『人の役に立つ』とは | 淡々と

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とある人間の日常

AmebaブログのHPを開いたら、「1年前の7月に書いた記事があります」という表示を見つけたので、開いてみたら、1年前に自分が書いた記事が出てきたんですが…

1年前に自分が書いた記事右差し 私は人の役に立つことができるのだろうか。

読んでみましたが、何が言いたいのか意味が分かりませんでした笑。

 

ただ早く、体調不良に振り回される日々を終わりにして、何か行動したかったという気持ちでいっぱいだったのでしょう。意味の分からない文章だったけど、自分の中で答えが出ていない滅茶苦茶な状態でもアウトプットすることは、良いことだと思います。完成してから見せることに拘ったら、何も行動できないから。

最近、自分が昨年初出版してみた本を読み返してみたのですが、助詞の誤りをたくさん発見しました笑。

 

今日も汗をかきながら、塾を開いてまいりました。

本日の生徒の1人が、手に余るヤンチャちゃさんだったのですが、授業前にマザーテレサの言葉を思い出しました。

マザーテレサは、汚れた浮浪者を抱きかかえるのです。マザーテレサは、浮浪者のことを『浮浪者ではなくイエスキリストだ』と言い、『イエスキリストは、あなたが本気でその仕事をしているかどうかを確かめるために、あなたが一番受け入れがたい姿であなたの前に現れる』と言いました。

私は『子供たちの力になりたい』と言い、活動してきました。ですが、塾・家庭教師は、勉強をしたい子供は少なく、子供の取り組まない態度、むしろ妨害する態度に対応していると、問題児だなと思ってしまうのです。ですが、違いますね。問題児ではなく、イエスキリストですね。

 

その子に変わってもらうのではなくて私が変わるのです。

 

行動している時というのは、理想通りに進まず、頑張れど頑張れど、恥をかきまくり、失敗しまくります。いつも不安を抱えながら、無様にもがいてばかり。そして、出会う人々の中にマザーテレサ曰くイエスキリストがたくさん現れます。

幾ら言葉で目標や気持ちを言っていても意味がなく、大切なのはイエスキリストが現れた時に自分が勇気と根性を持って変われるかどうかです。綺麗な言葉に意味がない、行動で本気を見せることができた時に意味があると思います。落語家の桂小金治さんの言葉、『一念発起は誰でもできる。努力までならみんなする。そこから一歩抜き出るためには、努力の上に辛抱という棒を立てろ。この棒に花が咲く。』この言葉も、その通りだと思います。

 

おとといは、汗ダクで都知事選の投票に行ってまいりましたよ。

何となく結果が分かっている上、危険な暑さ過ぎて一瞬迷いましたが、辛抱という棒を立てて健闘する立候補者の方々を思い、ちゃんと社会人として然るべき行動をすることができました。

 

毎日、自分が不甲斐なくて、反省ばかりして過ごしていますが、1年前の記事を書いた時よりは、少しマシになったかな。

暑さに負けず、有言実行、がんばりたいですグー