4月のヨウとのメールの後、

私はまた精力的に仕事に打ち込んだ。


数日間の入院が、

心身ともに、私を生まれ変わらせてくれた。


相変わらず、「おはよう」と、「ただいま」のメールは、

途切れる事無く続いていたけど、


いつの間にか、その愛想の無いメールこそが、

彼の唯一の愛情表現なのだとすら思える程、私の心は回復していた。


ヨウは、子供の頃から親の愛情を知らないで育った人だった。


大人になっても、

継母と実の父親に被せられた借金に、苦しめられていた。


そんな彼が、安らぎを求めて家庭を築いたのに、

2度とも破局で終わっている。


誰より、愛情に飢え、

誰より、愛を求め、

誰より、人を愛そうと、

手探りで探し続けている人だった。


そんな彼が、私に出逢い、

初めて無償の愛を知ったと、言ってくれた。


愛情を表現する事が苦手だった彼が、

いつの間にか、からだ全体で、「愛してる」と、

言える人になっていた。


それは、紛れもなく、私のお陰だと、言ってくれていた。


そんなわたしに、私はやっと戻れた。


離れても、終わった訳じゃない。

別れても、二度と逢えない訳じゃない。


好きになった気持ちや、想い出は、宝箱に残っている。


その事に、やっと私は気付き、

自分の足でしっかりと歩き出せた時、

時間は、2005年の5月になっていた。


連休の頃は、ヨウの仕事は忙しさを増し、

付き合っている頃も、連休のデートは数える程しかなかった。


当時はその事でよく喧嘩になっていたのに、

連休の思い出が少ない事が、

反って気持ちを穏やかにしてくれている事に気付いた。


私は新しい思い出を家族で作る為、

旦那さんに、急遽九州旅行を提案した。


私たちは、若くして結婚したから、

新婚旅行にも行ってはいない。


ただ、私が前の会社で働いている時、

そこの社長が、家の旦那さんを気に入っていて、

年に2回の海外旅行に参加させてくれていた。


旅行と言えばその頃行った海外旅行が殆どで、

夫婦2人切りの旅行は、した事が無かった。


私は、夫婦としてやり直すつもりではなく、

今まで頑張って来たお互いへのご褒美のつもりで、旅行を提案した。


旦那さんは、即座に行くと返事をくれた。


その年から毎年、私たちは夫婦で、

または家族で、旅行する事が常になった。


それまでも、行こうと思えば、機会が無かった訳じゃない。


ただ、ヨウと付き合いながら、夫婦で旅行に行く事に、

とまどいが有って、出来ずにいた。


でももう、ヨウに後ろめたく思う必要はない。


そう、自分に言い聞かせ、

私は旅行の段取りを進めた。


部屋は1つだったが、どうしても同じベッドに眠る事は、

出来ないと思っていたので、ツインの部屋を押さえた。


あくまでも、家族としての旅行であって、

夫婦の旅行ではないと、思っていた。


旦那さんと、肌を合わせる事は、

この先だって、絶対に無いと思った。

(勿論、それは今も変わっていない。)


ヨウとの仲が終わっても、やはり私に取って、

ヨウが、最後の男である事を、変えるつもりはなかったし、

古い歌の文句の様だけど、別れても好きな人だった。


でも、それは2度と、口に出してはいけない事だと思っていた。


日程が決まってから、私はヨウにメールで旅行を告げた。


楽しんで来てください。

と、メールが届いたが、

その頃からヨウのメールが、少しずつ変化し始めた。