ピアノを習っていた方たちは、少なからずピアノの発表会を
経験したことがあると思います。
私もご多分漏れず、そう。実家にはその時のプログラムが
まだ存在したんです。それがコレ。
捨て魔の私の目をくぐり抜け、よくぞ生き残っていた!
これでブログのネタができたというものです
ピアノを習い始めたのは、愛媛に引っ越し&幼稚園の年長になり、
ちょっと落ち着いた頃からと記憶しています。
で、初めての発表会は小学校に入ってから。
それを順にチェックしてみましょう。
まずは小学1年生。写真のリストには、同学年のコを載せています。
名前の欄を加工していますが、"sea"と書いてあるのが私です。
小学生の部トップバッターの演奏だったんですね。
演奏順は、学年別&先生に習い始めた順に
弾くようになっているようです。
大体開催されるのが4月と、学年があがった直後なので、
幼稚園年長の梅春の頃からせっせと発表会に向けて
曲を仕上げていたという記憶が。
ということは、Tさんとクミちゃん、幼稚園の頃からすでに
ブルクミュラーに入ってたという事ですね。早~い!
ちなみにピアノの先生を紹介してくれたのは、
Mちゃんのお母さんと記憶しています。
愛媛に引っ越してきたばかりの頃、母がピアノの先生を探していて、
仲良くなったMちゃんちを一緒に尋ねてヒアリングした気がします。
「とってもステキな先生なんですよ~」っておっしゃってました。
その評判は正しく、とっても品のあるおばあちゃん先生でした。
「おばあちゃん」と書きましたが、私の祖母くらいの
年齢だと思ったので・・・。
多分その頃50代半ばくらいだったんじゃないかな~と。
口コミが効いたのか、次の年の発表会は、
同じ学年の生徒の数が増えています。
私の後に、1年生の途中で転校してきた(と思われる)
けいこちゃんとかおるちゃんが入会。
中学生以上はわかりませんが、少なくとも小学生の生徒のほとんどが
同じ社宅の子供ばかりで、親とのつながりも密だったので、
きっとこの中のコのお母さんが紹介したと思われます。
それにしても、私だけ2年連続で2曲弾いてますね。なぜだ?!
小学3年生の様子を見てみましょう。
残念ながら、人数的には1人生徒さんが減っています。
というのも、かおるちゃんとMちゃんが
親の仕事の都合で転校したため。しかもMちゃんは、
シンガポールに行ってしまいました。
1番仲がよかったので、とってもショックでした
ちなみにMちゃん、当然ながらシンガポールでも
ピアノを続け、確かシンガポールでのピアノコンクールで
優勝したというおたよりをもらった記憶があります。スゴイ!
で、日本に帰国後もピアノをガッツリ続け、
藝大に入ったと風の噂で聞いたのでした。今はどうしてるんだろう・・・。
この頃はブルクミュラーも終えて、ソナチネに入ったようですね。
ピアノレッスンの定石を歩んでますね~。
小学4年生はどうだったのかな?
お~っと、生徒の数が激増してる!Hさんとオトコちゃんは
転校生だった記憶が。で、T・H君はどういうわけか
3年生の終わりからピアノを習い始めたんですよね~。
秋の学内合唱会で、学年全体のピアノ伴奏者に選ばれたら
当時流行したいたファミコンを買ってくれると
お母さんに言われらしく、すごく張り切っていたのを覚えています。
しかし無情にも、学校の先生が選んだのはこの私・・・。
ごめんね~、T・H君
ここで気になることが。今まで先生に習った順だったのに、
順番が微妙に変わっています。まずTさんと私が入れ替わり。
理由は、当時先生が凝っていた湯川昭さんの
「日曜日のソナチネ」アルバムの曲を、けいこちゃんと
連続して聴かせるためだと思われます。
で、トシちゃんとクミちゃんも順番が入れ替わり。
これはソナチネの番号順にしたかったからかな。
それともクミちゃんの方がピアノがうまかったからかな?
私が愛媛にいた頃に出た最後の発表会
小学5年生を見てみましょう。
その1。
生徒が多くなりすぎたせいか、5年生は前半と後半に
分けられてしまっています。
しかし24番と25番のコ、私はあまり記憶にないんですよね~。
学校でのクラスが違ったせいなのかな。
それとも、違う小学校のコだったのかな・・・。
あれ?けいこちゃんがいない!転校はしてないはずなのに、
この頃はもうピアノを辞めちゃったんですかね?
確か合唱団は一緒に通ってたのになぁ・・・。
記憶違いで、もう転校しちゃってたのかな?
その2。
私が第二部のトップバッターになっています。
「六つの変奏曲」となっていますが、
これを習い始める際、「この曲は『水車小屋の乙女』っていうんよ。
ロマンチックな名前でしょう?」と先生は説明してくれました。
題名が気に入って練習していたのですが、プログラムには
何だかピンと来ないタイトルをつけられてたんですね
30年以上経って気づいたという・・・。
演奏順ですが、トシちゃんがどんどん前にさせられています。
どうしちゃったんだろうか・・・。
トシちゃんには年が離れたお姉さんがいました。
我々が小学2年生の時には中学2年生。
何を弾いてたのかな~と思い、チェックしてみると・・・
ドビュッシー『子供の領分』のうち2曲を披露してます。すごい!
他の生徒さんの弾いた曲も、かなり高レベルですね。
愛媛の田舎なのに、先生はハイレベルだったのかな・・・。
しかしこの頃、自分の出番が終わると安心しきり、
お姉さんたちの演奏はほとんど聴かず、
さっさと家に帰ってしまった気がします。
惜しいことをした~
2年後のプログラムもチェックしてみると・・・、
トシちゃん姉(高校1年生)、何とショパンのスケルツォ2番を披露。
すごすぎる・・・。確かトシちゃん姉は頭がすごくよくて、
東大に行けるくらいなのに、勉強したいことが
神戸大学にあるからと言って、有言実行したと聞きました。
頭のいい人は、ピアノも弾けるんですね~。
あ、この年のピアノ発表会幹部は、トシちゃん母が承ったようです。
これまた30年以上経って気づいた事実・・・。
何気に中3少年が弾いたのも、かなりの難曲だったと
判明したという・・・
残念ながら、私は小学5年生の春に横浜に転校。
転校することがわかるまでは
何かの曲を練習してた気がするのですが、
発表会用に練習した記憶がありません。
横浜に転校してきて習った先生も、母が口コミで聞いてきた方です。
しかしあまり生徒の数がいなかったせいか、発表会は2年に1回。
横浜での初めての発表会は中学2年生。
曲はべートーヴェンの月光 第3楽章。
これはちゃんと覚えてるんですよ。なぜなら小学2年生から
憧れ続けた曲で、やっと弾けるようになってすごく嬉しかったから。
しかしそのまた2年後の高校1年生の時に弾いた曲が
全然思い出せない
発表会で弾いている姿&集合写真は残っているので、
出たのは確かなのですよ。
しかし、曲の下準備に取りかかるであろう梅春の頃は
高校受験にブチ当たっているので、
1ヶ月くらいレッスンを休んだ気がするんですよね~。
ショパンの幻想即興曲だったかな?
それともエチュードの10-12「革命」だったかな?
中2と高1の時の発表会プログラムは紛失してしまったですが、
なぜか高校3年生の時のはあるのです。それがコレ。
〈ピアノソロ〉とあるのは、エレクトーンの演奏もあったから。
生徒の数が少ないので、ピアノの演奏は小学校高学年のところで
分けられています。
無謀にも選んだ曲は「木枯らし」。これまた憧れちゃっててねぇ・・・。
以前もチラッとお伝えしましたが、学生の頃は
毎日練習していたとはいえ
30分しか練習しないという不良生徒(?!)だったため、
この曲を弾く技術が追いついていません。
なので、年明けくらいから練習をしはじめたのに
なかなか曲が仕上がらず、すごく焦ったのでした
で、本番は撃沈間違えまくった記憶があります・・・。
ちなみに私の前に弾いたコは、さすが高校1年生で
難曲を弾きこなすだけあり、音大志望のコで、
この3年後ちゃんとどこかの音大に入ったと風のうわさで聞きました。
先生のお嬢さんも、中学1年生ながら
なかなかの難曲を弾いてますね~。
しかし小学生以下のレベルと中学生以上のレベルの
乖離がすごく気になる
愛媛に引っ越す前は、千葉の船橋にいました。
その時は、通っていた幼稚園の教室の一室を借りて開催していた
ヤマハのオルガン教室に1年通ってました。
年少さんの頃の発表会プログラムも残っていました。
出たという事実は覚えていますが、
一生懸命練習した記憶が全然ない・・・。
それもそのはず、披露したのがこれだったからです。
オルガンじゃなくて、歌。しかも独唱ではなく、合唱です。
オルガンのレッスンは、この頃ちゃんと受けていたのでしょうか?
家にオルガンがあったのは事実ですが、
練習した記憶もないという・・・。
だから歌に逃げたのか?! ちなみに12人で合唱していますが、
社宅のアパートで一緒だった「ようちゃん」という男の子しか
私の記憶にありません
私が出ていないのに、こんなプログラムもありましたよ。
私が出るはずだった(のか?)発表会です。
ということは、小学6年生の頃。
多分転校して間もなかったので、こういう発表会内容でしたよという
先生からの事後報告的なものだったと思われます。
プログラム自体も大幅にモデルチェンジ。
「ピアノ・サロン・フカオ」と、しゃれた名前になっていますね。
中を見てみると・・・、
また生徒が減ってる・・・。トシちゃんは転校していないのに、
リストに載っていません。ピアノを辞めてしまってたんですね。
小5の時は同じクラスだったのに、知らなかった・・・。
これまた同じクラスだったHさんの名前もありません。
小学校高学年~中学生くらいの頃にピアノをやめちゃうコが多いのは
このピアノ教室も例外ではなかったということですね。厳しいなぁ・・・。
愛媛の先生・横浜の先生とは、今は音信不通です
2年くらい前に愛媛に行ったとき、先生のおうちがあったとこら辺を
ドライブがてら行ってみたのですが、家自体が見つかりませんでした。
横浜の先生のおうちは、1年前に前を通ってみたのですが
ピアノ教室の看板を掲げていませんでした。
愛媛の先生は、生きていたら多分90歳くらいなので
さすがにもうピアノは教えてないでしょう。
横浜の先生も母とほぼ同世代なので、多分70歳くらいかと。
いわゆる「ご年配」なので、今でもピアノを教えているかは怪しいです。
私1人が懐かしんでてもしょうがないですよね・・・。
みなさんも、もし発表会のがプログラム等が
まだ手元に残ってらっしゃったら、
つかの間のタイムスリップを楽しんでみるといいかも~
思い出話が超~長くなっちゃって、申し訳ありません
ご静聴、ありがとうございます