義母の別の顔を知ってしまってから、

暫くは義母に会いに行けなかった。


でも、中村氏との事を直接目にした訳ではなかったし、

何より私にとっての義母は、小さい頃から知っていた人ではなく、

旦那さんのお母さん、大人の女性としてからの義母しか知らない。

私の衝撃は、今思えば小さかったのだろう。

いつの間にか、嫌悪感も消えていた。


自分の生活に直接関わってくる事ではない以上、

記憶は自然と薄らぐものだ。


でも、それから数年後の1999年12月に脳梗塞で義母は倒れた。

入院を余儀なくされ、何とか2ヶ月程で退院は出来たが、

生活の糧は義母には残っていなかった。


節約家だったので、かなりのお金を貯めているかと思っていたが、

蓋を開けると、100万ほどの貯金しかなく、年金も掛けていなかった。

(丈夫な人だったので、自分がこんなに早く倒れるとは

考えてもいなかったのだろう。)


仕事が出来ない=収入が途絶える・・・・の図式だった。


それでも、私は長男の嫁として、出来る限りの事をした。

仕事の前と後、毎日病院に顔を出し、身の回りの世話をする。


入院当初、左半身に力の入らない義母は、便を上手く出せなかった。

私は手袋をし、その義母の便を取り出したりもした。


実の娘の友里は、「そんな事は出来ない!看護婦さん

(当時はまだ、看護婦との呼称でした。)にして貰いよ。」

と言い、頑なに下の世話はしなかった。


私は実の母も、祖父も看取ってきた経験から、

下の世話も苦にならずに出来た。


義妹は、住まいも遠かったし、まだ小学生の子供を抱えていたので、

お見舞いすら頻繁には来なかった。


(義母が元気な頃は、近くに住む私たち夫婦より数多く

遊びに来ていたのに・・・・。

多分、その頃の義母には収入があり、

色んな面倒を見てあげられたからだろう。

倒れて、収入の無くなった義母には、義妹の電車賃も出してはあげられない。

実際、私たちと同居して9年の間、

こちらに遊びに来たのは1度だけしかない。)


それでも、精一杯面倒を看た私より、実の娘の方が可愛いのは

当たり前の事だろう。

義母は、退院して暫く私たちの家でリハビリをし、

少し元気になったら、友里の家で住みたい。と、言った。


旦那さんはその言葉を聞き、私に、

「また、やーちゃんにだけ面倒掛けて、

良くなったら友里のとこに行く・・・みたいで、ごめんな。

気ぃ悪いよな?」と言った。

確かにその通りだとも思ったが、私は病人である義母の気持を

最優先にしてあげれば良いと、心から思った。


「オーちゃんがそう言ってくれたら、私の気持も治まるし、血の繋がらない私より、実の娘の方が良いのは当たり前の事やと思うよ。けど、お義母さんが私たちと一緒に住みたいけど、遠慮してるんやったら可哀想やから、おりたかったら、こっちで住んで良いよって、言ったげて。」


「有難う。そう言うてくれて、ほんまに嬉しい。

友里は薄情な奴やから、おかん引き取っても

ちゃんと面倒みてくれるか心配やし。

おかんにもそう言うわ。」

(結局、退院してからも私たちとっずっと住んでいます。)


そして、いよいよ退院が決まると言う頃、義母に自分の家のタンスの引き出しにある手帳を見て欲しいと頼まれた。


私は、他人の手帳を開きたくはなかったので、持って来るから自分で見てくれるか、オーちゃんに見て貰ってと答えたが、義母は弥生ちゃんの方が頼りになるからお願いと、頭を下げた。


手帳の中に書いてある人の電話番号を見て、

・退院出来ても、もう仕事が出来ない事。

・家にある工業用ミシンを引き取って欲しい事。

・入院前の仕事の残債を清算して欲しい事。


仕事に関する連絡をして欲しいと言った。


私は仕方なく、義母の家に行き、手帳を探し、見た。


パラパラとめくっていると、ある日のスケジュールに目が止まった。

盗み見るつもりなど全く無かったのに、

吸い寄せられる様にその頁で手が止まった。


○月○日 修(孫の名前です。)、幼稚園入園に20万円渡す。


私はその頁から目が離せないまま、

頭の中にその当時の記憶が蘇って来ていた。