ゴーガン役、原竹志です。
顔の大きさ程ある風月堂のゴーフル食べたマンガの虫の楽屋から、もう1ヶ月以上が経ちました!はやし!



稽古も残すところあと1週間。
ということで、私の撮り貯めた稽古場の写真を添えながら“演技”についての考察です。
こんなことをすると大体恥ずかしいことになるのが関の山ですが、だがまぁしかしあえて私が、ええ、ええ、ええ、ええ。



今回のこの三好十郎の『炎の人 ―ゴッホ小伝―』
小伝とはいえども、描かれるシーンについてはこれでもかという程のセリフで語られます。



どんなセリフであっても自分の言葉にするのが役者の仕事です。つまり、“私が言う”のです。おそらくそこに演技というものを用いるのでしょうが、この演技というものが曲者だと常々思います。というのは、“演劇”の中で“演技”をしているうちはセリフが自分の言葉にはならないからです。



演劇について学んだたくさんのこと、特に舞台に立つための技術面でのあれこれは、演技をする際にはきれいに忘れ去る、あるいは捨て去る必要があるようなのです。(いや捨てる前に身に付けることが必要だから技術面でのことを学ぶのですが)ん?演技とは技術面でのことではないのか?という声には「おそらく、そうだ!」と言うのです。私がです。おそらく私の言う“演技”とは、人に教えたり教えられたりするようなものではないもののことのようです。



役を生きるということの難しさを体感している稽古場です。役を生きるために必要なのが演技です。気持ちだけあればいいというものでもないからです。



役だけど私
たくさん稽古してはじめてのように
掴もうとすると離れていく
熱くなるけど冷静に
セリフと私を近づけたり遠ざけたりする



幾重にも重なった嘘と本当に包まれた矛盾スパイラルを自分一人で、時には共演者と一枚づつ確認したりはがしたりしていって真ん中にあるものを取り出して表出する。そこに演技の真髄があるような気がしている今日この頃です。



ね、ほら
言葉にするとこんなことになってしまう。
演技の真髄て。
よくいったまったく、今っちのわーい。
なんちゃってです。おそらく演技の真髄は、なんちゃってです。



自分から出発し演技を用いて役を生きる。
演劇という虚構の世界でむきだしの真人間として存在できるよう精進します。

劇場でお待ちしております。