こんばんは
前回までのあらすじ。。
ジョン・ウイリアムスの書いたロサンゼルスオリンピックのファンファーレに心を奪われて、生徒数十人を手放して留学。
留学先は、彼が教えているボストンの学校。ところが行ってみたら、もう退官。ショック。。仕方なく別の先生についたものの、、君に足りないのはジャズだと言われ、大嫌いなジャズを学び始めることになってしまったところまで。
結局、私の先生となった人はCraigといい、私より一つ下の、20代でその大学の教授になったという天才でした。
彼は私に足りないのはジャズだといい、猛特訓が始まります。
が、書きたいのはそこではなくて、、、。
私はジャズが好きじゃなかったために、プレーヤーのことは珍紛漢紛なまま、その優秀な先生についてしまった 訳です。
おかしいなあ、そんなはずじゃ無かったんだけど。。。ジャズ?ファンファーレはどこへ行った?であります。
ある日、そのクレイグ先生がおっしゃった『僕がジャズピアノを習った時ね、、』と子供の頃の話をしてくれました。
「先生は、ビル・エバンスと言ってね、、」どこかで聞いたことあるぞ。。。
「僕が緊張していると、よくクッキーを持ってきてくれたんだあ」
私:「今も習いに行ってるんですか?」
クレイグ:「いやあ、遠いところに居てね」
私:「えでも教授だから、お金あるんだし、遠くても関係ないんじゃないですか?」
クレイグ:「あの、、ビル・エバンスだよ、知ってる」
私:「いや、、あんまり。。。」
クレイグ:「珍しいね、音楽をしにアメリカに来て、ビル・エバンス知らない人」
私:「え」
クレイグ:「ファンが世界中にいる、素晴らしいピアニストでね、もう亡くなってるんだ」
私:「・・・・」
というわけで彼はビル・エバンスの最後の弟子だったそうで、、、。
これまた、後から一体、そのビル・エバンスって人がどれだけ有名な人かもわかり、、
ジョンがダメだった代わりに、ビル・エバンスか。。。と思ったものでした。
さて、ではジョン・ウイリアムスには会えたのか?
はい、会いましたよ。
ボストンは、ボストンシンフォニーホールというホールがあるのはご存知の通り
そこでジョン・ウイリアムスはボストンポップスというオーケストラの指揮棒を振っておりました。ボストンシンフォーニーは小澤征爾が居たところでも有名ですね。
私は、このジョンがボストンポップスを振る日には必ず行って、バラを一本コンサートマスターに渡しておりました。。(ジョンに渡してって)
振る時にはいつも行っていたので(しつこい!)バラの儀式もしょっちゅうになり、とうとうコンサートマスターは、「ねえ、もう自分であげてください」。。
そりゃそうだ。。毎日、ジョンにあげて、、ってバラの仲介役。。。失礼しました。
その日は、コントラバスの最長老が引退の日で、楽屋口には大勢の人、そうとは知らず、てっきりジョンのファンの列かと。。。違った、違った。
最長老ご自身も、私は彼に会いに来たと勘違いする始末。いやいや、ジョン・ウイリアムスに会いたいんだけど。。。
日本の楽屋とは違って、セキュリティのセの字もなく、
スルッと入れて、スルッとジョンの部屋まで行けました。
ああ、この人があのファンファーレを書いた人、、感動しつつ、指揮者らしい黒いタキシードを脱ぐと、、普通のおじいちゃん。
あれ???こんな感じ? 握手をしたら、ふよふよで、海綿みたい。。その「ふよふよ」さが、一番の記憶です。
私がどれほどファンファーレに感動したか、そしてファンファーレが私をアメリカまで連れてきた、、なんて話をしたのだと思います。彼に習うことはできませんでしたが、結局3回ぐらい、ボストンシンフォニーホールの楽屋でお目にかかりました。写真、出てきたらアップしますね。楽屋で撮ったもの。
めでたしめでたし