昨日も、仕事が遅くまで掛かって、

帰宅は午前様 (って、遊びじゃないとこが、悲しい汗)。


頭が冴えて、なかなか寝付けず・・・。


母の事を思い出していた。


そうやって、思い出す事が、

供養になるって、ご住職にも言われてるし。


平成6年6月4日午後8時過ぎ、

母は、入退院を繰り返した、

市民病院のベッドで、息を引き取った。


土曜日だった。


金曜日の泊まり込みの付き添いは、私の番で、

土曜日のお昼ご飯を食べさせてあげてから、

ちゃんと意識の有った母に、


「夜は、お父ちゃんが来てくれるから。

私はまた、明日のお昼ご飯の時に来るからね。」


と、告げ、病室を出た。


少し淋しそうに私に手を振った母の姿が、

意識の有る最後の姿だった。


後ろ髪を引かれない訳では無かった。


でももう、何ヶ月も続いていた泊まり込みの看病に、

疲れ果てていたのも事実だった。


当時、何度目かの浮気を反省した旦那さんも、

毎日の様に病室に顔を出してくれていた。


週2回の泊まり込みは、若かったとは言え、

かなりの負担では有った。


何故なら、当時、

父の繰り出す小切手のお金の手配に、

追われる日々でも有ったから。


携帯電話が、普及し始めた頃だったけど、

殆どの人は、まだ持っていなくて、

通話料金も高く、電波状況も整ってはいなかった。

(私は、母の事が有ったので、持ってはいたけど・・・。)


朝、病院の窓口の公衆電話で、

その日の当座の残高を聞くのが、私の1日の仕事の始まりだった。


無機質な機械音で、

マイナス・・・と、始まる度、私の心は、凍えた。


本当に毎日が綱渡りの日々だった。


病室に泊まり込みの日は、

グズる母に付き添って、睡眠時間は、1時間も取れなかった。


それ以外の日は、浴びるほどお酒を飲んで、

酔いに任せて、眠った。


お酒を飲まなければ、眠れなかった。


いつだったか、いつもの様に聞いた銀行の残高が、

1000万を超えていた事が有った。


それも、マイナスの方で・・・・。


さすがにその時は、

母と一緒にこのまま死のうか・・・と、思った。


結局兄が、奔走して事なきを得たけれど、

来る日も来る日も、お金に追われる事に変わりはなかった。


そんな中での、母の死。


そして、その後襲われた、

壮絶な借金取りからの取り立て。


今にして思えば、本当にあの時、

母は、そんな事を知らずに、旅立ってくれて良かった。


毎年、母の命日が近付くと、あの頃の悪夢が頭を過ぎる。


そして今、

こうして生きていられる事に、感謝せずにはいられない。