電令作第一三号 | 航空戦史 雑想ノート【海軍編】

電令作第一三号

いつもお寄りいただき、ありがとうございます。 


先週、今週と夏休みを取っていて、更新をさぼっておりました。申し訳ありませんでした。

やはり、サボると訪問者の方がかなり減りますね。

と、言っても、そんなに人の来る場所でもないのですが・・・


さて、思いを馳せることが多くて、あまり気乗りしなかったのですが、「神雷部隊」を掲載し始めました。

例によって遅筆・未完ですが、取りあえず進めております。


 

「神雷部隊」に関しては、筆者には心に残る思い出があります。

10年程前でしょうか。

当時、私はある病院のMSW(メディカル・ソーシャル・ワーカー)をしていました。

戦前からあるその病院は、3万平米の敷地があり、その中はいまだに武蔵野の風情を残す、緑溢れたものでした。

そこの病院には、当時はまだ珍しかったホスピスが併設されておりました。

桜の頃、病院敷地内にいっぱいある桜の木の下に、車椅子やベッドに寝たままの患者さんや家族、ドクター、ナースたちが集まって花見をしておりました。

私は、末期ガンでホスピスに入院したばかりのAさんの車椅子を見つけ近づきました。

「こんにちは。今日はお加減は如何ですか?」

「あら、Tさん。ありがとう。今日はとって調子が好いの。それにしても、ここの病院は色々な木があって良いわね」

「そうですねー。桜だけでも染井吉野、山桜、葉桜、八重桜、いっぱい有りますよ。でも、特攻隊の名前みたいですね~」

「あら、Tさん、特攻隊なんか知ってるの?」

「いやー、みんなには内緒ですが、実はその手の本が好きなんですよ」

「そお・・・桜を観ると、私は「桜花」って言葉を反射的に思い出すのよ。人間爆弾の」

「Aさん、「桜花」を知ってるんですか?」

「知ってるわよ。だって兄がそれに乗って戦死したんだから」

「えー!お兄さんは神雷部隊の桜花搭乗員だったんですか!?」

「そうよ。第七二一(Aさんはナナフタヒトと戦時中の軍隊呼称で言った)海軍航空隊。予科練から特攻隊へ行ったのよ」

「・・・」

「でも、私、兄がどこで、どのように死んだのかも知らないのよ。戦死した日はだけは判っているけど」

「そうだったんですか?・・・僕が調べますよ。Aさんですよね?」

「あら、私は結婚して姓が変わっているのよ。旧姓はBというの」

「判りました。Bさんで調べます」

「そんなことTさん調べられるの?」

「任せて下さい!」

とは言ったものの、それから、いろいろ文献を当たって、予科練のB兵曹のことを色々調べて文章にまとめるのは大変でした。

しかし、余後3ヶ月を切ったAさんには、残された時間は余りありませんでした。

主治医(私と同い年の友人)に聞くと、

「う~ん、6月までもたないかもしれないよ。ガンが全身のリンパに転移してるから・・・」

「何とかしてくれよー。間に合わないよ」

「本人次第だな~。でも、いくら約束が間に合わないからって、延命治療はしないからな。本人や家族もそう希望してる」

「判ってるよ。緩和ケアだからな」

Aさんにまとめ上げた文章を渡したのは、5月の下旬でした。

その後、Aさんは寛解期に入り、少し元気になりました。私の差し上げた文書を肌身離さず持っていて、毎日のように読んでいたそうです。

そして、私が病院に出勤すると、医療相談室にAさんの担当ナースが来ました。

「Tさん、Aさんが・・・」

「うん、知ってる。今日の朝方、女学生姿で俺のところへ来たよ。上がセーラー服で下がモンペ姿で・・・でも、Aさんって判ったよ」

「え~っ!何時位ですか?」

「5時過ぎかなー」

「亡くなった時間帯です!で、なんか言ってました?」

「今日往きます。って言ってたな。でも、何でだろうね。ご遺体は会堂に居られるの?」

「いえ、先ほどご自宅に帰られましたけど、前からAさんにこの手紙をTさんに渡すように言われてましたので、お渡ししますね」

「ああ。お見送り出来なかったなー」

しかし、その手紙を読んで、私は納得しました。そうです。6月22日は、お兄さんが鹿屋基地を出撃し、戦死された日だったんです。そして、5時過ぎという時間は、一式陸攻が鹿屋の本土最後の土を蹴った、その時刻なのでした。

Aさんは、昔の女学生に戻り、お兄さんやその他のクルーと一緒に、一式陸攻に乗って天国に行ったのだと私は信じています。

私は、この手のものには鈍感らしく、私が入院相談を受け、入院手配やその他の病院生活のも関わった患者さんは何百人にもなりますが、後にも先にも亡くなった時ご挨拶に見えられたのはAさんだけでした。

また、Aさんからの手紙の中には、感謝の言葉の他に、額面300万円の小切手が入っていて驚きました。

当然、小切手は私個人が受け取るわけにはいきませんので、取りあえず経理に保管してもらい、ご家族に連絡したのですが、どうしても、母の意思だからということで受け取ってもらえないのには往生しました。

私は処置に困ってしまって、本人の意思にも適うかなと思い、当時、私が所属していたホスピスケア関連の学会の会長に相談、会に寄付することにしました。そのお金は、今では会員や参加者が増え、日本でも有数の学会になったその会を支えてくれました。

  

以上が、私の神雷部隊にまつわる思い出話です。

その当時からあまり調査が進んでいないのは忸怩たる思いですが、今後も充実させますのでよろしくお付き合い下さい。 

 

 

【筆者注:この話は、ご遺族の了解を取っておりませんので、フィクションとしてお読み下さい】