社会科の校正をしていて"おもしろい"と思えるのは(それが模試であっても参考書であっても)、語句や文章をチェックしながら、自分なりにツッコミが入れられるところかもしれません(^^)
もちろん、お仕事は「校正」ですから、自分の主義・主張など反映させることは決してありませんが、公式や法則をベースにクールに判断する理数系科目とはまた違う「気付き」が毎回のようにあるのが、社会科のおもしろ味なのだろうかと思うことです。

そんな事にちなんで・・・、タイトルが「悲しき改名」なので、今回はそのことについて書いてみたいと思います。

日本の古代史のエピソードを読んでいると、権勢に翻弄されて改名を余儀なくされたというのがあります。有名なのが「和気清麻呂」、皇位を狙っていた道鏡にとって不利な報告をしたために左遷させられてしまいます。しかもその時に「別部穢麻呂(わけべ の きたなまろ)」と改名までさせられました(T_T)

命名って、親が子につける時は、それなりに夢や希望を名に託すものですし、それが無理矢理に真逆の「穢麻呂(きたなまろ)」に変えさせられたというのは、酷い話です・・・。
しかし、天皇制が絶対な当時、それに歯向かうような行為をした者には、このような卑しめも容赦なく行われたということでしょうか。

ところで、和気清麻呂ならば、今の教科書などでも「和気清麻呂」と記載されているし、エピソードを知って、改名を強いられたというのが分かるのですが、私がいつも「やっぱり名前にまだこの漢字が使われているのね。」と思うのが、「蘇我蝦夷・入鹿」です。645年の大化の改新で、中大兄皇子、中臣鎌足によって滅ぼされた蘇我本宗家の父子ですね。

まず、お父さんの「蝦夷(えみし)」と言う名前に違和感を持つ子たちはどれくらいいるのだろうと、校正でその名前が出てくるたび、いつも思うことです。学校で「大化の改新」を習えば、その後ほどなく坂上田村麻呂の「蝦夷征伐(えぞ せいばつ)」を習うことでしょうが、「蝦夷」と同じ漢字が使われています。当時の朝廷にとって「蝦夷(えぞ)」と言えば、現在の東北地方などに住んでいた先住民族で、支配下に置きたかった敵対する者。いくら蘇我氏が渡来系の豪族だって、蝦夷(えみし)の父だった蘇我馬子が、我が子にそんな名前を付けるか~っ?!て思ってしまいます。

ちなみにWikipediaで蘇我蝦夷を調べてみると、名称の項で、
”『日本書紀』では蘇我蝦夷、通称は豊浦大臣(とゆらのおおおみ)。『上宮聖徳法王帝説』では「蘇我豊浦毛人」。蝦夷の精強な印象を良いイメージとして借用した名前である(小野毛人や佐伯今毛人、鴨蝦夷らも「えみし」を名として使用している)。蝦夷は蔑称であり、毛人が本名との説があるが「蝦夷」も「毛人」も同じ対象を指す。”
と書かれています。

もともとは「毛人」と言う勇猛なイメージの漢字で名を表していたのが、日本書紀と言う朝廷中心の歴史書によって改悪させられたかも・・・と言うことですね。



画像は、山岸凉子さんが1980年頃、LaLaと言う少女雑誌で連載されていた「日出処の天子」のイラストです。
左が厩戸皇子(聖徳太子)、右が蘇我毛人。
このように描かれると、歴史上の人物のイメージもガラリと変わります(^^)
ボーイズラブ的な要素もありましたが(^^;、時代背景などしっかりと研究された上で、奇想天外なストーリーを描かれていた、秀逸な作品だったと思います。
ともあれ、1980年代のこの作品の中ではすでに「毛人」となっていたのですが、(個人的に日本史の中で蘇我氏がけっこうお気に入りなこともあり(^^;)、教科書の中で蘇我蝦夷の名前表記が蘇我毛人になることはないだろうか・・・、なんて思うことです。