「お前が悲しみにある時、彼女は喜びにある。」

 

大槻ケンヂのソロ企画「UNDERGROUND SEARCHLIE」の曲「Guru」の一節である。

僕がこの曲に出会った30代の頃、心理療法への興味が強くて、某伝手によりロジャース派のグループエンカウンターというものに参加していた。

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この曲に関してのある経験

僕はこの曲と出会った頃、会社経営の行き詰まり問題やら、父親との確執やらといろいろ難題を抱えており、かなりツライ時期だったのだ。この曲に限らず、大槻ケンヂの詩と筋肉少女帯の曲には本当に救われたし、その出会いが無かったら本当に死んでいたかもしれないとさえ思う。

ことさらこの「Guru」の上記の一節には、心を洗われるような思いがあり、それをその「グループエンカウンター」で吐露したところ、そのことに激怒してしまった人がいたのである。

曰く、「人の悲しみを喜びにするなんていうことは、許されない。」とのことで、その怒りによって場が危機的な状況となった。

結局、その場では、自分が受けた感銘と救いというものを、その方に伝えることは出来ずに終わってしまった形であった。

 

そのこころの事象は確かにあるが、美しい表現がない。

「お前が悲しみにある時、彼女は喜びにある。」

この言葉は、心のある事象について語っているのだけど、その事象はファンタジーではなく確かに存在する。

俗な言い方をすれば、

たとえば、「人の不幸は蜜の味」とか

たとえば、「相手の弱みに付け込む」とか

そういう言い方をあえてすれば、そうした心の事象というものは、確かに存在するのである。

そして、その事象を言い表す言葉は、かくもネガティブで、批判的で、自嘲的で、シニカルな表現しか存在しないのだ。

 

しかし、それは、

誰もが抱き経験する、心の営みの一つに他ならず、なれば、

それを批判的に、シニカルにしか語ることができないのは、不幸な話ではないか。

 

では、その経験を、心の営みを、

なんとかもっとポジティブに美しく表現できないものか。

そう考えたときに、

「お前が悲しみにある時、彼女は喜びにある。」

と淡々と言い切るしか、ないのではあるまいか。

いや、僕はやっと、上手い説明を思いついた。

 

パズルのピース

たとえるなら、「パズルのピース」なのだ。

でっぱったところと、ひっこんだところがつながるのである。

互いにまっすぐとまっすぐでも、つながりはするが、すぐにズレてしまう。

でっぱったところと、でっぱったところでは、つながらない。

ひっこんだところと、ひっこんだところも、つながらない。

 

パズルのピースとピースが、力強く、一つになれるには、

でっぱったところと、ひっこんだところを、つなげるのである。

人の心の悲しみと喜びが強くつながるのである。

 

自分にひっこんだところがあって、繋がれたということもある。

自分にでっぱったところがあって、繋がれたということもある。

 

しかし、

全ての人のすべての面が出っ張ってたら、誰も誰ともつながれはしないし、

逆もまたしかり。

 

だから、でっぱってても、ひっこんでても、それでつながれる繋がりがあれば、それでよしとしよう。