2023年10月24日投稿
【大河ドラマ】『どうする家康』
【実在した人物:石田三成】
【俳優:中村七之助】
【感想】
ドラマの40話目をみました。秀吉が亡くなった後の石田三成の話しでした。
ご承知の通り、三成の性格は真面目で理想主義、星好きで、頭がいい。悪く言えば、自己中で頑固、コミュ症。現代で言えば、よくある虐めの被害者的な人物像。Z世の代社会人に多い特徴。
この回で、寧々様が三成を諭すが、三成は、私は何も間違ってはいないと席を外してしまう。
寧々様が、「あの子は、真直ぐ過ぎる。世の中は歪んでおるのに」とつぶやく。
この考えこそが、戦争、議論、いじめ等あらゆる争いの平和的解決のヒントではないでしようか
まずは、相手の想いをよく聴き、立場を理解し、急がずに解決への道をお互いに探っていく。ここで、裁判形式(裁判長、判事、検事、弁護士の役割を立てる)を応用して、法?道徳?秩序?的に当事者同士を如何にして話し合いに応じさせるかに頭を使うべきと思います。
石田三成とは少し外れましたが、「自分は間違っていない」と思ってること自体間違いだと学びました。なぜか? 世の中には正解がないのです。ベストな方法の選択は時代で変化します。特に高齢の議員は知るべきです。
人数で勝つ仕組みは変だと、もっと声を上げて欲しい。では、また。
【登場人物】
石田三成 演:中村七之助
豊臣家家臣。官途名は治部少輔(じぶのしょう)。五奉行の一人。
誠実で生真面目な気性であり、主君秀吉を篤く敬慕している。その忠誠心と有能さゆえに側近として重用される。趣味は天体観測。
大坂城中にて秀長の紹介で家康と出会い、初対面で意気投合し星について親しく語らう。小田原討伐の際に家康の陣を訪れて国替えに抵抗した織田信雄が改易された事を告げ、暗に国替えを受け入れるように促す。
【実在の人物】
石田 三成は、安土桃山時代の武将・大名。豊臣家家臣。佐和山城主。豊臣政権の奉行として活動し、五奉行のうちの一人となる。豊臣秀吉の死後、徳川家康打倒のために決起して、毛利輝元ら諸大名とともに西軍を組織したが、関ヶ原の戦いにおいて敗れ、京都六条河原で処刑された。
秀吉死後
秀吉の死後、豊臣家の家督は嫡男の豊臣秀頼が継ぐ。 しかし朝鮮半島よりの撤兵が進められるなか、政権内部には三成らを中心とする文治派と、加藤清正・福島正則らを中心とする武断派が形成され対立を深めていた。 慶長3年(1598年)8月、毛利輝元と三成ら四奉行は、五大老の中に自分達と意見を異なる者が出た場合、秀頼のために協力してこれにあたることを改めて誓う起請文を作成している。 一方、徳川家康は同年10月から12月にかけて京極高次、細川幽斎ら諸大名を訪問し、また水面下で福島正則、黒田長政、蜂須賀家政ら武断派諸侯と婚姻関係を結ぼうとしていた。
翌慶長4年(1599年)初頭、家康による縁組計画が発覚。 これを文禄4年(1595年)8月に作られた「御掟」における大名間の私的婚姻の禁止条項に違反する行為であるとして、前田利家を中心とする諸大名から家康弾劾の動きが起こる。 四大老五奉行による問責使が家康に送られる一方、家康も国許から兵を呼び寄せるなど対立は先鋭化するが、2月12日に家康が起請文を提出することなどにより一応の解決をみた。
同年閏3月3日に前田利家が病死すると、その直後に加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明の七将が、三成の大坂屋敷を襲撃する事件(石田三成襲撃事件)が起きる。三成はのちにこの事件の中心人物として、事件直前に家康より豊後国内に6万石を与えられていた細川忠興の名を挙げている。
この後、七将と三成は伏見城内外で睨みあう状況となるが、仲裁に乗り出した家康により和談が成立。三成は五奉行の座を退き、閏3月10日、佐和山城に帰城した。この事件の際、「三成が敵である家康に助けを求め、単身で家康の向島の屋敷に入り難を逃れた」という逸話があるが、これらの典拠となっている資料は明治期以降の『日本戦史・関原役』などで、江戸時代に成立した史料に、三成が家康屋敷に赴いたことを示すものはない。
慶長4年(1599年)11月には家康暗殺計画への関与を疑われた前田利長が、父・利家から引き継いでいた大老の地位を事実上失い、浅野長政も奉行職を解かれ領国の甲斐国に蟄居となる。これによって五大老五奉行は四大老三奉行となり、以降、豊臣政権内部の主導権は家康が握る。