坂崎出羽守直盛として | 時代劇or悪役俳優・正木健久

時代劇or悪役俳優・正木健久

主に時代劇で、また悪役としても活動し、趣味で全国津々浦々の甲冑武者行列に出陣する、㈱プロジェクト・コア所属俳優・正木健久が「徒然なるままに(卜部兼好)」「男もすなる日記といふものを(紀貫之)」始めてみました☆

平成31年4月29日、第37回上田真田まつり決戦劇『残桜』に初参加、出演させて頂きました。



劇中で演じさせて頂いた人物は、坂崎出羽守直盛(写真は、劇中で戦った豊臣秀頼公との2shotと、そのシーン)。実は中学生の頃から書物で読んで興味を持ち、役者を志した頃より、いつかは演じてみたいと思っていた人物でした。

永禄六(1563)年頃に生まれ、初名は宇喜多左京亮詮家。謀将として知られた兄の直家を、弟でありながら最期まで恐れ、また秀吉の中国攻めにも尽力した忠家の嫡男(次男説も)で、中納言秀家公には従兄に当たります。宇喜多家には家臣として仕え、また家中でいち早く切支丹に関心を持ち、同じ切支丹として、より名を知られている、やはり宇喜多家中であった明石掃部全登が根負けするまでに熱心に入信を勧めたのは、誰あろうこの人物でした。

ところが、関ヶ原の合戦を前に宇喜多家中で内紛が起こり(いわゆる宇喜多騒動)、宗教問題も絡んで左京亮詮家を始め戸川達安や花房正成といった重臣が次々に宇喜多家を離れました。ただ明石掃部は自身も切支丹であるにも関わらず中立的立場を取り、宇喜多家に残って関ヶ原本戦でも主君と共に戦いました。

そして詮家は東軍に与した功により後に石見津和野三万石を賜り、名も西軍副将であった宇喜多の名を憚り坂崎出羽守直盛と改めました(30年前の書物では諱を成正としたのが通例となっていました)。

その後、有名な大坂夏の陣における千姫救出エピソードとなる訳ですが、これにも様々な説があります。大御所家康公より千姫を助け出した者には娶らせると通達があり、火の中を掻い潜って遂に千姫を救出したが、焼けただれた顔に千姫がドン引きし、逆に救出の最中に、戦いぶりを目にしたイケメン本多忠刻に一目惚れし、嫁ぐことになったのを恨んだ坂崎を将軍秀忠が誅した、というのが通説となってます。また坂崎が実際に救出したのではなく、乳母の刑部卿局が堀内主水氏久(新宮行朝の弟)を護衛に付けて徳川方の武将の陣へと送り届けた、その先が坂崎の陣であり、それから坂崎が家康公の元へ御連れした、という説もあり、1985年のNHK時代劇『真田太平記』には坂崎こそ登場せねど、その模様も描かれてます。また後の千姫事件に関しても、坂崎が縁談の取りまとめを任され、公家との縁談話がまとまろうとした所で千姫がNOと言い、結局本多忠刻に嫁ぐことになって坂崎の面目は丸潰れ。腹いせに輿入れ行列を襲撃する計画をするも露見し、秀忠公より自害を命じられた、という説もあります。

ともあれ、坂崎出羽守直盛は大坂夏の陣より1年の元和二(1616)年秋に54歳と言われる生涯を閉じ、津和野藩三万石も改易、収公とされました。ただ、津和野藩政において、その町作りには多大なる手腕を発揮したと伝わっています。

そして遂に津和野町の永明寺を訪れ、坂崎出羽守本人の墓所に御参りすることが叶いました。


お寺自体は休館中で、お寺の方に御目にかかることも、お話を伺うことも叶いませんでしたが、やはり今回演じさせて頂いたということで、ただならぬ思いもあり、何度も何度も墓前では拝礼をさせて頂きました。

今回、あくまで真田の祭りであり劇ではありましたが、個人的には坂崎直盛という人物に思いを持って参加させて頂き、そして希望通りの配役にも当てて頂いて、皆さんからも坂崎さん、出羽さんと呼んで頂き、ひとかたならぬ経験をさせて頂いた、今までにない祭であり決戦劇でした。また観て頂いた方々にも様々な思いを持って頂けたようで、坂崎出羽守直盛として、その一端を担うことが出来たことを、本当に誇りに思います。

そんなこんなで、もう暫く坂崎出羽守として居させて貰おうと考え、御世話になった殺陣サークル眞さんも参戦下さる5/4大阪道明寺での歴史まつりには、自身でこだわり抜いた坂崎出羽守直盛として行列に出陣させて頂く予定です。そしていつかまた坂崎直盛として別の祭やイベント、また映画やドラマでも演じることが出来たら、と思います!