少し前に、精神科の名医でいらっしゃる名越康文さんの何かのサイト(←たくさんお持ちでどこだったかよく覚えていない)の中の日記を読んでいて、たまたま目にしたフレーズがあり、
どういう意味だろう?
と、分からないけども大事に持っていた言葉があります。
「世界は微笑んでいる」
というフレーズです。
フォーカルジストニアにとっての筋緊張は大敵であり、楽器から音を放つ前の時点でもうすでに、それは例えば指先だけでなく、全身支配されていて、尚且つ常に内在し続けています。
頭はリラックスした状態かとか、または聡明な感じとかとはまた別の話です。
しかしだからといって完全に " だらん " とした状態では演奏できないですし、もちろん生活にさえも対応できません。
私のジストニアのこれまでの経験において、ここの壁はかなり分厚く、水面下に行き着き 落ち着くも、完全に見えたかというと、自分ではまだまだだと感じる時もあります。
脱力、脱力と力説される方 多数ですが、もちろんジストニアだから、そんな生易しいものではなく、出来ても一時的なもの。しかも、そもそも何を持ってして脱力というかが問題なわけで、ほとんどの場合、指先や腕の目に見える扱い方に集中している気がします。
身体の中身が伴っている様子でなければ、手や腕を脱力させようとしても、その姿は私には、何と言いましょうか、チグハグに見えて仕方がないのです。
手や腕のそれはあくまでも結果でしかないのです。
逆に、身体の中身が、澄んでいて広々としており、秩序立ったものがシンプルにそこに有れば、
腕も手首も指先も結果として、楽器・音・楽曲と連動して 落ちる・立ち上がる・沈む・浮き上がる・静止する・振れる・回旋する など多様に反応していきます。
その、澄んでいて広々としていて、
もっと言えば、風が通り抜けるほどの透明さ
これが最大条件としての在り方です。
「姿を消す」
呼吸の浅さに気づき、腹深く落ち着いた息づかいになります。
忍者になるのです。
「密息」の記事で紹介させていただいた中村明一さんは、この様子を
世界が静止しているよう、と喩えていらした気がします。とても良く分かる!とその時思い、シンプルだけどなんて素晴らしい表現だろう、とも思いました。
まさに、そこに音楽のみが存在している、その様です。
さらにこの状態で、
そこにたったひとつ残されたあるものをよく実感すること、この条件が加わるのですが、
それは身体の芯であり、実はそれが "秩序立った、もっとも信頼のおけるもの" ということなのです。
そのような身体の中身が出来ていることが前提としてあって初めて、
楽器に触れている感覚
楽器から受け取る指先の感触
などのインプットが可能になり、表現に繋がっていくのですが・・・
中枢は末梢の奴隷とは良く言ったもので、ジストニア関係なく、意図しなくとも手指にでっかい脳みそが付いているかのように学習させてしまっている人がほとんどでしょう。
やはりまずは中枢神経からの伝達が最優先され、安定されているべきだと思います。言い換えれば、
たゆまなく流れ伝えられている。
順々に、そして一斉に。
それがどこを経由して末梢へ由来していくのか?
この流れの道筋が本当に身体を通して見えてくるのです。
なにかしている時でもそうでない時でも、忍者のごとく姿を透明にする。
すると、なにもしていない時に特に、自分の呼吸だけが時間をたどって進んでいるかのようになり、周りの世界が静寂に包まれる。
これを遂行し続けていくと、ある不思議な変化が起こる。不思議といってもそれは私にとっては実にリアルな感じなのですが、
自分がこの目で何かを見ているのではなく、
"周りの世界のほうが、自分をみつめている"
"世界から見つめられている"
という感覚になっている。
さらには、その世界が、
"自分にむかって微笑みかけている"
という、それはなかなか癖になりそうな居心地の良いものへと移り変わっていくのです。
名越さんのあのお話は、背景こそ違えど、こういう体感のことをおっしゃっていたんではないだろうか・・・
これは宗教染みた話でも何でもない。
なぜなら例えば、じゃあ何かしていて目的意識が明確な時はどうか?というと、
キッチンでフライパンをゴシゴシ磨いているとしよう。空気のような存在で手や腕を動かして、フライパンそのものを主役として大切に扱っていると、だんだん、自分がフライパンに見つめられている気分になるのだ!
フライパンの身になってみれば、自分は試されている というのも想像の域で、実におもしろいことに。
身体を通した価値観で全てに触れていると、『物に対して想いを込めて大切に扱う』というよく聞くセリフが、とても深いものになる。
素晴らしい演奏家が、主観・客観性に対してものすごく厳しくても、どこか物腰柔らかい雰囲気を持っているのは、このようなことに近い身体の感覚が、少なからず身についているからだと思う。
ピアノという楽器に向かっているとしたら?
そう、
"ピアノに見つめられ、そして、そのピアノが自分に微笑みかけている・・・"
ピアノが自由に鳴り響き出す。
その側にいるのは、透明な存在としての弾き手。
これは、自分がピアノを鳴らしているというより、
"ピアノが自分に寄り添って鳴っている"
という感覚。
「驚くべきことに、世界は事物ではなく、むしろ人格なのである。」
探して見つけました。↓こちらに書かれてありました。ご興味のある方はどうぞ。
東京都福生市の拙宅(マンション 一室)でピアノ・レッスンとピアノ・レンタルを始めております。
ヤマハグランドピアノ C3A・ヤマハアップライトピアノ U1H
1台ずつ入っているお部屋です。
今のところ暫くは仙台の教室がメインであるため、月に一度の上京の際 となりますが、
ご都合が合って希望される方がいらっしゃれば、ご予約いただきレッスンを行なっています。
また、個人での練習や お友達同士での弾き合い会(2〜4名ほど)、レッスン場をお探しの先生、受験のためや 発表会・コンサート・コンクール等のための練習ピアノが必要な方など、
私の限られた日程と時間帯ではありますが、
レッスンの空き時間・音出し可能時間内であれば、こちらも予めご予約いただき、お部屋をお貸ししております。
JR中央青梅線・八高線・五日市線・西武拝島線「拝島駅」北口より徒歩5分
☆12月,1月のレッスンorレンタル予定日
2018年 1月12日〜14日,21日〜22日
2月9日〜11日
お問合せフォームは こちら♪
レッスン希望 または レンタル希望の旨をお知らせください。
レッスン料やレンタル料、時間帯、地図などの詳細をmailにてご案内いたします。