これは日本人ならではな捉え方でありますが、芸術に携わる という強い意味で、
日本特有の楽器のみならず、西洋楽器を演奏する場合においても、音楽に対しての「礼儀作法」をきちんと身につけていかなければならないと思っています。

それがいわゆる「所作」として、
その演奏者の姿・音楽が現れる。


ステージに立つ時からすでに曲は始まっている、
とよく言われますね。
歩く速さ・姿勢の良い嫋やかな立ち姿・お辞儀のタイミングや美しさ などから、
その演奏者がどのように曲に音楽に向き合っているか というような芸術に対する心構えが伺えると、
私はとても幸せな気持ちになります。
どのような幸せかというと、その方とこの空間で音楽を共有できるという大きな期待、そしてその美しい姿に翻弄され、五感をすべて預ける準備が整った状態になれる嬉しさです。

作られた感じが全く無く自然体である人には、そのような空気を作り与える力があります。
そしてそれがそのまま音楽に真っ直ぐに向かい、聴く者を惹きつけるのだと思います。

「お作法」の、私が言わんとすることは、お決まりな形のことではなく、このような中身の表れ のことなのですが、
これは曲中でも言えることです。
譜面上、特に音がないところなどはその「所作」としての動きが顕著に表出します。

ピアノでいうならば、

響きを放つ時に現れる 高々と上げられた腕

香りを湧き立たせるように 空間に舞う手のひら

時間の流れを一瞬止めたような 鍵盤を見つめる指先

さざ波のようなリズムで支える したたかであり確固たる左手

様々なフレーズの入り方・処理の仕方に関係する ダウンストローク・アップストロークなどの小さな手首の回旋にいたるまで、

楽器を響かせる、歌わせることに集中してるが故の身体表現、
それが音楽という芸術においての「所作」と言えるわけであります。

その人の音楽環境やイマジネーション、知識が豊富であればあるほど、表現の幅は歴然と広がり、とても大切な要素であるにもかかわらず、
それだけでは「伝える」ということに限界がある。そこに行き着くための技術もまた伴って鍛錬する必要があるのです。
これは皆、当たり前に分かっていることだけど、
しかしその技術とは、もちろん見せつける技術であっては決していけないのです。
その技術を、イコール「所作」としての振る舞いまでに到達する・させる という、練習の中身の濃さ。
作曲家への礼儀作法 そのもの、と言ってもいいかもしれません。

ここに厳格な精神をおいていないと、


あれ?気持ちばっかり先に行っちゃってるね。

とか、

早弾きに必死になってるけど、何が言いたいんだろ?

みたいな 曲の意図と身体がちぐはぐな演奏、聴いている者に余計な心配をさせる演奏、何か勘違いしてる演奏 ということになってしまいます。


教える立場から見ると、
(期待と希望に溢れた生徒で、しかしまだまだ発展途上であることを重々承知の上で、の話ですが)
曲に対するイメージ・意識の高さは十分であるにもかかわらず、
例えば、

そこの音の伸びはもっと腕全体を使って欲しい

そこの音はバネのような手首を使ってインパクトを与えて欲しい

というような欲求がもしも湧いたなら、やはりそれは身体がついていってない ということになる。

どっぷりとその音楽の世界が取り巻いているのなら、
身体が意識を超えて反応したもの・・・所作としての振る舞いを表現してもらいたいのです。


いや、やはり所作を彷彿させるイメージがもしかして足りないのか・・・。

どちらにしても、
そこの溝をいかに埋めていくか・・・。

模倣させることもさる事ながら、
巧みな話術、すべてに対する愛情表現、そして時間も労力も惜しみなく与える、奉仕的精神、忍耐!

音楽の感動を分かち合う喜び・愉しみのために、感受性豊かな日々の学びは、教師もまた同等、
いや それ以上でなければならないし、進化し続けなければなりません。










個性がある?ない?
じゃあ個性とはなんぞや?
持って生まれた良いもの?
もちろんそれを潰してしまってはいけない。
しかしそれ以前に、そのカラーを内側から支え、発揮し続けるために、育んでいくものはたくさんある。

ピアノレッスンにおいての作法。。。

意外にも、年齢が低いほど興味津々で真剣になる子が多く見られる。

その時は 分からなくても、下手でもいい。分からないことを大事にしていくことこそが大事。