第一三一海軍航空隊 | 航空戦史 雑想ノート【海軍編】

第一三一海軍航空隊

呉鎮守府(特設)
第一三一海軍航空隊

【開隊】
 昭和19年7月10日

【装備機種】
 夜間戦闘機・艦上爆撃機・艦上攻撃機

【原隊/原駐地】
 松山航空基地(愛媛県)

【最終所属】
 第三航空艦隊

【解隊】
 敗戦時

【司令】
浜田 武夫 大佐

【付属飛行隊】
偵察第一一飛行隊
戦闘第八五二飛行隊


【特記事項】
当初は夜間戦闘機のみで、数機ごとに硫黄島に派遣されて哨戒任務についた。

昭和19年11月、艦爆、艦攻部隊に変更された。

昭和20年3月にはフィリピンからの帰還組を中心に夜間戦闘機部隊を編成し「芙蓉隊」として自隊に加え(ただし、航空隊司令は「芙蓉隊」の直接指揮はしなかった)、鹿屋に進出、沖縄航空戦に参加(一部兵力は静岡県藤枝基地にて練成)した。その兵力は夜戦型零戦と彗星夜戦を合わせて約40機という。

昭和20年4月4日の初出撃以来6月まで、少数機で沖縄の米軍基地に侵入、あるいは米艦隊を奇襲攻撃した。基本的に特攻作戦はとらず、執拗に反復攻撃を実施した。4月中の出撃は延べ150機以上で、10数機を喪失した。沖縄戦全期間を通じての出撃は延べ600機、自爆・未帰還60機以上、戦死77名(うち戦後3名が沖縄より帰還したので戦死者は74名)。

昭和20年5月末、空襲を避けて鹿屋から岩川基地(鹿児島県曽於郡)へ移動、この山林の中の基地は最後まで米軍には発見されなかった。本土決戦に備え、兵力を温存、敗戦時に零夜戦25機、彗星夜戦45機、練成基地:藤枝には零夜戦10機、彗星夜戦40機を保有していた。

*芙蓉部隊については別項を参照下さい。  


 

【主要参考文献】

テーマ一覧「主要参考文献・資料」を参照下さい。 


筆者注:調査未完のため、今後大幅に加筆・改訂を予定しております。

初稿  2005-02-03

第2稿 2005-12-23 一部修正