンで始める日本一簡単なDTM作曲本

(初心者向けの作曲導入本です)


DTMマスタリングのやり方

(マスタリングのやり方を基礎から解説した本です)


DTMミキシングのやり方
(ミキシングのやり方を基礎から解説した本です)

 

大作曲家のアナリーゼ(1)~水の戯れ(ラヴェル)(Kindle版)

 

大作曲家のアナリーゼ(2)~亡き王女のためのパヴァーヌ(ラヴェル)(Kindle版)

 

大作曲家の作品アナリーゼ(3)~牧神の午後への前奏曲(ドビュッシー)(Kindle版)

ポピュラー理論を活用したラヴェルの水の戯れの楽曲分析(アナリーゼ)本です

 

ヒンデミットの作曲技法とアナリーゼ(Kindle版)

 

前回の続きです。

 20世紀の対位法においてHumphrey Searleはストラヴィンスキーの対位法技法に関して、彼の知名度や影響力を認めつつ、やや辛口・辛辣な批評をしています。本文を一部だけ抜粋してみます。

 

ストラヴィンスキーは卓越した対位法的作曲家であるとみなされてきているが、しかし彼は確かに和音の面からよりも、線による表現をより考慮しているとはいえ、彼の対位法は固執反復音(Ostinato)的楽型の使用――疑いもなくロシアの民族音楽独特な語法の暗示による用法――を広範な基礎としているもので、実質的にはむしろ初歩的なものである。

 

(中略)

 

明らかに彼の今日の音楽に対する影響は大きかったし、また確かにそうである。しかしこのことは、彼の音楽における劇的な、また律動的な要素や、彼がオーケストラの効果を自由自在に駆使する力に負うものであって、彼の対位法的技巧に負うものではない。

Constant LambertがちょうどMusic Ho!で述べているように、“彼の旋律形態は、常に極端な程の息の短さや、旋法の本質音から遠ざかっていく不思議な無力さによって特色づけられてきた。

古典的な旋律の本質は、線の継続と楽節間の対照と均衡、および究極的にはそれらへ復帰することを意義と目的とするために、いかにしてどんな場所から離脱するかの可能性にある。” この定義から判断すれば、ストラヴィンスキーは非常に抽象的な旋律作家であり、例21が示すように、彼の対位法はしばしば、わずかな和声的不協和によって興味を深めた18世紀の経過音旋律の作品を、単に混成したのみのような姿に陥っているといえよう。
 

それ故に、ストラヴィンスキーは、対位法的作曲家という言葉の真の意味の当てはまる人ではないという私の主張は正しいと思う。

それ故に、ストラヴィンスキーは、対位法的作曲家という言葉の真の意味の当てはまる人ではないという私の主張は正しいと思う。

Humphrey Searle



■前提条件①
著者のHumphrey Searle(サールとセアールがネットに混在するのでSearleと書きます)はイギリス人ですが、ドイツでヴェーベルンに学び、ゴリゴリの12音技法信奉者です。

そして彼が生きた時代、今でもそうですがロシアとイギリスは仲が悪いです。

 

つまりドイツ的思想を持ったロシアと仲の悪いイギリス人が書いた本ということを割り引いて読まねばなりません。

 

ストラヴィンスキーはロシア民謡、あるいは民謡に根差した語法を多用しますが、Searleは民族的な語法を多用するストラヴィンスキーを一段下に見ているような気がします。

 

Searleは20世紀の対位法の中でイギリスの近代音楽評論書であるMusic Ho! A Study of Music in Decline(音楽よ!衰退する音楽の研究)を引用していますが、この本の著者Constant Lambert(イギリス人)もストラヴィンスキーをボロクソ言っています。

 

Music Ho!は著作権が切れていますので、ネットで無料で読むことが出来ます。

 

 

特に原始主義時代のストラヴィンスキーは、オスティナートが多かったり、ロシア民族的な反復語法が多かったり、主題の静的構造が多く、これらはみな民謡に由来しています。そしてそれと対位法的な様式を結び付けています。

 

 

ストラヴィンスキーはバルトークと違って、自身が民謡を多用していることを大っぴらには語りたがりませんでしたが(少なくともバルトークみたいに大々的には発表しなかった)、Searleから見れば、民謡に基づく対位法的な手法は、たとえそれが線対線の技法であったとしても、ドイツ・オーストリア的な主題展開や伝統的な古典対位法の視点からは、真の対位法とは見なすことができなかったのでしょう。

 

 

この視点は、たしかにドイツ・オーストリアの正統派クラシック音楽を学んだ Searle から見れば、決して間違った主張とは言えませんが、それが音楽技法として私たちの好みに合うかどうか、かっこいいと感じるか、あるいは優れているかどうかは、また別の問題です。 

 

 

誤解しないでほしいのは、Searle はロシア音楽そのものを否定していないし、ストラヴィンスキーの知名度や影響力を否定しているわけでもなく、あくまで対位法という限定された視点から、「民族音楽要素」「本能的」「原始的」「劇場的」「構造より効果」を主体とするストラヴィンスキーの音楽を、国家バイアスもあってか、やや下に見ているように読める、というだけです(辛口ではあるが、不誠実とまでは思いません)。

 

 

リズムに関しては、むしろ対位法の重大要素であり、その視点からは褒めてもいます。 しかし今日ストラヴィンスキーの代表作とされる作品群の中(特に原始主義時代のものの評価が高い)を見るなら、対位法が主体であるとはとても言えないため、Searle の言い分には概ね賛同できます。

 

 


■前提条件②

ストラヴィンスキーの和声法については20世紀の対位法ではタイトル通り全く触れられていません。私は過去に勉強したことがあり、またレッスンでも希望者の方がいればストラヴィンスキー和声法について教えていますが、この本はストラヴィンスキーの和声法を(少なくともある程度は)理解している前提で書かれているようなところがあります。

 

少なくとも譜例を見て和声的に分析がある程度出来ないと難しい部分があるかもしれません。本書中の課題でも何の解説もなしに和声分析の課題がありますが、もし興味が湧いて原著を読みたくなったら和声分析も是非してみてください。

 

和声分析を行わないと本書の学習価値は半減してしまいます。

 



■ストラヴィンスキーの対位法①

・ペトルーシュカより

 

 

ペトルーシュカ スコアマーク88

 

ペトルーシュカのオケスコアを見ると音符がドバーっと書いてあって複雑に見えますが、下の譜例のように簡略化することが出来ます。



簡易的にピアノリダクションしたもの

Searleは本質的にストラヴィンスキーを対位法的な作曲家とは見なしていないのも、こういうのを見れば当然で、実質これは単純な2声対位法に属しています。声部が和音化されているストラヴィンスキーが良く使うコードストリームですが、複雑な対位法を駆使しているとは言い難いです。

 

声部進行が実際には並行進行の和音群の形をとっているコードストリームであり、真の対位法と見なすことは出来ないというのは多くの人が思うところでしょう(しかしそれと音楽のカッコよさは別です)。

 

 

 

・春の祭典より

 

春の祭典 冒頭

 

春の祭典を見てみましょう(和声分析もしてみましょう)。譜面を見るとなんか対位法っぽいぞ?複雑で線的な技法によって書かれているじゃないか?と思うかもしれません。

 

しかし、それはそう見えるだけであって、実際はそうではなく、ファゴットの有名な主題の対旋律として、2~4小節のホルンとクラリネットの動きは実はペダルです。ペダルに装飾を入れて、幾分か動かすと対位法っぽく見えます。ピアノリダクション譜面を見てみましょう。

 

 

 

春の祭典 冒頭 ピアノリダクション

 

第2ピアノのド#またはレ♭は刺繍音を伴いますが、本質的にはペダルです。4小節目からはレ♭に4度のハモリがついて、それが半音下行していく旋律と伴奏構造です。これを真の対位法とは言えないでしょう。

 

 

興味深いのはオケスコアは対位法的発展を暗示するかのように巧みな技法で書かれている点です。装飾をたくさんいれたりすると、なんとなく対位法的に見えるという良いでしょう。

 

 

 

春の祭典 開始からすぐ後のスコアマーク8

 

引き続き春の祭典ですが、譜面を見るとなんとなく対位法っぽいかな?と感じなくもないですが、民謡的な手法に基づいてオスティナートであること、1声部のみが綿密に書かれてあるのを除き、他の声部が2小節が直接反復しているのをみれば、本質が対位法にないことがわかります。

 

 

ピアノリダクション

 

リダクション譜面を見るとそれはよりわかりやすくなります。春の祭典はロシア民謡の直接、あるいは非直接の引用が多いのですが、こういう部分がSearleから見ると、本当の意味で対位法とは言い難いと感じるのでしょう。

 

 

ほかにも引用はいくつかできますが、主張は基本的に同じになります。たくさんの譜面を見て、一見対位法的に見えるけど、実際はそうでもないというのはストラヴィンスキーには多く、また対位法じゃない構造を対位法っぽく見せるのに長けているストラヴィンスキーの技法は個人的には学ぶべき部分があると思っています。技法としては理解し、習得しておいて損は何もありません。

 

 


■詩編交響曲より

 

しかしストラヴィンスキーにも真面目な対位法的な試みはあります。詩篇交響曲の2楽章は二重フーガで書かれており、ストラヴィンスキーの個性が出たドイツ・オーストリア的な意味での対位法と言えます。

 

 

 

詩篇交響曲2楽章 スコアマーク5から

 

問題にしている部分は詩篇交響曲の2楽章の(自由な)2重フーガの第2主題(合唱)が出てくる部分です(和声分析もしてみましょう)。この部分は5声フーガから始まり、Dux→Comes→Duxと続いて8声対位法になります。

 

 

同楽章の冒頭の第1主題

 

 

この2重フーガの第1主題(上の譜例)が第2主題提示においてバス声部として対旋律の役割をしていますが(チェロとコントラバス)、比較的少数の音・似たようなで旋律を回していて、旋律がどこにも向かわないような感じです。進行感が弱いというか線は動くけれども発展はしません。

 

 

Searleはこのようなストラヴィンスキーの手法をストラヴィンスキーの対位法に、その不思議な静的な特徴を与えるのはこれであると述べていますが、同じような動きをする管弦楽のアルトやテノールの傾向にも注意すべきと言っています。

 

 

ほかの声部はバスよりは動きがありますが、声部を歌ってみると言いたいことはわかります。これはストラヴィンスキー対位法の特徴の一つでしょう。

 

線は動いているが、主題が巡回的で、和声が全音階的で安定、半音階は装飾的に過ぎず、音楽全体の力学的には動いていないという構造になっています。

よく言えば静的、悪く言えば動きがなくて面白くないという構造をもちろんストラヴィンスキーは意図的にやっているはずですが、フーガの形式を使ってはいても、バッハやベートヴェン的なフーガの力学を活用しているか?していないか?と言えばしていないことになります。

 

 

 

この2重フーガにはバッハやバルトークなどに見られる様式上の本当の意味での緊張は見れないと言えるでしょう。各声部が独立して動いていますが、それが緊張を生み、わかりやすい終止によって区切られ、全体が建築的に構築されるといういわゆるドイツ的な構造にはなっていません。

 

私はこれはこれでありと思いますが、ドイツ的な価値観を持っているSearleから見れば、正統派の対位法ではないと感じるのでしょう(たしかに正統派ではありません、ロシア的というよりはストラヴィンスキー固有の手法かと思います)。

 

 

 

■ミサ曲より

 

 

ミサ曲 スコアマーク③から

 

ミサ曲は66歳ごろの作品ですが、スコアマーク③の箇所からのオーボエやバスーンのオスティナート的なフレーズに合わせて対位法的な声部を書くというテクニックは若いころの春の祭典と同じです(和声分析もしてみましょう)。

 

良く知られているようにストラヴィンスキーの作風は3期に分類され、作風時代は年齢とともに変わりましたが、対位法的な技法のみに焦点を当てるなら一生を通してあまり変化はしなかったことがわかります。

 

 

■オルフェウスより

オルフェウスの間奏曲2 ストラヴィンスキーの晩年の作品で65歳です。

 

この不気味で力強い始まりをする間奏曲の冒頭はコンビニションをディミニッシュスケールから開始します(和声分析もしてみましょう)。

 

この曲は和声分析が通用しますが、半音のぶつけや音を跨ぐ先取音、(転調でもないのに)対斜、解決なしの7thや9thのテンションが対位法的な魅力を少数声ながら生み出していますが、声部数が少なく旋律線も単純なのであまり対位法的には見えません。

 


古典的見地から見て面白いのは、また近代的な見地から見て当たり前のは、ストラヴィンスキーが7度や9度を解決が必要な不協和と見なしていない点でしょう。

 

 

協和音が重要な拍に出てくるという一般的な全音階音楽の原則はここでも守られていますが、同時に古典時代よりもずって発展的な和声感覚を持っていることが譜面を見るとわかります。

 

ワーグナーなどのように転調を多用すれば対斜が多用されるのは理解できるのですが、ストラヴィンスキーは普通の全音階で対斜が多用しています。これはおそらく意図的な不協和を狙っているのでしょう(不気味な感じの曲ですので)。

 

 


■ストラヴィンスキーの対位法

冒頭に書いたようにSearleはストラヴィンスキーを対位法の大家として認めてはいません。

たしかに対位法だけに焦点を当てると例えばバッハやバルトークのような建築的な堅実さはないや構造的な緊張感を作り出すのは苦手なのか、意図的にやっていないのか、それともそういうことに興味すらないのかわかりませんが、作風としてはSearleの述べていることが間違っているとは思えません(でもストラヴィンスキーにも明らかに対位法的な視点から作られたフレーズはいくつもあります)。

 

 

但し詩編交響曲のような真面目な対位法的な取り組みもあり、この曲における8声の2重フーガはストラヴィンスキーの対位法の中でも特にオーケストレーションの巧みさと合わせて、個性が光るものだと個人的には思っています。

 

 

Searleは形式的にフーガやカノンを使ったから、ただ線対線の動きになっているから、という表面的な理由だけでは本質的な意味での対位法とは見なしていません。

 

Searleの述べる対位法とは独立した声部が相互に和声的緊張を生み進行を作るものであって、形式としてフーガやカノンを使っても、それが和声様式に基づくものであったり、その声部が旋律として成立し独立しているとは言い難かったり、横の流れによって調性を揺していなかったり、緊張→解決の対立がないものを本当の意味での対位法とは考えていないという点を理解した上で彼の言い分を聞く必要があります。

 

この見地から見るとストラヴィンスキーの対位法はこのようなドイツ的な考えに立脚していないのは明らかです。

 

私たちがフーガやカノンなどの対位法様式で曲を書くときも、ただその形式を使って書くだけなら誰にでも出来ますが、バッハやバルトークのような本当の意味での様式的な緊張を作り出せるかは話が別です。

 

 

しかし詩篇交響曲のこの8声のフーガは個人的にとても優れていると思います。

 

詩篇交響曲  8声フーガのバス声部入りの部分

 

合唱のバス声部(メゾフォルテが付いてる)がこの2重フーガの第2主題です。ここで第2主題の提示部が終わります。

 

こういうのはさすがにSearleも見事と認めざるを得ないでしょう。和声的な見地に立脚しているのは見ればわかりますが、それでも対位法らしい横の流れを優先して和声を(少なくともいくらかは)崩しているように見えます。

 

普通に和声付けは出来ますが、8声の対位法ともなれば声部が単純に多く、また動かそうとすれば必ずぶつからざるを得ませんが、素晴らしい、譜面を見ただけで只者じゃない感溢れる近代的なフーガだと思います。ただこういうフレーズはストラヴィンスキーの真骨頂ではありません。

 


■ストラヴィンスキーの対位法

対位法という視点のみから一人の作曲家を見ることは価値あることです。

他の余計な要素を全部無視して、1つの面だけを深く見つめることでより理解が深まるという点を否定することは出来ません。

 

しかしだからと言って全体を俯瞰しないのも良くありません。

 

ストラヴィンスキーの真骨頂は、少なくとも今日評価されている原始主義時代の作品群において、私たちが学ぶべき点としてはロシア民謡の活用法やポリトーナル・ポリモーダル、ボイシング、リズム、汎調などの特殊な手法、そしてオーケストレーションなどにあると思います。

 

もし和声法と対位法の2台巨頭のうち、どっちがストラヴィンスキーの比重が偏っているかと言われたら、それは個人的には和声法よりと答えたいのですが、もしストラヴィンスキーを理解したいなら先にそちらを済ませてから、対位法側に取り組んだ方がより多くのものを得ることが出来るはずです。

 

20世紀の対位法でSearleがストラヴィンスキーに言ってることはむしろ批判だよね、と思います。

 

 

■まとめ

ここで述べられている内容や譜例は原著に対してかなり省略しており、私の主観が相当入っています。

 

原著の中では和声分析が出来ることが前提であり、内容を理解するには①引用されている譜例の楽譜を入手して、②自分で和声分析をし、③さらに対位法的な視点から曲を見ることが必要です。

今回私が記事内で挙げた譜面も是非和声分析してみてください、

 

 

①の楽譜入手は簡単ですが、②の和声分析は個人の音楽の理解度に依存し、③は基本的に原著の中で事細かく述べられているわけではなく要点と言った感じです。

 

 

しかしその要点だけでも、何も拠り所もなしにストラヴィンスキーの対位法をただ楽譜だけを見て知ろうとするよりはヒントになるのは間違いないはずです。

 

そこまで詳しく解説しているわけではなくですが、厳格対位法ではなく、近代音楽の対位法に興味がれば是非原著をご覧になってください。

 

 

続きます。

 


作曲・DTMの個人レッスンの生徒を募集しています。 
 

このブログの書き主の自宅&skypeでマンツーマンレッスンをしています。 

(専門学校での講師経験があります) 詳しくはこちらをどうぞ。    

公式サイトhttp://uyuu.jp/


電子書籍ですが作曲・DTM関連の書籍も書いています。  


 作曲基礎理論~専門学校のカリキュラムに基づいて~

オススメ(作曲の基礎理論を専門学校レベルで学べる本です)

 

 汎用アレンジ~専門学校のカリキュラムに基づいて~

(様々な楽器のアレンジの基礎を専門学校レベルで学べる本です)

 

楽曲分析(アナリーゼ)のやり方(上巻)

(ポピュラー理論を土台にアナリーゼ技法の習得を目指します)

(Kindle専売ですが、PDFもダウンロードして頂けます)

 

楽曲分析(アナリーゼ)のやり方(中巻)

(ポピュラー理論を土台にアナリーゼ技法の習得を目指します)

 

楽曲分析(アナリーゼ)のやり方(下巻1)

(ポピュラー理論を土台にアナリーゼ技法の習得を目指します)

 

楽曲分析(アナリーゼ)のやり方(下巻2)

(ポピュラー理論を土台にアナリーゼ技法の習得を目指します)

(Kindle専売ですが、PDFもダウンロードして頂けます)

 

 

パソコンで始める日本一簡単なDTM作曲本

(初心者向けの作曲導入本です)


DTMマスタリングのやり方

(マスタリングのやり方を基礎から解説した本です)


DTMミキシングのやり方
(ミキシングのやり方を基礎から解説した本です)

 

大作曲家のアナリーゼ(1)~水の戯れ(ラヴェル)(Kindle版)

 

大作曲家のアナリーゼ(2)~亡き王女のためのパヴァーヌ(ラヴェル)(Kindle版)

 

大作曲家の作品アナリーゼ(3)~牧神の午後への前奏曲(ドビュッシー)(Kindle版)

ポピュラー理論を活用したラヴェルの水の戯れの楽曲分析(アナリーゼ)本です

 

ヒンデミットの作曲技法とアナリーゼ(Kindle版)

 

 

 

前回の続きです。今回も感想というか、近代的な対位法を勉強している方のために私なりの解説をしてみます。

 

第2章の半音階的対位法の発展で述べられていることは大きく分けて2つあり、1つはバロック時代から始まった調性音楽が後期ロマンに向けて徐々に半音階化していった歴史の解説、もう1つはそれと対位法の関係です。

古典時代から後期ロマンにかけて半音階化が進歩しましたが、それは同時に対位法の復権とリンクしています。

この章は「半音階が対位法を生んだ」のでも「半音階=対位法」なのでもなく、「半音階化によって和声主導の支配が弱まり、対位法的発想が再び不可避になった、自由が生まれたという作曲様式上の変化」を説明しています。

言い方を変えると、音楽の半音階化によって和声主導の設計があやふやになっていき、結果として対位法的設計が重要になっていったということです。

 

 

■半音階の歴史

まず最初にちょっとだけ半音階の歴史についておさらいしましょう。

 

1.半音階の初期の例
ルネサンスの時代は教会旋法が主体であり、もちろん半音階は異例なことでした。

 

この時代は使える調号も、使える異名同音も限られていて、ジェズアルドのような曲は異端中の異端です。

 

 

 

カルロ・ジェズアルド Moro,lasso,al mio duolo(私は悲しみに疲れて死ぬ)

 

ジェズアルドのMoro,lasso,al mio duoloのような半音階は当時としては極めて特殊な用法で、当時の人はもちろん現代人にすら驚きを与えます。

 

ワーグナーみたいな半音階を300年くらい先取りしている点が凄いです。

 


2.バッハにおける旋律の半音階
 

バッハ 半音階的幻想曲とフーガ BWV903 
 

 

 

バッハ:平均律クラヴィーア曲集第1巻第24番フーガ

 

バッハにも例外的ですが半音階をテーマにした作品があります。

 

バッハは半音階的主題(12音すべてを含む)を用いながらも、それを非和声音として処理しており、半音階はあくまで調性の内部、和声的装飾として調性を破壊しないレベルで、後年に見られるものよりはずっと抑制された半音階です。

 

古典時代に入っても半音階はいくらかは多用されるようになりましたが、古典時代の半音階は基本的に旋律の装飾として存在し、和声の本質ではありませんでした。

 

3-1. ワーグナー

良く知られているようにワーグナーのトリスタンとイゾルデがロマン派音楽の半音階化の嚆矢と言われています。

 

後期ロマン期の最大の特徴の一つが音楽が半音化していくことですが、その副作用として、和声は次第に複雑化し、結果として機能的な安定性が揺らぐようになっていきます。

 

 

ワーグナー トリスタンとイゾルデ 前奏曲
 

トリスタン和音はとても有名です。
半音階と転調が多用されて調的な安定が音楽の中心原理から離れていきます。

 

しかしワーグナーの場合はまだまだ古典和声分析が通用しますし、頻繁な転調や声部の半音階化はそれまでの時代と比べれば激しいですが、これでいきなり調性崩壊するわけではありません。あくまで嚆矢(きっかけ)に過ぎません。

 

 

3-2.リスト ― 半音階の構造的拡張

リスト 半音階的大ギャロップ

 

リスト 無調のバガテル

 

ワーグナーより2歳年上のリストも、半音階や無調に対して大きな貢献をしています。

リストは減七の和音の多用やその横滑り的な和音進行を用いたり、半音階的対位法によって転調が連続したりするなどして、調性を希薄化するレベルで半音階を用いています。

不協和音が解決されずに放置されたり、あるいはそのまま別の不協和音へ進行したり、伝統的な導音の解決を放棄したり、属和音から主和音への進行を避けるような和声は調性崩壊と大きく関係しています。

 

これらすべてが半音階と直接的な関係があるわけではありませんが、間接的には音楽全体の半音階化と関係しており、機能的な調性を弱体化させるという意味で調性崩壊への過程と深く関係しています。

歴史上最初の無調の曲は、リストが晩年に作った調のないバガテル(Bagatelle sans tonalité, S.216a)と言われています。

 

 

4-1.リヒャルト・シュトラウス 和声主導タイプ

交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」op.30

 

 

ツァラトゥストラはかく語りき 譜例抜粋

 

リヒャルト・シュトラウスは半音階を使いまくりますが、その使い方は主に劇的な表現だったり、情動的効果のためで対位法は本質的に和声基盤があって、その声部を半音階化していることが多いと著者は言っています。

 

表面上は複雑に見えますが、その奥にはちゃんと和声構成がちゃんと見えることが多いです。

 

例えばCコードの中でダイアトニックのミファソというメロディーがあった場合、ミファファ#ソとすれば半音階になりますが、この場合はCコードという明確な和声基盤があり、旋律と半音階で連結されているだけなので、半音階的な効果は表層的・装飾的・色彩的なものになります。全部がそうではありませんが、リヒャルト・シュトラウスの半音階は概ねこういう傾向が強いといえます。

 

 

半音階=Chromaticは「色彩を持つ」「有彩色の」という意味がありますが、まさに文字通りの使い方をしていることがよくあります。

 

 

4-2.レーガー

レーガー オルガンのための12の小品

 

 

レーガー バッハの主題による変奏とフーガ・Op.81

 

 

レーガーまで進むと和声の半音階連結、頻繁な転調が目立ち始めます。

バッハ的対位法+リスト的半音階と言っても良いのかもしれませんが、半音階と転調が過剰になって、ついに調性基盤そのものがあやしくなってきます。

 

 

バッハの主題による変奏とフーガ・Op.81 抜粋

 

レーガーは自分では無調を拒否し、一生涯調性を手放さなかったものの、極端に拡張された調性や半音階的和声、あるいは非機能的進行は20世紀の調性崩壊に向かう過程の決定的な中間点のような役割を果たしています。

 

譜面をみても、「あ、もう大分キテるな、もうちょっとで調性崩壊しそうだな」と感じます。

 

リヒャルト・シュトラウスとの違いは、半音階を表層的・装飾的・色彩的効果として用いるのではなく、対位法的声部進行を通じて和声の基本構造そのものに組み込んでいる点にあります。

 

半音階が機能和声を通して用いられるのではなく、対位法的に連結され、和声進行が 機能ではなく声部の動きから導き出されているように見える箇所がたくさんあります。

 

リヒャルト・シュトラウスは和声が先行し、それが基盤となっている上で半音階を従属的に文字通りChromatic=色彩的効果として用いましたが、レーガーはむしろ半音階的な声部進行が先行して、半音階が音楽の根本的な構造要素になっている点が大きな違いです。

 

 

 

6.マーラーの全音階対位法

 

マーラー 交響曲8番第1部 スコアマーク51の部分

 

マーラーの非和声音用法は半音階的なものも多数ありますが、ここでは全音階での対位法を見てみましょう。

 

興味があればIMSLPでオケの総譜を確認してほしいのですが、上の譜例の4部合唱×2がメインであり、残りの管弦楽パートや少年合唱団はすべて4部合唱のいずれかのパートを重複しています。

 

言うまでもなく厳格対位法で学ぶ8声対位法とは違い後期ロマン風の和声における8声対位法です。

 

ドビュッシーなどにも5声を超える対位法はありますが、あくまで音楽の本質は和声法にあり、フィラー声部などが一時的に分割されて自由な動きをしているのでそう見えるのであって、マーラーがここで行っているような真の8声対位法のような書法はドビュッシーの本質ではありません。

 

マーラーは和声的な傾向を持つロマン的な伝統の中に個々の声部が独立することを、なんちゃってではなく、本当の意味で重視する傾向を持ち込んだ作曲家の一人と言えるでしょう。もう少し後の世代の対位法を重視する作曲家たちに対する先駆者的なところがあります。

 

 

6.十二音技法前のシェーンベルク

シェーンベルク 浄夜

 

 

浄夜はワーグナーのトリスタン和音的なアイデアをもっと進めたようなスタイルで、ここまでくると調性崩壊という到達点がもう見え始めます。ワーグナーの半音階+対位法的な書法を受け継いでいます。

 

 

 

シェーンベルク 弦楽四重奏曲第2番 

 

 

弦楽四重奏曲第2番1楽章  抜粋

 

 

弦楽四重奏曲第2番はこの十二音技法への過渡期時代に書かれたものです。まだ調的な響きを少し残していますが、かなり怪しくなっています。

 

特に4楽章は無調と主張する人とギリギリまだ限界点に留まっていると主張する人に分かれていますが、「耳で聞いた感じ」としては、もう無調でいいかなと思うくらい調性が崩壊しています。

 

 

 

次にシェーンベルクのマーラー的な対位法の例を見てみましょう。ペレアスとメリザンドの中に見出すことが出来ます。

 

 

ペレアスとメリザンド スコアマーク26の部分

 

 

興味があれば総譜を確認してほしいのですが、ここでは細かく技法を分析することが目的ではなく対位法がそれまでの時代に比べて復活しているということを言いたいので、細かい分析を割愛します。

 

 

要点だけを述べるとフルート1の旋律が4声の模倣になっており、クラリネット1の旋律も2声の模倣になっており、ソリのオクターブヴァイオリンがフルート1の旋律を2倍の音価にした旋律を奏で、さらにソロのチェロがまた別の旋律を奏でています。

 

 

つまり4+2+1+1=8声対位法であり、マーラーよりも14歳年下のシェーンベルクも、やはりこういった多声書法によって作曲しています。

 

 

 

2.半音階と対位法の関係

冒頭に書いた通り、和声の半音階化=対位法の使用ではありません。あくまで調性や機能和声=縦の響きの明瞭さが和声の半音階化によって揺らいでくると、そこに対位法という横の流れが入る余地が生まれるというだけの話です。

 

 

和声の半音階化は音楽の組織原理そのものを揺るがしました。

しかしそこに余地があっても、何を入れるか、入れないかは作曲家次第です。しかし結果を見れば、対位法をその隙間に入れた作曲家は多かったと言えるでしょう。


 

特にバッハ復活以降、ロマン期は対位法が再び復権しましたが、

・単に表面上のフーガやカノンの使用に留まった者(フーガやカノンを使っているからと言っても、それが和声基盤に基づくものなら必ずしも対位法的な書法とは限らない)、

・対位法を使っていてもバッハに見られるような本当の意味での対位法的な緊張を持たずに、あくまで和声が主導で作品を書いた者、

・声部の独立を大きく推進して真の対位法的で作品を書いた者、

・和声の半音階化に心を傾けすぎて、声部の必然性が弱まってしまった者、

・和声の半音階化と対位法を突き詰めて調性崩壊へ進んだ者

色々な作曲家がこの時期にはいました。

 

100年以上経過しているので、私たちはこれらを俯瞰することが出来ますが、このようにして歴史を振り返ってみると、リアルタイムでこの時代を生きた人たちの試行錯誤、実験、世間の評価、社会全体の方向性などが見えてきます。

 

 

伝統を受け継ぐという意味ではこれを追体験するのは必要なことですし、マーラーやシェーンベルクのような8声対位法の後期ロマン~近代的な手法を見ると、厳格対位法で5声以上の練習を行う学習者の方も力が入るのではないでしょうか。

 

次回へ続きます。

 

 


作曲・DTMの個人レッスンの生徒を募集しています。 
 

このブログの書き主の自宅&skypeでマンツーマンレッスンをしています。 

(専門学校での講師経験があります) 詳しくはこちらをどうぞ。    

公式サイトhttp://uyuu.jp/


電子書籍ですが作曲・DTM関連の書籍も書いています。  


 作曲基礎理論~専門学校のカリキュラムに基づいて~

オススメ(作曲の基礎理論を専門学校レベルで学べる本です)

 

 汎用アレンジ~専門学校のカリキュラムに基づいて~

(様々な楽器のアレンジの基礎を専門学校レベルで学べる本です)

 

楽曲分析(アナリーゼ)のやり方(上巻)

(ポピュラー理論を土台にアナリーゼ技法の習得を目指します)

(Kindle専売ですが、PDFもダウンロードして頂けます)

 

楽曲分析(アナリーゼ)のやり方(中巻)

(ポピュラー理論を土台にアナリーゼ技法の習得を目指します)

 

楽曲分析(アナリーゼ)のやり方(下巻1)

(ポピュラー理論を土台にアナリーゼ技法の習得を目指します)

 

楽曲分析(アナリーゼ)のやり方(下巻2)

(ポピュラー理論を土台にアナリーゼ技法の習得を目指します)

(Kindle専売ですが、PDFもダウンロードして頂けます)

 

 

パソコンで始める日本一簡単なDTM作曲本

(初心者向けの作曲導入本です)


DTMマスタリングのやり方

(マスタリングのやり方を基礎から解説した本です)


DTMミキシングのやり方
(ミキシングのやり方を基礎から解説した本です)

 

大作曲家のアナリーゼ(1)~水の戯れ(ラヴェル)(Kindle版)

 

大作曲家のアナリーゼ(2)~亡き王女のためのパヴァーヌ(ラヴェル)(Kindle版)

 

大作曲家の作品アナリーゼ(3)~牧神の午後への前奏曲(ドビュッシー)(Kindle版)

ポピュラー理論を活用したラヴェルの水の戯れの楽曲分析(アナリーゼ)本です

 

ヒンデミットの作曲技法とアナリーゼ(Kindle版)